第443話
ピロン。
彼のARコンタクトレンズの片隅に、ごく普通のLINEの通知が、淡い光を灯した。
そこに表示された名前に、JOKERは、その眠たげな切れ長の瞳を、わずかに見開いた。
送り主は、冬月 祈。
この世界の、理の外側に立つ、もう一人の怪物。
祈: 「レベル70、超えたようですね」
その、あまりにもシンプルで、そしてどこまでも彼女らしい、用件だけのメッセージ。
それに、JOKERは、ふっと、その口元を緩ませた。
JOKER: 「ああ。見てたのかよ」
祈: 「ええ、配信は常に。それで、本題です。S級ダンジョンにいけるようになったらしいので、一緒にS級ダンジョンを蹂躙しようか?」
その、あまりにも唐突な、そしてどこまでも挑戦的な、誘いの言葉。
蹂躙、ね。
JOKERは、そのあまりにも物騒な単語の響きに、思わず笑みを漏らした。
だが、その誘いは、彼にとって、これ以上ないほど魅力的だった。
S級。
彼が、次なるテーブルとして、その名を意識し始めていた、未知の領域。
それを、この世界で最も信頼でき、そして最も予測不能な、この女と共に。
最高の、ギャンブルじゃねえか。
JOKER: 「いいぜ。報酬は折半な」
祈: 「当然です。では、30分後、アジールで」
その、あまりにもビジネスライクな、そしてどこまでも信頼に満ちたやり取り。
それが、この世界の、新たな伝説の始まりを告げる、ゴングとなった。
◇
異空間【黄昏の港町アジール】。
その、濡れた石畳の路地。
JOKERは、その約束の時間きっかりに、ポータルからその姿を現した。
そして、その数秒後。
彼の目の前の空間が、まるで水面のように揺らめき、そこから、一人の少女が、音もなく、その姿を現した。
冬月 祈。
その身を包んでいるのは、いつもの、夜空の星々をそのまま閉じ込めたかのような、黒と紫の、禍々しくも美しいゴシックドレス。その顔は、レースのヴェールに覆われて、見えない。ただ、そのヴェールの奥で、二つの紫色の瞳だけが、静かに、そしてどこまでも無機質に輝いていた。
「…早いな」
「あなたこそ」
二人は、それ以上の言葉を交わすことなく、ただ静かに、アジールの、その最も奥深くにある、S級ダンジョンゲートへと、その歩みを進めた。
彼らが選んだのは、S級の中では、比較的難易度が低いとされる、【氷結の心臓】。
だが、その門から漏れ出す冷気は、A級探索者ですら、その魂を凍てつかせるほどの、絶対零度の殺意を放っていた。
彼らが、そのゲートをくぐった、その瞬間。
世界の、理が、再び、その牙を剥いた。
【世界の呪い:全ての属性耐性 -60%】
だが、二人は動じない。
彼らの魂は、すでにその程度の理不尽など、日常の一部として受け入れていた。
ダンジョンの内部は、どこまでも続く、氷の回廊だった。
壁も、床も、天井も、全てが万年氷でできており、その表面には、古代の、しかし決して解けることのない霜の結晶が、美しい幾何学模様を描いている。
その、あまりにも静かで、そしてどこまでも美しい、死の世界。
その静寂を、破ったのは、無数の、甲高い咆哮だった。
回廊の、その奥から。
一体、また一体と、氷でできた巨大な狼の群れが、その青白い瞳を憎悪に燃え上がらせながら、なだれ込むように、殺到してきた。
その一体一体が、A級上位の探索者ですら、苦戦を強いられるという、S級のエリートモンスター、【氷獄の魔狼】。
その数が、数十体。
絶望的な、物量。
だが。
「――面倒ですね」
祈が、その抑揚のない静かなソプラノの声で、呟いた。
彼女は、その華奢な、しかし美しい指先を、前方に向けた。
そして、彼女は詠唱した。
その声は、囁くようだった。
遠距離で祈の魔法で殲滅していく。
それは、もはや戦闘ではなかった。
ただ、完璧に計算され尽くした、死の連鎖反応だった。
数十体の、S級のエリートモンスターが、その牙を一度も剥くことなく、ただ為すすべもなく、光の粒子となって消滅していった。
その、あまりにも圧倒的な、そしてどこまでも美しい蹂躙劇。
その中で、数体の、特に俊敏な個体が、その死の連鎖を、かろうじて逃れていた。
だが、その彼らの、ささやかな希望を、もう一つの、絶対的な絶望が、打ち砕く。
漏れてきた奴をスマイトが仕留める。
JOKERの、その黄金の拳が、閃光のように煌めいた。
「オラッ!」
黄金の雷霆が、炸裂する。
その、あまりにも過剰な火力。
それに、生き残った魔狼たちが、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その存在ごと、この世界から完全に消滅していった。
静寂。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、おびただしい数のS級魔石の山を、退屈そうに眺める、二人の、神々の姿だけだった。
「…ふぅ」
JOKERは、深く、そして満足げに、息を吐いた。
「なかなか、良い連携じゃねえか」
「ええ。悪くは、ありませんでしたわね」
祈もまた、そのレースのヴェールの奥で、静かに頷いていた。
彼らは、その後も、その圧倒的なまでの連携で、S級ダンジョンを、まるで散歩でもするかのように、進んでいった。
そして、その道中で。
彼らは、まるでこの世界の、本当の理を、確かめるかのように、雑談しながら進む。
「そういえば、祈」
JOKERが、その目の前の氷のゴーレムを、スマイトの一撃で粉砕しながら、言った。
「お前、先週、銀座に新しくできたフレンチ、もう行ったか?」
「ええ。一昨日、一人で」
祈は、その指先から放たれる魂喰の奔流で、ゴーレムの軍勢を溶かしながら、答えた。
「キャビアと、ホタテのムース。なかなか、悪くはありませんでしたわ。あなたも、行ってみるといい」
「…ほう。じゃあ、今度、美咲でも連れて行ってやるか」
「ええ。きっと、喜びますわ」
「そういえば、この前、面白いユニークを拾ってな」
JOKERは、今度は、その足元から突き出してくる氷の槍を、軽やかなステップで避けながら、言った。
「【大鴉の使い魔】。まあ、大した性能じゃなかったが、フレーバーテキストが、面白くてな」
その、あまりにもシュールで、そしてどこまでも日常的な会話。
それに、祈が、ふと、その足を止めた。
「…そういえば、JOKERさん」
彼女の声が、わずかに、不思議そうな響きを帯びていた。
「S級ダンジョンでは、まだ拾ってないな、と話をしてると…」
その、あまりにも唐突な、そしてどこまでもフラグに満ちた一言。
それに、JOKERは、ふっと、その口元を緩ませた。
「…おいおい、やめろよ、そういうの…」
彼が、そう言い終えるか、終わらないかの、まさにその時だった。
彼らが、今しがた倒した、一体の巨大なアイス・リッチ。
その、光の粒子となって消えゆく亡骸の、その中心に。
これまで誰も見たことのない、一つの異質な「光」が、生まれたのだ。
それは、紫色の魔石の光ではない。青白いエッセンスの光でもない。
まるで、古代の翡翠を磨き上げたかのような、滑らかで、そしてどこまでも気品のある、深い緑色の光だった。
「…ほら、見ろ」
JOKERは、呆れたように、そしてどこか楽しそうに、言った。
「お前が、余計なこと言うからだ」
その光が収まった時、そこに残されていたのは、一つの、手のひらサイズの、美しいビリジアン色の宝石だった。
ユニークがドロップする。
「…あらあら」
祈が、そのレースのヴェールの奥で、その紫色の瞳を、楽しそうに細めた。
「これは、これは…」
JOKERは、その宝石を拾い上げた。
ひんやりとした、滑らかな感触。
彼がそれを視界に入れたその瞬間、彼のARコンタクトレンズが、その情報を自動的に表示した。
そして、そのテキストを、彼は声に出して、読み上げた。
その声は、自分でも信じられないほど、震えていた。
「…不自然な本能…だと…?」
不自然な本能
ビリジアンジュエル
個数制限: 1
範囲: 小 (800)
範囲内で割り当てられた通常パッシブスキルは何も付与しない
範囲内の未割り当て通常パッシブスキルの全てのボーナスを付与する
(特殊パッシブ、マスタリー、キーストーン、ジュエルソケット以外のパッシブスキルを通常パッシブという)
フレバーテキスト:「どうしてわかるのかわからない、ただ理解るんだ。」
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
そして、その静寂を破ったのは、祈の、その静かな、しかしどこまでも確信に満ちた、感嘆の声だった。
「話をしてたら早速ドロップしましたね。確か10億円ぐらいで売れるジュエルですね」
「ジュエルソケット一つで、約20ポイント分の見返りがある、強いジュエルです」
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも冷静な、解説。
それに、JOKERは、ふっと息を吐き出した。
そして彼は、その隣に立つ、この世界の、もう一人の怪物へと、問いかけた。
「へー。使うか?」
「いいえ、使いませんから、貴方も使いますか?」
祈の、その即答。
それに、JOKERもまた、即座に答えた。
「いいや、欲しくはないかな」
「じゃあ、売りですね」
その、あまりにもビジネスライクな、そしてどこまでも合理的な、結論。
それに、祈は、そのレースのヴェールの奥で、くすくすと楽しそうに笑った。
そして彼女は、その後の、あまりにも面倒な、しかしどこまでも重要な「手続き」について、その完璧な知識を、披露した。
「貴方が公式オークションで出して、共有ドロップ者として私の名前を出して、落札金額は折半という設定で出せば、ギルドが自動で処理してくれますわ」
「…ほう。便利な世の中になったもんだな」
「じゃあ、そうするか。手続きはこっちでやっておくぜ」
JOKERは、そう言うと、その10億円の宝石を、まるで道端の石ころでも扱うかのように、無造作に、そのインベントリへと放り込んだ。




