第46話
神崎隼人は、D級ダンジョン【打ち捨てられた王家の地下墓地】の、薄暗く静まり返った回廊を背にして、荒い息を繰り返していた。
彼の目の前のARウィンドウには、先ほどまで死闘を繰り広げていた、巨大な墓室の入り口が映し出されている。
その奥からは、もはや追ってくる気配はない。
王は、自らの領域から出ることはないらしい。
彼は、負けたのだ。
探索者としてダンジョンに足を踏み入れて以来、初めての明確な「敗北」。
だが、不思議と彼の心に悔しさや絶望の色はなかった。
むしろ、その瞳は、極上の難解なパズルを前にした子供のように、爛々と輝いていた。
その彼の、敗北とも勝利ともつかない、絶妙な表情。
それを見ていた一万人を超える観客たちもまた、様々な感情の渦に飲み込まれていた。
コメント欄は、彼の無事を安堵する声と、そのあまりにもクレバーな判断を賞賛する声で、埋め尽くされていく。
『おおおおお、生きてる!よかった…!』
『マジで死んだかと思った…。心臓に悪すぎるだろ、この配信…』
『いや、あれは本当によく判断した!あのまま続けてたら、絶対に詰んでたぞ!』
『これぞ戦略的撤退!最高の判断だ、JOKERさん!』
これまでの彼の圧倒的な勝利に、熱狂していた視聴者たち。
彼らは、この初めての「敗北」を通じて、JOKERという男のもう一つの凄み…つまり、**「引くべき時に引ける胆力」**を目の当たりにし、より一層、強く彼に魅了されていた。
熱くなることなく、常に冷静にテーブルの状況を分析し、勝率が最も高い選択を取り続ける。
それこそが、本物のギャンブラーの姿なのだと。
そして、その賞賛の嵐の中で。
いつものように、あのベテラン探索者たちが、この戦いの本当の「意味」と「恐ろしさ」について、その重い口を開いた。
元ギルドマン@戦士一筋: …ふぅ。見事な判断だった、JOKER。俺がお前の立場でも、同じ選択をしただろう。いや、もっと早く逃げ出していたかもしれん。
その最大級の賛辞。
それに、新規の視聴者たちが疑問を呈する。
『え?でも、JOKERさんならもっと粘れば勝てたんじゃないの?』
『HPリジェネも、パリィ回復もあるんだし、時間はかかっても、いずれは…』
その甘い観測を、一刀両断したのは、あの辛口のハクスラ廃人だった。
ハクスラ廃人: 甘えな、素人が。お前らは、何も分かってねえ。あの状況はな、お前らが思っているよりも遥かに、**「詰んでる」**んだよ。
その言葉に、コメント欄がざわつく。
そして彼は、このD級ダンジョンのボスが持つ、本当の、そして最も恐ろしいギミックの正体を、語り始めた。
ハクスラ廃人: お前ら、さっきの凍傷のデバフ見てたか?あれはな、ただスロウとDoTが付くだけじゃねえんだ。あのデバフが一定数スタックすると、全く別の状態異常に**『進化』**するんだよ。
『進化…?』
ハクスラ廃人: ああ。それは、探索者の間で最も恐れられている、最悪の状態異常。**『凍結』**だ。
凍結。
その一言に、経験豊富な探索者たちが、息を呑むのが分かった。
元ギルドマン@戦士一筋: その通りだ。凍結状態に陥った探索者は、5秒間、完全に一切の行動ができなくなる。ポーションを飲むことも、スキルを使うことも、そしてガードや回避すらも許されない。ただの、氷の彫像となる。
ベテランシーカ―: そして本当に恐ろしいのは、ここからです。5秒間の、完全な無防備状態。その間に、周囲の骸骨兵たちから無数の攻撃を受け、再び凍傷のデバフが蓄積されていく。そして、ようやく凍結が解けたその瞬間には、また次の凍結が待っている…。
ハクスラ廃人: そういうことだ。一度凍らされたら、もう終わり。凍傷が溜まり、凍結し、その間にまた凍傷が溜まり、そしてまた凍結する。その無限ループに囚われ、HPが尽きるまで、ただ嬲り殺されるのを待つだけ。まさに死のコンボ。完璧な、「詰み」の盤面だ。
その、あまりにも絶望的な解説。
コメント欄は、先ほどまでの安堵の雰囲気から一転、本当の恐怖と戦慄に支配されていた。
『なんだよ、それ…。クソゲーかよ…』
『そんなの、ソロで勝てるわけねえじゃん…』
『JOKERさん、本当に紙一重だったんだな…。あのまま続けてたら…』
元ギルドマン@戦士一筋: そうだ。だからこそ、俺たちはJOKERの判断を褒めているんだ。パーティプレイなら、まだやりようはある。仲間が凍結を解除するスキルを使ったり、敵のヘイトを取ってくれたりな。だが、ソロであれに遭遇したら、死を覚悟するしかない。撤退という選択肢が残っているうちに、このテーブルから「降りる」。それが、唯一の正解だったんだ。
神崎隼人は、そのコメント欄のやり取りを、静かに見つめていた。
そして、自らの判断が正しかったことを、確信する。
あの時、彼が感じた言いようのない嫌な予感。
それは、ギャンブラーとしての彼の直感が、この無限ループの絶望を、無意識のうちに見抜いていたということなのだろう。
彼は荒い息を整えながら、カメラの向こうの観客たちに、語りかけた。
その表情に、敗北の色はない。
むしろ、その瞳は、最高の難問を前にした挑戦者の光に満ち溢れていた。
「…なるほどな。面白いじゃねえか」
「凍結の無限ループか。最高のイカサマだな。気に入ったぜ」
彼は、ニヤリと笑う。
「どうやって、あのクソったれなオーラと、凍傷のスタックを無効化するか…」
「あるいは、凍結そのものを対策するか…」
そうだ、彼は負けたのではない。
新たな、そして最高に解きがいのある「パズル」を、見つけたのだ。
彼は、今日の配信をそこで終了した。
彼の頭の中は、すでに次なる一手でいっぱいだった。
あの絶望的な状況を覆すための、新たなビルド。
新たな、スキルコンボ。
あるいは、まだ見ぬユニークアイテム。
フラスコか?パッシブスキルか?それとも、全く新しい発想か?




