第434話
【物語は10年前、ダンジョンが現れる当日に戻る】
【ダンジョン出現後、15ヶ月経過後】
ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂。その玉座の間で、一人の老人が静かに息を引き取った、まさにその瞬間。
地球は、黄金の光に包まれた。
それは、太陽の光よりも温かく、月の光よりも優しい、生命そのもののような輝きだった。光は、国境も、人種も、そして絶望の最も深い闇すらも、平等に、そして静かに照らし出した。
世界の終わりを待っていた人々は、最初、それが何なのか理解できなかった。ただ、そのあまりにも美しい光景に、呆然と空を見上げていただけ。
ニューヨーク沖、大西洋。
人類最後の防衛線は、すでに崩壊していた。原初の災厄、リヴァイアサン。その、あまりにも巨大な影が、マンハッタン島の摩天楼を飲み込もうとしていた。その進撃の余波だけで、沿岸には巨大な津波が発生し、避難作戦の最前線で活動していたアメリカ軍の兵士たちを、いともたやすく飲み込んでいった。
「うわあああああああっ!」
濁流に飲まれ、コンテナに叩きつけられ、若い兵士は自らの死を確信した。だが、彼が次に感じたのは、骨が砕ける痛みではなく、ただ、温かい水の中にいるかのような、穏やかな浮遊感だった。
彼が、恐る恐る目を開けると、そこは地獄ではなかった。彼は、無傷で、陸の上に立っていた。濡れた軍服が、少しだけ肌寒い。だが、体には傷一つない。
「…は…?」
彼の、その素っ頓狂な声。
それが、この世界で最初に響いた、奇跡への、第一声だった。
日本、東京。
とある病院の一室で、一人の老婆が、その最期の時を迎えようとしていた。モニターには、ニューヨークの絶望的な光景が映し出されている。
「…ああ、神様。どうか、孫たちだけは…」
彼女が、その最後の祈りを捧げ、そしてその心臓が、最後の鼓動を終えた、その時。
彼女は、死ななかった。
それどころか、その皺だらけだったはずの体から、病の苦しみが、すうっと、抜け出ていくのを感じた。彼女は、ゆっくりと、その身を起こした。窓の外には、黄金の光が降り注いでいる。
心が折れ、F級ダンジョンから逃げ出していた若き探索者が、自らのアパートの一室で、震えていた。その時、彼の、その絶望に蝕まれていたはずの体に、内側から、力がみなぎるのを感じた。レベルアップした時のような、万能感。だが、それとは比較にならないほど、温かく、そして力強い、生命の奔流。
世界中の人々が、自らが「死なない」身体になったことに気づく。恐怖は、歓喜へ、そしてやがて、鋼鉄の覚悟へと変わっていく。
SeekerNetの掲示板が、最初に、その奇跡の正体を、言語化した。
【SeekerNet 掲示板 - SSS級ワールドボス総合スレ Part. 12】
811: 名無しの一般市民
…おい。
…おい、お前ら。
俺、今、車に轢かれたんだが。
生きてる。
なんでだ?
812: 名無しのF級探索者
811
俺もだ!さっき、絶望して、屋上から飛び降りた!
でも、無傷だ!
813: 名無しのB級タンク
法皇様だ…。
あの、最後の声明だ…。
これは、奇跡だ…。
俺たちは、死なない…。
24時間だけ、俺たちは、不死身の軍隊になったんだ…!
その、あまりにも衝撃的な、そしてどこまでも希望に満ちた、真実。
それに、スレッドは、爆発した。
絶望の悲鳴は、止んだ。
後に残されたのは、ただ、一つの巨大な、そしてどこまでも力強い、歓喜の咆哮だった。
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!』
『マジかよ!』
『俺たち、死なないのかよ!』
そして、その歓喜は、やがて一つの、あまりにも気高く、そしてどこまでも美しい、覚悟へと、その姿を変えていった。
◇
ジュネーブ、国際公式ギルド本部。
その、絶望に支配されていたはずのモニタリング・センターは、今や、人類史上、最も熱狂的な戦争司令部と化していた。
クロードが、その老いた、しかし今は闘志の炎を宿した瞳で、マイクに向かって、叫んだ。
「聞け、全世界の探索者たちよ!我々に、時間は残されていない!与えられた奇跡は、わずか24時間!この好機を、逃すな!」
その声に呼応するかのように。
ワシントンD.C.、ホワイトハウスから。
東京、首相官邸から。
世界の、全ての指導者たちが、その国民へと、最後の檄を飛ばした。
「我々に与えられた時間は、24時間!この奇跡を、無駄にするな!」
「今こそ、人類の、その底力を見せる時だ!」
「ニューヨークへ!そして、勝利を!」
その、あまりにも壮大な、そしてどこまでも心を震わせる、指導者たちの言葉。
それに、世界の、全ての人間が、応えた。
上はB級から下はF級まで、全探索者が一つの神の軍団となり、ニューヨークへと殺到する。兵士、週末冒険者、そして戦う意志を持つ全ての人間が、その後に続く。
東京の、F級探索者の若者が、その錆びついた剣を握りしめ、羽田空港へと走る。
ドイツの、B級タンクの老兵が、その砕け散ったはずの誇りを、再びその胸に宿し、輸送機へと乗り込む。
ブラジルの、サンバのリズムしか知らなかったはずの格闘家が、その拳を固め、アメリカへと向かう。
彼らの目的は、もはや金でも、名声でもない。
ただ、自らが生きるこの世界を、その手で守り抜くという、あまりにもシンプルで、そしてどこまでも気高い、ただ一つの目的のために。
彼らは、自らの命を文字通りの「弾丸」として、リヴァイアサンに突撃して倒す。
ニューヨーク、マンハッタン島。
その、かつては世界の中心だった場所は、今や、人類最後の戦場と化していた。
リヴァイアサンの、その山脈のような巨体が、ついに、その最初の一歩を、陸地へと踏み入れた。
その、あまりにも絶望的な光景。
だが、それを迎え撃ったのは、もはや恐怖に震える、ただの人間ではなかった。
神の恩寵を受け、死という概念から解放された、不死の軍勢だった。
「――突撃いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!」
誰かの、その絶叫を合図に。
人類の、歴史上、最も愚かで、そして最も気高い、戦争が始まった。
死んでは蘇り、また突撃する。24時間に及ぶ、壮絶な消耗戦。
B級の英雄たちが、その渾身のスキルを、リヴァイアサンの、その黒曜石の足元へと叩き込む。
だが、その力は、あまりにも無力。
リヴァイアサンは、その巨体を、わずかに揺らすだけ。その、ほんのわずかな振動だけで、彼らの体は、まるで紙切れのように、吹き飛ばされ、そしてHPをゼロにされた。
だが、彼らは死なない。
次の瞬間、彼らは、その後方の、安全な場所に、無傷で、そして全回復した状態で、再びその姿を現す。
そして、彼らは再び、その絶望的な壁へと、突撃していく。
F級の、探索者たちもまた、戦っていた。
彼らの、その貧弱な攻撃は、リヴァイアサンに、ダメージどころか、その存在を認識させることすらできない。
だが、彼らは構わなかった。
彼らは、その小さな体で、その巨大な足に、ただひたすらに、しがみついた。
そして、その体重で、その歩みを、ほんのわずかでも、遅らせようとしていた。
その、あまりにも無謀な、そしてどこまでも健気な、抵抗。
その、何十万、何百万という、小さな、しかし決して折れることのない魂の重みが、確かに、その神の如き怪物の、その歩みを、わずかに、しかし確実に、鈍らせていた。
それは、人類の歴史上、最も愚かで、そして最も気高い、戦争だった。
◇
時間の感覚は、とうの昔に麻痺していた。
ただ、死と、再生と、そして突撃の、無限のループ。
その、あまりにも壮絶な消耗戦の果てに。
ついに、その時は来た。
【神の恩寵】が尽きる、その数分前。
リヴァイアサンの、その黒曜石のようだったはずの、絶対的な装甲。
その表面に、初めて、一つの、小さな、しかし確かな「亀裂」が、走ったのだ。
無数の、魂の猛攻。
その、あまりにも執拗な、そしてどこまでも純粋な、暴力の蓄積。
それに、神の肉体が、ついに、悲鳴を上げたのだ。
その、あまりにも小さな、しかし世界の何よりも大きな、希望の光。
それを見逃すほど、人類は、愚かではなかった。
「――今だッ!!!!!!!!!!!!!!!!!」
鬼塚と、ストライカーと、そしてその場にいた、全てのB級の英雄たちが、同時に、叫んだ。
彼らは、その最後の、そして残された全ての魂を、その一点へと、集中させた。
人類の、歴史の、その全ての重みを乗せた、最後の一撃。
それが、その亀裂へと、確かに、そして深く、叩き込まれた。
ズッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
これまでとは、比較にならない凄まじい破壊音。
リヴァイアサンの、その山脈のような巨体が、初めて、大きく、そして確かに、揺れた。
その、黒曜石の装甲が、内側からの光によって、ひび割れていく。
そして、その亀裂の隙間から、漏れ出したのは、深淵の闇ではなかった。
一つの、どこまでも穏やかで、そしてどこまでも物悲しい、星々の光だった。
彼は、その最後の瞬間に、その呪いから、解放されたのかもしれない。
無数の魂の猛攻を受け続けたリヴァイアサンは、ついにその活動を停止。その巨体は、ゆっくりと崩れ落ち、海へと還っていった。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、朝日を浴びながら、その傷だらけの体で、しかし確かな勝利を噛みしめる、人類の、その誇り高い姿だけだった。
世界は、救われた。この日は、後に「聖殉教の日」と名付けられ、法皇は新たな時代の、最高聖人として祀られる。人類は、初めてSSS級の脅威を退けた。人類は希望を胸に秘めて行き続ける。
その、あまりにも壮大で、そしてどこまでも美しい、勝利の光景。
それを、世界の、全ての人間が、ただ涙ながらに、見つめていた。
彼らの、本当の「歴史」が、今、始まった。
その、あまりにも気高く、そしてどこまでも孤独な、魂の旅路の、始まりだった。




