第432話
【物語は10年前、ダンジョンが現れる当日に戻る】
【ダンジョン出現後、15ヶ月経過後】
ジュネーブ、国際公式ギルド本部。
その、世界の秩序を司る心臓部であるはずのグローバル・モニタリング・センターは、今や、世界の絶望をただ観測するためだけの、巨大な霊廟と化していた。
壁一面に設置された巨大なホログラムモニター。そこに映し出されているのは、一つの、あまりにも静かで、そしてどこまでも残酷な、世界の終わりの光景だった。
大西洋を、ただひたすらに、ゆっくりと、しかし確実に、西へと進み続ける、巨大な影。
原初の災厄、リヴァイ-アサン。
その鑑定結果が、世界の隅々にまで配信されてから、数時間が経過していた。
【ランク:SSS級 / カタストロフィ級】
【目的:目標地点に到達した瞬間、その座標を中心とした時空間そのものを『捕食』し、世界を終わらせる】
その、あまりにも無慈悲な宣告。
それは、人々の心から、希望という名の、最後の灯火を奪い去った。
世界は、パニックに陥った。
ニューヨーク、マンハッタン島。世界の経済と文化の中心地は、一夜にして無法地帯と化した。史上最大規模の避難作減が開始されるが、橋という橋、トンネルというトンネルは、島を脱出しようとする人々の車で完全に埋め尽くされ、その機能は麻痺した。食料や水を求める人々がスーパーマーケットに殺到し、暴動が頻発する。街の至る所で黒煙が上がり、銃声と、悲鳴と、そして救いを求める祈りの声が、悪夢のような不協和音を奏でていた。
その、地獄絵図を、世界の、全ての人間が、テレビの画面越しに、あるいはスマートフォンの小さなディスプレイを通じて、ただ呆然と、見つめていた。
SeekerNetの掲示板は、もはや情報交換の場ではなかった。
ただ、世界の終わりを待つ人々の、悲痛な叫びを書き連ねるためだけの、巨大な墓標だった。
【SeekerNet 掲示板 - SSS級ワールドボス総合スレ Part. 1】
111: 名無しの一般市民
もう終わりだ。
ニューヨークが、食われる。
そして、次は、俺たちの街だ。
神様、どうか、お救いください。
112: 名無しのF級探索者
111
祈ってる暇があったら、逃げろ。
少しでも、遠くへ。
でも、どこへ逃げればいいんだ…?
113: 名無しのB級タンク
…いや。
まだだ。
まだ、終わっちゃいねえ。
その、あまりにも力強い、そしてどこまでも場違いな、一言。
それに、絶望に支配されていたスレッドの空気が、わずかに変わった。
115: 名無しのB級タンク
俺たちは、探索者だろ?
この、理不尽な世界で、それでも剣を取って戦うことを選んだ、馬鹿共だろ?
だったら、やることは一つしかねえ。
戦うんだよ。
たとえ、勝てないと分かっていてもな。
その、あまりにも無謀な、そしてどこまでも気高い、魂の叫び。
それが、引き金となった。
絶望の、その最も深い底から。
一つの、小さな、しかしどこまでも力強い、抵抗の炎が、燃え上がり始めたのだ。
国際公式ギルドが、全世界のB級以上の探索者たちへと、最後の、そして最も絶望的な「招集」をかけた。
それは、もはや作戦とは呼べない。
ただの、人類の、意地だった。
◇
「人類連合迎撃部隊」。
その、あまりにも壮大で、そしてどこまでも悲壮な名前を冠した、人類最後の希望が、リヴァイアサンの進路上…ニューヨークの、遥か沖合の大西洋上に、その陣形を組んでいた。
国籍も、所属も、そして肌の色も違う。
だが、その瞳に宿る光だけは、同じだった。
自らの、そして愛する者たちの未来を、この手で守り抜くという、鋼鉄の意志。
日本のD-SLAYERS、アメリカのデザート・イーグル。
そして、この黎明期において、最強と謳われた、世界中の、名もなきB級のトップランカーたち。
彼らが、この世界の、最後の防衛線だった。
彼らの眼前に、それはいた。
リヴァイ-アサン。
その、あまりにも巨大な、そしてどこまでも静かなる、黙示録。
それは、彼らの存在など、まるで意にも介さないかのように、ただゆっくりと、その巨体を進めてくる。
攻撃の、意思はない。
ただ、そこに「在る」だけ。
だが、その存在そのものが、人類に対する、最大の侮辱であり、そして挑戦だった。
「――総員、戦闘開始!」
連合部隊の、臨時指揮官に任命された、鬼塚宗一の、その冷静な声が、全部隊へと響き渡る。
「これより、我々は、神殺しを始める」
その号令を、合図にしたかのように。
人類の、最後の、そして最も美しい、抵抗が始まった。
黎明期最強と謳われたB級探索者たちが、次々とその牙を剥く。後の時代に伝説として語られることになる、若き日の英雄たちの、最初の、そして最後の共闘だった。
ドイツの、ラインハルト。
その、不沈艦と謳われた男が、その巨大なタワーシールドを構え、部隊の最前線に立つ。
「我が身を越えて、奴をニューヨークへは行かせん!」
韓国の、ジンソル。
その、一撃の魔女が、その杖の先端に、この星の全ての魔力を集束させる。
「私の全てで、あなたの存在を、否定します…!」
アメリカの、エッジ。
その、PvP最強の剣士が、その二本の長剣を、閃光のように煌めかせ、リヴァイアサンの、その岩石の肌へと、躍りかかった。
しかし、彼らの渾身のスキルや、当時最高峰だったマジック等級の装備ですら、巨大な岩石の前には無力だった。
ガキンッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
エッジの、その神速の剣が、リヴァイアサンの、その黒い表面に、わずかな火花を散らす。
だが、それだけだった。
傷一つ、付かない。
彼の、その自信に満ち溢れていた顔が、初めて、純粋な驚愕に歪んだ。
「なっ…!?」
その、彼の驚愕の声を、肯定するかのように。
ジンソルの、その全てを焼き尽くすはずだった太陽の奔流もまた、その黒い表面に到達する寸前で、まるで霧のように、掻き消えるように、消滅した。
そして、ラインハルト。
彼は、その巨体が、自らの目の前を通り過ぎていくのを、ただ呆然と、見つめているだけだった。
リヴァイアサンは、彼らを攻撃しない。ただ、進み続けるだけ。
その圧倒的なまでの、絶対的な無関心。
それこそが、人類の、その矮小な誇りを、最も深く、そして最も残酷に、傷つけた。
探索者たちは、ただただ無力感を味わうだけだった。どれだけ攻撃しても傷一つ付けられず、その圧倒的な存在の前では、自分たちがただの蟻に過ぎないことを思い知らされる。
それは、もはや戦闘ではなかった。
ただ、神々の気まぐれな散歩の、その通り道で、蟻たちが、必死に威嚇の声を上げているだけの、あまりにも滑稽で、そしてどこまでも悲しい光景だった。
◇
戦う意味すら見失い、一人、また一人と、心が折れていく。
ラインハルトが、その大地に根を張っていたはずの膝を、ついた。
「…ダメだ。…我々は、勝てない…」
ジンソルが、その杖を、力なく、海へと落とした。
「…なぜ…。なぜ、届かないの…」
エッジが、その折れた剣を握りしめ、ただ天を仰いで、咆哮した。
「クソッ…!クソッ…!クソオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!」
人類最強の戦力が、なすすべもなく敗北する。その光景は、人々の心から最後の希望すらも奪い去った。
その、あまりにも絶望的な光景。
それを、全世界が、リアルタイムで、目撃していた。
SeekerNetの掲示板は、世界の終わりを待つ人々の、悲痛な叫びで埋め尽くされる。「もう終わりだ」「神に祈ろう」。世界の指導者たちは、なすすべもなく、ただモニターの中で、ニューヨークへと進み続ける「それ」の姿を見つめることしかできなかった。
人類の、歴史が、終わる。
誰もが、そう確信した、その時だった。
世界の、全てのモニターが、一斉に、その映像を切り替えた。
そこに映し出されたのは、ニューヨークの摩天楼でも、大西洋の絶望の海でもない。
ローマ、ヴァチカン。
サン・ピエトロ大聖堂の、その荘厳なバルコニーに、静かに立つ、一人の老人の姿だった。
彼の、その穏やかな瞳だけが、この世界の、最後の希望を、宿していた。




