第441話
その日の東京の空気は、一つの巨大な「夢」の熱に浮かされていた。
【魔石エネルギーを利用した空間拡張技術】。
日米両政府による、あまりにも唐突な、そしてどこまでも世界の常識を覆す発表。その衝撃は、SeekerNetの熱狂的な議論の場から瞬く間に現実世界へと溢れ出し、人々の日常を、その根底から揺さぶり始めていた。
テント一つが、一軒家になる。トラックの荷台が、体育館になる。
そのあまりにも、甘美な未来。それは、もはやただの夢物語ではなかった。現実に、東京の片隅から、その奇跡は静かに、しかし確実に始まっていたのだ。
国際公式ギルド、日本支部。その一階に広がる巨大な換金所のフロアは、その新たな時代の熱狂を、最も敏感に、そして最も雄弁に映し出す鏡となっていた。
フロアに設置された巨大なホログラムモニターが、これまでのダンジョン攻略のライブ映像ではなく、ワイドショーの特集番組を映し出している。画面の中では、アナウンサーが興奮した声で、空間拡張技術によって生まれ変わったワンルームマンションをレポートしていた。
「見てください、皆さん!この広さ!家賃3万円で、このリビングが手に入るんですよ!」
その声に、フロアにいた週末冒険者やF級の若者たちが、羨望のため息を漏らす。彼らの会話は、もはやどのモンスターが強いか、どの装備が優れているかではない。
「うちのアパートも、対象にならないかな…」
「この技術があれば、実家に戻らなくても子供部屋が作れるかもしれない…」
そんな、あまりにも人間的で、そしてどこまでも切実な未来への希望。
そのどこか浮ついた、しかし確かな幸福感に満ちた空気。
その中心を、一人の男が、まるでその全てに興味がないとでも言うかのように、静かに、そして確かな足取りで進んでいく。
神崎隼人――“JOKER”。
彼は、その喧騒のまさに中心を、いつものようにフロアの最も奥にある、高ランク探索者専用のカウンターへと向かう。
そこに、彼女はいた。
艶やかな栗色の髪をサイドテールにまとめた、知的な美貌の受付嬢。水瀬雫。
彼女は隼人の姿を見つけると、その大きな瞳をぱっと輝かせた。そして、そのプロフェッショナルな笑顔の裏に、隠しきれない親密さと、そして何かを待ちわびていたかのような期待の色を滲ませながら、その完璧なカーテシーと共に彼を迎えた。
「――お待ちしていました、JOKERさん」
彼女の声は、いつも通りの心地よいアルトだった。
「ああ」
彼は短く答えると、無言のまま自らのインベントリから、この数日間の「作業」の成果を、カウンターの上へと転送した。
A級上位ダンジョン【ミノタウロスの洞窟】で、彼がただのレベリングとして刈り取ってきたモンスターたちの亡骸。
おびただしい数のA級魔石、数十個のユニークアイテム、そしていくつかの伝説の宝石の欠片。
そのあまりにも圧倒的な物量。
それに、雫は慣れた様子で、しかしどこか誇らしげに、その手元の端末を驚異的な速度で操作し始めた。
数分後。
彼女は、その鑑定と計算の全てを終えた。
「…はい。お待たせいたしました。本日分、合計で2,850,000円となります。口座への送金でよろしいでしょうか?」
「ああ、頼む」
そのあまりにも日常的な、そしてどこまでも非現実的な金額のやり取り。
それが終わった、その時だった。
雫が、ふとフロアのモニターへとその視線を向けた。
「すごいですね、テレビで最近、空間拡張のニュースばかりだなと感じます」
彼女の、その何気ない一言。
それに、JOKERは、それまで無関心だったはずのモニターを一瞥した。
「ああ」
彼は、短く答えた。
「ええ。精製済みA級魔石が必要ですが、それで半永久的な空間拡張技術ですもんね。ギルドとしては、それを作れるのはギルドだけなので、儲かりますが」
雫はそう言って、悪戯っぽく笑った。その声には、ギルド職員としての確かな自負が滲んでいた。
そのあまりにも明け透けな、そしてどこまでも正直な本音。
それに、JOKERは、ふっとその口元を緩ませた。
「ハハハ、なるほどな。喉元を掴んでるのは、ギルドだから嬉しい限りってわけだ」
「**ええ、魔石、魔石が全てって感じですね。**全く、この世界は」
雫はそう言って、肩をすくめた。だが、その表情は、すぐに少しだけ曇った。
「ですが、そのせいで少し困ったことも起きているんです。魔石の需要ばかり増えて、供給が全然増えないんですけどね。また、低級魔石の値段が上がったんですよ。今では、F級で一日頑張れば10万円まで来てるんです。」
「ほう」
「はい。おかげで、F級の新人さんたちはかなり潤っているみたいですけど。その分、B級、C級の中堅層の方々が、少し割を食っているというか…。幸い、装備品の値動きは落ち着きましたけどね」
そのあまりにもリアルな、そしてどこまでも複雑な経済の動き。
それに、JOKERはただ静かに頷いていた。
そして、雫は、その視線を再び目の前の、この世界の理そのものを体現するかのような男へと戻した。
その瞳には、純粋な好奇心と、そして彼の次なる一手への期待が宿っていた。
「JOKERさんは、しばらくはレベル上げという感じですか?」
「ああ」
JOKERは頷いた。
「レベル上げて、俊敏ノードか耐性ノードに振って、S級狙いという感じですね」
そのあまりにもあっさりとした、しかしどこまでも重い一言。
それに、雫の瞳がキラリと輝いた。
「ああ、そろそろS級に挑戦しても良いと思うけどな。リフトとレジェンダリージェムのランクを上げたくて、そっちばかりだな」
彼はそう言って、少しだけ面倒くさそうに肩をすくめた。
そのあまりにも贅沢な、そしてどこまでもJOKERらしい悩み。
それに、雫はくすくすと楽しそうに笑った。
「うーん、S級は、S級の呪い耐性-60%が痛いですし、単純に敵の物量とかがヤバいので…」
彼女は、その専門家としての知識を披露する。
「ですが、今のJOKERさんのスマイト素手ビルドなら、余裕だと思いますよ」
その絶対的な、そしてどこまでも信頼に満ちた太鼓判。
それに、JOKERは少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らした。
だが、雫は続けた。その声は、少しだけ真剣な響きを帯びていた。
「ただ、S級ダンジョンからはアーティファクトのドロップがあるので、潜る時になったら、色々な手続きが必要なので、声をかけて下さい。S級ダンジョンに行っても、許可証がないとダメなので」
そのあまりにも意外な、そしてどこまでも現実的な世界のルール。
それに、JOKERの眉がピクリと動いた。
「…ほう?」
「なるほど、それは知らなかったぜ」
彼の、その素直な驚き。
それに、雫は最高の、そしてどこまでも嬉しそうな笑みを浮かべた。
自分が、この絶対的な王者のまだ知らない世界を、一つ教えることができた。
その、ささやかな喜び。
「ええ。なので、その時はぜひ、私に」
「分かった。行く時になったら、また話をするぜ」
JOKERはそう言うと、その身を翻した。
「じゃあ、そろそろ帰る」
「はい。じゃあ、また」
雫の、そのどこか名残惜しそうな声に見送られ、彼はその喧騒の中へと、再びその姿を消していった。
彼の心は、もはやこの場所にない。
次なる、そして最高のテーブルへ。
S級という、未知なる領域。
そして、そこに眠るという、神々の遺産。




