第444話
その日の日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』は、穏やかな凪の中にあった。世界のトップギルドたちがネファレム・リフトの階層を競い合う、その遥か上空。ただ一人、全く別の次元を飛び続ける男がいた。
神崎隼人――“JOKER”。
彼の配信は、もはやただのダンジョン攻略ではない。一つの神話が紡がれる瞬間を、リアルタイムで目撃するための、世界でただ一つの特等席だった。
【配信タイトル:【S級ダンジョン】】
【配信者:JOKER】
【現在の視聴者数:8,982,194人】
S級ダンジョン【ゴブリンの要塞、ガンドール】。
その内部は、彼が数週間前に蹂躙した入り口付近とは、全く違う空気に支配されていた。壁も、床も、天井も、全てが磨き上げられた黒曜石で作られ、その表面には、無数の骸骨が埋め込まれている。時折、その骸骨の眼窩から、不気味な紫色の燐光が明滅し、どこまでも続く回廊を、不気味に照らし出していた。空気は、ひんやりと、そしてどこまでも死の匂いに満ちていた。
「…はぁ。相変わらず、趣味の悪い内装だな」
JOKERは、ARカメラの向こうの900万に迫る観客たちに、聞こえるように呟いた。
彼のスマイト徒手空拳ビルドは、すでにレベル75に到達していた。デルヴ鉱山での常軌を逸したレベリングと、その後のリフト周回。そして、皇帝の迷宮の試練を三度乗り越え、アセンダンシーポイントも6ポイントを取得済み。彼の力は、もはやA級の領域を、完全に超越していた。
今日の目的は、ただの「作業」。
このS級ダンジョンからドロップするという、いくつかのユニークアイテムの素材集めと、そして何よりも、彼の新たなビルドのための、莫大な魔石稼ぎ。
それが、今日の、退屈なはずだった日常の、始まりだった。
「グルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!」
彼の、そのあまりにも不遜な独り言を、肯定するかのように。
回廊の奥から、地響きと共に、十数体の巨大な影が、その姿を現した。
一体一体が、A級探索者に匹敵する力を持つという、ハイゴブリン。その中でも、選りすぐりのエリートで構成された、王直属の親衛隊。
その身を包んでいるのは、ただの革鎧ではない。ドラゴンの鱗を加工して作られた、禍々しい輝きを放つ黒いプレートアーマー。その手に握られているのは、巨大な二本の戦斧。
その、あまりにも圧倒的な威圧感と、統率の取れた佇まい。
だが、JOKERは、その光景に、何の感情も見せなかった。
彼の脳内では、デューク・エリントンのオーケストラが奏でる、スウィング・ジャズが鳴り響いている。
(…ほう。『A列車で行こう』、か。悪くねえ選曲だ、俺の脳内DJも)
彼は、その軽快なリズムに合わせるかのように、その黄金の拳を構えた。
そして、彼は叫んだ。
その声は、この地獄の、全ての空気を震わせた。
「オラオラオラオラオラオラオラオラ!」
黄金の雷霆が、嵐のように、吹き荒れる。
スマイトのラッシュで、敵が溶けていく。
S級の、あの硬い装甲を誇るゴブリンたちが、まるでF級の雑魚のように、その一撃で、光の粒子となって消滅していく。
その、あまりにも壮絶な光景。
それに、コメント欄は、もはや意味をなさない絶叫の洪水で、埋め尽くされていた。
『なんだ、これ…』
『なんだよ、これ…』
『火力、おかしいだろ!』
その熱狂の中心で、JOKERは、ただ楽しそうに、その拳を振りい続ける。
そして、彼が最後の一体を、その拳で宇宙の塵へと変えた、まさにその瞬間だった。
彼の、その魂の奥深く。
一つの、黄金の天秤が、静かに、しかし確かに、その傾きを変えた。
【運命の天秤】。
彼の、そのユニークスキルが、所有者の意思とは関係なく、世界の理そのものに、干渉したのだ。
JOKERの視界が、一瞬だけ、モノクロームへと反転する。
そして、その無彩色の世界の中で、ただ一点だけ。
彼が最後に倒した、ハイゴブリンの亡骸が、これまでにないほどの、まばゆい虹色の輝きを放っていた。
「…ほう?」
彼の、その眠たげな切れ長の瞳が、信じられないというように、大きく見開かれた。
(…自動発動、だと…?初めてだな、こんなことは)
彼の、ギャンブラーとしての魂が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。
これは、ただのドロップではない。
神々の、気まぐれな、そして最高の「贈り物」だ。
光が収まった時、そこに残されていたのは、おびただしい数のS級魔石と、そしてその中心で、静かに、しかし絶対的な存在感を放って鎮座する、一つの、あまりにも美しい指輪だった。
一本の白金の線と、一本の黒金の線。その二つが、互いを求め、そして補い合うかのように、完璧な二重螺旋を描きながら一つの輪を形成している。
「…なんだ、これ…」
彼の口から、素直な、そしてどこまでも戦慄に満ちた、感嘆の声が漏れた。
彼は、その指輪を、おそるおそる拾い上げた。
ひんやりとした、滑らかな感触。
彼がそれを視界に入れたその瞬間、彼のARコンタクトレンズが、その神々の遺産の、その全てを、彼の視界へと映し出した。
名前:
アニマとアニムスの円環
(The Circlet of Anima and Animus)
レアリティ: 神話級 (Mythic-tier)
その、あまりにも荘厳なテキスト。
そして、その効果を読んだ、JOKERの、その思考が、完全に停止した。
「…は?」
彼の、その素っ頓狂な声。
それが、引き金となった。
コメント欄が、これまでのどの熱狂とも比較にならない、本当の「爆発」を起こした。
『は!?』
『アーティファクト!?!?』
『JOKER、ついに引きやがった!初の、アーティファクトドロップ!』
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!』
その、興奮の渦の中で。
JOKERは、ただ静かに、そしてどこまでも楽しそうに、笑っていた。
彼の、退屈だった日常は、終わりを告げた。
新たな、そして最高の「おもちゃ」が、この世界のテーブルに、配られたのだから。
彼の、本当の「ショー」が、今、始まろうとしていた。
「おいおい、マジかよ…。俺が、初めて自力でドロップしたアーティファクトが、これかよ…」
彼は、そのあまりにも意外な、しかしどこまでも面白い、運命の悪戯に、腹を抱えて笑った。
そして、その笑い声の余韻の中で。
彼の、900万人の観客たちの、その無邪気な、そしてどこまでも残酷な「お願い」が、コメント欄を、完全に埋め尽くし始めた。
『JOKER!使ってみて!』
『そうだ!使ってみろ!』
『変身!変身!変身!変身!』
その、あまりにも巨大な、そしてどこまでも子供っぽい、コールアンドレスポンス。
それに、JOKERは、深く、そして重いため息をついた。
「…お前らなぁ…」
彼の、その呆れたような声。
だが、その口元は、確かに、笑っていた。
「…まあ、良いか。これも、ショーの内だ」
彼は、観念したように、そう言うと、その神話級の指輪を、自らの、左手の人差し指へと、そっとはめた。
そして、彼はその目を閉じた。
そして、彼は念じた。
ただ、一言。
(――変われ)
その瞬間だった。
彼の、その鋼鉄のようだったはずの体が、内側から、まばゆい光を放ち始めた。
骨が、軋む。
筋肉が、再構築されていく。
身長が、わずかに縮み、そしてその体つきは、よりしなやかな、そしてどこまでも美しい曲線を描き始める。
喉仏が、消える。
声帯が、変質していく。
その、あまりにも根源的な、そしてどこまでも神秘的な、肉体の再創造。
その全ての過程を、彼は、その明晰な意識のまま、ただ静かに、そしてどこか他人事のように、観測していた。
光が収まった時。
彼は、そこに立っていた。
いや、「彼女」は、そこに立っていた。
「…あー、あー」
彼女の、その唇から漏れた、最初の声。
それは、もはやあのJOKERの、低く、そしてどこか気怠そうな響きではない。
鈴を転がすような、しかしどこか芯の通った、美しい、アルトの声だった。
「…声、変わってるわね」
彼女は、そう呟くと、その配信画面の隅に表示されている、自らの姿を、一瞥した。
だが、そこには、まだ黒いローブを纏った、男の姿が映っているだけだった。
「これじゃ、よく分からないわね。…カメラ」
彼女が、そう静かに命じると、彼女の周囲を、常に浮遊していた、ステルス機能付きのドローン型カメラが、その姿を現した。
「私の外見を、写しなさい」
その命令に、ドローンは、完璧に応えた。
カメラは、彼女の周囲を、まるでファッションショーのランウェイを撮影するかのように、滑らかに、そしてあらゆる角度から、その姿を映し出し始めた。
そこにいたのは、一人の、黒髪の美少女だった。
腰まで届く、艶やかな黒髪は、光を反射して、まるで濡れているかのように、しっとりと輝いている。
その顔立ちは、JOKERの、そのシャープな面影を残しながらも、その全ての線が、より柔らかく、そしてどこまでも優美な曲線へと、描き直されていた。
切れ長の瞳は、そのままに、その奥に宿る光は、より深く、そしてどこか妖艶な色を帯びている。
その身を包んでいるのは、先ほどまで彼が着ていたはずの、だぼっとしたローブではない。
彼女の、そのしなやかな体のラインを、完璧に、そしてどこまでも美しく描き出す、黒い、タイトな戦闘用のドレスへと、その姿を変えていた。
その、あまりにも圧倒的な、そしてどこまでも美しい、変貌。
それに、彼女は、そのモニターに映る自らの姿を、まるで他人事のように、値踏みするかのように、眺めていた。
そして、彼女は言った。
「…見た目は、悪くないわね。女の子の私って」
その、あまりにも冷静な、そしてどこまでも自信に満ちた、自己評価。
それに、コメント欄は、もはや制御不能の熱狂の坩堝と化した。
もはや、それは言葉にならない、ただの、魂の絶叫の、洪水だった。
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!』
『美少女すぎる!!!!!!!!!!!!!!!!』
『JOKERちゃん、爆誕!!!!!!!!!!!!!!!!』
その熱狂を、彼女は、楽しむように感じながら、続けた。
その声には、新たなゲームの始まりを告げる、女王の響きがあった。
「せっかくだし、このまま今日は冒険してみましょうか」
彼女は、そう言うと、再びその視線を、ダンジョンの、その薄暗い奥深くへと向けた。
そして、彼女は再び、その黄金の拳を構えた。
その、あまりにも華奢な、しかし神の力を宿した拳。
彼女は、その拳を、数度、開いたり、閉じたりして、その感触を確かめていた。
そして、彼女は呟いた。
「うーん。腕のサイズが変わったけど、支障はなさそうね」
その、あまりにもプロフェッショナルな、そしてどこまでも戦闘狂らしい一言。
それに、コメント欄は、再び、そして最後の、巨大な熱狂の渦に、完全に飲み込まれた。
その中心で、一人の視聴者が、この歴史的な一夜の、その全てを象徴する、一つの言葉を、投下した。
『――JOKERは、新しい扉を開けた』
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも祝福に満ちた一言。
それに、彼女は、その美しい顔に、最高の、そして最も意地悪な笑みを浮かべて、答えた。
その声は、どこまでも楽しそうだった。
「――あんた達ねぇ。全く、もう」
彼女は、そう言うと、その生まれ変わった体で、S級の、その地獄の軍勢の中へと、再び、その身を投じていった。
その、あまりにも美しい、そしてどこまでも力強い、蹂躙劇。
その中で、彼女は、その手にした、このあまりにも面白すぎる「おもちゃ」の、その処遇について、考えていた。
(…うーん。評判良いし、売らないで取っておきましょうか)
彼女の、新たな伝説が、また一つ、この世界の歴史に、確かに刻み込まれた、その瞬間だった。




