第445話
S級ダンジョン【ゴブリンの要塞、ガンドール】の最深部。
その骸骨でできた玉座の間は、絶対的な静寂に包まれていた。先ほどまでこの空間を支配していたハイゴブリンキングの禍々しいオーラは、嘘のように消え去っている。後に残されたのは、おびただしい数のS級魔石が放つ優しい光と、その中心で、自らが引き起こした奇跡の余韻に浸る、一人の美少女の姿だけだった。
「…ふぅ」
神崎隼人――いや、今の彼女をそう呼ぶのは、少しだけ違うのかもしれない。彼女は、その場にふわりと座り込むと、深く、そしてどこか満足げなため息をついた。その仕草一つとっても、これまでのJOKERが持ち得なかった、しなやかな優雅さが宿っている。
彼女の配信画面には、依然として900万に迫る、天文学的な数字の同時接続者数が表示され、コメント欄は世界のあらゆる言語の絶叫と賞賛で、完全に埋め尽くされていた。
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!』
『勝った!S級ボスを、ワンパン!』
『JOKERちゃん、最強!!!!!!!!!!!!!!!!』
『なんだよ、この美少女…。強すぎるだろ…』
『A new goddess is born today. All hail JOKER-chan!』(今日、新たな女神が生まれた。JOKERちゃん、万歳!)
その、あまりにも熱狂的な、そしてどこまでも混沌とした世界の反応。
それを、彼女はレースのヴェールの奥から世界を眺める女王のように、ただ静かに、そしてどこか楽しそうに、眺めていた。
彼女は、その細く美しい指先で、ARウィンドウを操作し、ドロップしたアイテムをインベントリへと収納していく。そして、その日の「仕事」が終わったことを確認すると、ARカメラの向こうの、900万人の観客たちへと、その視線を向けた。
その瞳には、悪戯っぽい光が宿っていた。
「さて、と」
彼女の、その鈴を転がすような、しかしどこか芯の通った声が、世界の鼓膜を揺らす。
「今日のショーは、これでおしまい。…と、言いたいところだけど」
彼女は、そこで一度言葉を切ると、最高の、そして最も蠱惑的な笑みを浮かべた。
「せっかく、こんなに可愛い姿になったんだもの。このまま帰るのは、少しもったいないわよね?」
「だから、これから一人、会いに行きたい人がいるの。この姿を見たら、あの子、どんな顔をするかしら。ふふっ、楽しみね」
その、あまりにも意味深な、そしてどこまでも期待感を煽る一言。
それに、コメント欄が、再び爆発した。
『は!?』
『誰!?誰に会いに行くんだ!?』
『まさか…雫さんか!?』
『うおおおおお!修羅場だ!最高の修羅場が、始まるぞ!』
その熱狂をBGMに、彼女はその場にポータルを開いた。行き先は、いつものタワーマンションではない。
国際公式ギルド、日本支部。
彼女は、その光の渦の中へと、まるでファッションショーのランウェイを歩くトップモデルのように、優雅に、そしてどこまでも楽しそうに、その身を投じていった。
◇
国際公式ギルド、日本支部。その一階に広がる巨大な換金所のフロアは、その日も変わらず、日常の喧騒に満ちていた。
だが、その空気は、一つの、あまりにも異質な存在の出現によって、一瞬にして凍りついた。
高ランク探索者専用のポータルゲートが、まばゆい光を放つ。そして、その光の中から、一人の少女が、静かに、そして確かな足取りで、その姿を現したのだ。
腰まで届く、艶やかな黒髪。
その身を包む、黒い戦闘用のドレス。
そして何よりも、その全身から放たれる、S級探索者ですら思わず息を呑むほどの、圧倒的なプレッシャー。
フロアにいた、全ての探索者たちが、その動きを止めた。
囁き声が、波のように広がる。
「…おい、見ろよ…」
「…誰だ、あの子…?見たことないぞ…」
「でも、あのオーラ…。間違いなく、A級…いや、それ以上だ…」
彼女は、その周囲の視線を、意にも介さない。
ただ、自らの「目的」を果たすためだけに、そこに来ていた。
彼女は、その喧騒の、まさにその中心を、いつものように、フロアの最も奥にある、高ランク探索者専用のカウンターへと向かう。
そこに、彼女はいた。
艶やかな栗色の髪をサイドテールにまとめた、知的な美貌の受付嬢。水瀬雫。
彼女は、山のように積まれた書類の処理に追われ、その来訪者の存在に、まだ気づいていないようだった。
JOKER――いや、今の彼女は、その光景に、満足げに頷いた。
(…よしよし。気づいてないわね。最高の、サプライズになりそうだわ)
彼女は、その完璧な計画の成功を確信し、カウンターの前で足を止めた。そして、その鈴を転がすような声で、その名を呼んだ。
「――雫さん」
その、あまりにも美しく、そしてどこか聞き覚えのある声。
それに、雫は、その書類から顔を上げた。
そして、目の前の、そのあまりにも神々しい少女の姿を、その大きな瞳に映した、その瞬間。
彼女の、そのプロフェッショナルな笑顔が、完全に、固まった。
だが、その反応は、JOKERが期待していたような、驚愕や、困惑ではなかった。
それは、どこか呆れたような、そしてそれ以上に、何かを慈しむような、温かい、ため息だった。
「…はぁ」
雫は、その美しい眉を、わずかにひそめた。
そして、彼女は言った。
その声には、絶対的な、そしてどこまでも揺るぎない、確信が宿っていた。
「――配信、見てましたよ。JOKERさん」
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
そして、その沈黙を破ったのは、JOKERの、その日一番の、そして最も素直な、驚愕の声だった。
「――あら、見てたのね」
彼女の、その完璧だったはずのサプライズ計画。
それが、あまりにもあっけなく、そしてどこまでもエレガントに、打ち砕かれた瞬間だった。
彼女は、その完璧だったはずのポーカーフェイスを、わずかに、しかし確かに、崩壊させた。その美しい頬が、ほんのりと、赤く染まっている。
「…な、なんだ。つまらないわね」
彼女は、その悔しさを隠すかのように、ぷいと、そっぽを向いた。
「ビックリさせようと思って、わざわざこの姿で来てあげたのに。残念だわ」
その、あまりにも子供っぽい、そしてどこまでも可愛らしい、負け惜しみ。
それに、雫は、これまでにないほどの、最高の笑顔で、そしてどこまでも嬉しそうに、答えた。
「いえいえ、ビックリしましたよ。本当に」
彼女の声は、弾んでいた。
「まさか、本当に変身されるとは思いませんでしたし、何より…その…」
彼女は、そこで一度言葉を切ると、その大きな瞳で、目の前の美少女の姿を、改めて、じっくりと、そしてどこまでも真剣に、値踏みするように、眺め始めた。
そして、彼女は言った。
その声は、心の底からの、本音だった。
「…すごく、お綺麗です。JOKERさん」
その、あまりにも真っ直ぐな、そしてどこまでも純粋な、賛辞。
それに、今度はJOKERの方が、完全に、言葉を失った。
彼女の、その美しい顔が、これ以上ないほど、真っ赤に染まっていく。
「…そ、そうかしら…?」
「はい。間違いありません」
雫は、きっぱりと頷いた。
「ですが、少しだけ意外でしたわ。てっきり、もっとこう…金髪碧眼の、グラマラスな美女に変身されるのかと、勝手に想像しておりましたので」
「…なんでだよ」
「いえ、なんとなくです」
雫は、そう言って悪戯っぽく笑った。
「でも、その黒髪の、どこかクールで、ミステリアスな雰囲気。とても、あなたらしいと思います。ええ、本当に」
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも彼女の心を理解しているかのような、分析。
それに、JOKERは、もはや反論する気力もなかった。
ただ、その場で呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
その、二人の、あまりにも独特な、そしてどこまでも温かい空気。
それを、遠巻きに見ていた、他の探索者たち。
そして、何よりも、その全てをリアルタイムで目撃していた、900万人の観客たち。
彼らの、そのコメント欄は、もはやただの熱狂ではない。
一つの、あまりにも尊い「てぇてぇ」空間へと、完全に、その姿を変えていた。
『なんだこれ…』
『なんだよ、この空気…』
『尊い…。尊すぎる…』
『JOKERちゃん、ガチ照れしてて、可愛いすぎるだろ…』
『雫さん、強すぎる…。完全に、JOKERを手玉に取ってやがる…』
その、温かい声援をBGMに、雫は、そのプロフェッショナルな顔へと、再び戻った。
そして彼女は、そのあまりにも美しい「顧客」へと、一つの、あまりにも現実的な、そしてどこまでも優しい「提案」を、した。
「それにしても、JOKERさん。その、アニマとアニムスの円環、拾われたのですね。おめでとうございます」
「ええ、まあ」
JOKERは、まだ少しだけ照れながら、答えた。
「でも、まあ、あれは出やすい奴で、S級ならわりと拾う部類ですからね。そこまで、驚くようなものでもありませんわ」
雫の、そのあまりにもさらりとした、そしてどこまでもプロフェッショナルな一言。
それに、JOKERの眉が、ピクリと動いた。
「…へえ?そうなの?」
「ええ。ですが、そのほとんどが、市場には出回りません。皆さん、あなたのように、ご趣味で、コレクションされているようですので」
「…なるほどね」
その、ギルドの職員だけが知る、世界の裏側の情報。
それに、JOKERは、静かに頷いた。
そして、雫は続けた。その声には、一つの、あまりにも重要な、そしてどこまでも彼女らしい、気遣いが宿っていた。
「ですが、JOKERさん。一つ、お困りのことがあるのでは?」
「…何がだ?」
「その、お召し物ですわ」
雫は、そう言うと、JOKERの、その黒い戦闘用のドレスを、指し示した。
「ダンジョン産出の物や、魔素エネルギーの影響を受けてる品なら、所有者の体格に合わせて、自動でサイズが変換されます。ですが、他の服…例えば、普通のデパートで売っているようなお洋服は、そうはいきませんわ」
「つまり…今のあなたのお姿で、このギルドを一歩でも出れば、あなたは『服を持っていない』ということになってしまいますわよ?」
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも現実的な、指摘。
それに、JOKERは、はっとしたように、目を見開いた。
そうだ。
俺は、今、全裸同然なのではないか…?
その、あまりにも遅すぎる、しかしどこまでも重大な事実に、彼女の顔が、再び真っ赤に染まる。
「――だから、服でも買いに行きましょうか?」
雫は、そう言って、最高の、そしてどこまでも悪戯っぽい笑みを浮かべた。
その、あまりにも魅力的で、そしてどこまでも逃げ場のない、提案。
それに、JOKERは、数秒間、沈黙した。
そして彼女は、観念したように、深く、そして重いため息をついた。
「…うーん、そうね。視聴者受けも良いし、アニマとアニムスの円環は、売らずに取っておこうと思うわ。だから、服は欲しいわね」
その、あまりにも正直な、そしてどこまでも彼女らしい、結論。
それに、雫の顔が、ぱっと、満開の花のように輝いた。
「ええ!じゃあ、今度みんなで買いに行きましょう!」
彼女の声は、弾んでいた。
「美咲さんや、静さんもお誘いして!詩織様や、祈様も、きっと喜んでくださいますわ!」
その、あまりにも楽しそうな、そしてどこまでも壮大な、女子会の計画。
それに、JOKERは、ふっと、その口元を緩ませた。
「ええ。ぜひ、お願いするわ」
「はい!じゃあ、ラインでまた連絡しますね!」
その、あまりにも穏やかで、そしてどこまでも温かい、約束。
それが、交わされた、その時だった。
JOKERは、ふと、我に返った。
そして、彼女は言った。
その声は、どこか名残惜しそうな、しかしどこまでもショーマンらしい、響きを持っていた。
「――じゃあ、この辺で、女の私は帰るわ」
彼女は、そう言うと、その指にはめられた、アニマとアニムスの円環を、そっと外した。
その瞬間、彼女の、その美しかったはずの体が、再び、まばゆい光に包まれる。
雫の目の前で、そのしなやかな曲線は、再び、あの見慣れた、無骨で、そしてどこまでも頼もしい、男のそれへと、戻っていった。
光が収まった時。
そこに立っていたのは、いつもの、黒いローブを纏った、神崎隼人――“JOKER”だった。
「――ふぅ」
彼は、その生まれ変わった(?)体を、確かめるかのように、数度、腕を回した。
そして彼は、その経験したことのない、あまりにも奇妙な感覚の、その全てを、一つの、あまりにも的確な言葉で、要約した。
「なるほどな。どんなもんかなと思って試したが、どっちかと言うと、女の別人格が出来るって感じだな。根本は同じだが、別の性って、こんな感じなんだな」
その、あまりにも冷静な、そしてどこまでもギャンブラーらしい、自己分析。
それに、雫は、その大きな瞳を、楽しそうに細めた。
彼の、あまりにも奇妙で、そしてどこまでも刺激的な、休日は、終わった。
だが、その心には、新たな、そしてどこまでも温かい、未来への約束が、確かに灯されていた。




