第431話
【物語は10年前、ダンジョンが現れる当日に戻る】
【ダンジョン出現後、15ヶ月経過後】
ダンジョンが出現してから、15ヶ月が経過した。
世界は、ようやく一つの「日常」を取り戻しつつあった。B級ダンジョンに課せられた「世界の呪い」というあまりにも理不尽な壁。それは、一時は人類の進歩を完全に停滞させるかとさえ思われた。だが、日本のD-SLAYERSやアメリカのデザート・イーグルといった国家主導の精鋭部隊、そして黎明期にその名を馳せたB級のトップランカーたちの血と汗によって、その壁は少しずつ、しかし確実に乗り越えられようとしていた。
スイス・ジュネーブに設立された国際公式ギルドは、世界のダンジョン情報を一元管理し、新たな秩序の礎となっていた。SeekerNetの掲示板では、連日B級ダンジョンの攻略情報が交換され、若き英雄たちの活躍が、人々に希望を与えていた。
それは、混沌の時代の終わりと、束の間の平和の時代の始まりを、誰もが予感していた、そんな穏やかな午後だった。
その日、全ての始まりは、一本の緊急アラートだった。
ジュネーブ、国際公式ギルド本部。その地下最も深く、世界の全てを見渡す神の視点として機能するグローバル・モニタリング・センター。その静寂を、けたたましい警告音が切り裂いた。
「なんだ!?」
フロアの責任者であるクロードが、その鋭い視線を壁一面に広がるホログラムの世界地図へと向けた。地図の上、大西洋の中央、アゾレス諸島沖を示す一点が、これまでにないほどの、禍々しい深紅の光で激しく点滅していた。
「魔力反応、急上昇!レベル…測定不能!これは…!」
若いアナリストの声が、緊張に震える。
「SSS級ダンジョンゲートの出現か…!?そんな馬鹿な!」
クロードの額に、冷たい汗が滲んだ。SSS級。それは、理論上は存在が予測されながらも、この15ヶ月間、一度も観測されたことのない、神々の領域。
彼は、即座に最高レベルの緊急事態を宣言。世界中の、主要国家の指導者たちへと繋がるホットラインを開いた。
だが、彼らがモニター越しに目の当たりにしたのは、彼らの矮小な予測を、遥かに、そしてどこまでも無慈悲に裏切る、絶望の光景だった。
海面に現れたのは、ゲートではなかった。
大陸プレートが隆起するかのように、海そのものが、ゴポゴポと不気味な泡を立てて盛り上がり始めた。そして、その中から、一つの、あまりにも巨大な影が、ゆっくりと、しかし確実に、その姿を現したのだ。
それは、山だった。
いや、違う。山脈だ。
山脈のように連なる背中は、濡れて黒光りする、磨き上げられた黒曜石のような岩石で覆われている。その頂からは、まるで古代の樹木のように、あるいは神々の墓標のように、無数の巨大な水晶体が天を突き、不気気な光を放っていた。
それは、もはや生物というカテゴリーには収まらない。
ただ、歩行する島。
ただ、意思を持つ、小さな大陸だった。
国際ギルドは、即座に最高レベルの緊急事態を宣言。日米が誇る最強戦力、D-SLAYERSとデザート・イーグル、そして当時最強と謳われていた、まだ名もなきB級のトップランカーたちで構成された黎明期の英雄たちが、現場へと急行する。
◇
大西洋上空、高度1万メートル。
米軍の最新鋭ステルス偵察機「オーロラ」のコックピット。デザート・イーグルの指揮官、ストライカー大佐は、そのサングラスの奥の瞳を、信じられないものを見るかのように、細めていた。
彼の眼下に広がるのは、神々の戯れのような光景だった。
海の上に、山が浮いている。
そして、その山が、動いている。
「…司令部、聞こえるか。こちら、イーグル・ワン」
彼の、そのいつもは自信に満ち溢れた声が、わずかに震えていた。
「目標を、視認した。繰り返す。目標を、視認。だが…これは、我々が知る、どのモンスターとも違う。…これは、ただの、災害だ」
その報告と、ほぼ時を同じくして。
日本の、D-SLAYERSを乗せた輸送機もまた、現場海域へと到達していた。
鬼塚宗一は、その後部ハッチから、その身を乗り出すようにして、そのあまりにも巨大な「敵」を、その鋼鉄の仮面のようなヘルメットの奥で、冷静に、そしてどこまでも冷徹に、分析していた。
(…大きい、なんてものではないな。全長、数キロメートル。いや、それ以上か。あれに、物理的な攻撃が、意味をなすとは思えん)
彼の、戦場で培われた超感覚が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。
これは、戦ってはいけない相手だと。
だが、彼らに、選択肢はなかった。
その巨大な島は、ゆっくりと、しかし一切の躊躇なく、その進路を、アメリカ大陸東海岸…ニューヨークへと向けていたのだから。
「――総員、攻撃を開始しろ」
ストライカーの、その苦渋に満ちた命令が、全部隊へと響き渡る。
「何でもいい!持っている全ての火力を、叩き込め!」
戦いの火蓋は、切って落とされた。
いや、それはもはや戦争ですらなかった。
ただ、一方的な、そしてどこまでも無力な、人類の抵抗だった。
空からは、デザート・イーグルが誇る、魔石誘導弾の雨が降り注ぐ。
海からは、米海軍のイージス艦から、巡航ミサイル「トマホーク」が、その白い尾を引きながら、殺到する。
そして、その巨体へと直接乗り込んだ、D-SLAYERSと、黎明期の英雄たちが、その渾身のスキルを、叩き込んだ。
B級探索者最強の戦士が放つ、大地を割るほどの衝撃波。
B級最強の魔術師が詠唱する、全てを焼き尽くすはずだった、炎の嵐。
人類が持ちうる全ての攻撃が「それ」へと叩き込まれるが、巨体に傷一つ付けることができず、一切ダメージが喰らわなかった。
ミサイルは、その岩石の肌に到達する寸前で、まるで見えない壁に阻まれたかのように、空中で虚しく爆ぜる。
英雄たちのスキルもまた、その黒い表面に、わずかな火花を散らすだけで、その全てのエネルギーを、吸い込まれるように、消滅させられた。
「それ」は、人類の攻撃を意にも介さず、ただゆっくりと、しかし確実にニューヨークに向かって進撃を開始する。
その圧倒的なまでの、絶対的な防御力。
その、あまりにも理不尽な光景に、世界の、全ての人間が、言葉を失った。
◇
ジュネーブ、国際公式ギルド本部。
そのモニタリング・センターは、お通夜のように重い沈黙に支配されていた。
「…ダメだ」
クロードが、その顔を両手で覆いながら、呻いた。
「我々の、全ての攻撃が、通用しない…」
その絶望的な空気の中で、現場の鬼塚宗一からの、冷静な、しかしどこまでも残酷な報告が、司令室のスピーカーから響き渡った。
『――こちら、D-SLAYERS隊長、鬼塚。目標の鑑定結果を、報告する』
その場にいた、全ての人間が、息を呑んだ。
鬼塚は、ただ、自らのARコンタクトレンズに映し出された、その絶対的な事実を、淡々と読み上げただけだった。
【名前:原初の災厄、リヴァイアサン】
【ランク:SSS級 / カタストロフィ級】
【目的:目標地点に到達した瞬間、その座標を中心とした時空間そのものを『捕食』し、世界を終わらせる】
その、あまりにも無慈悲な、そしてどこまでも確定された「未来」。
それに、モニタリング・センターの、全ての人間が、膝から崩れ落ちた。
世界は、終わる。
それも、ただ滅びるのではない。
まるで、最初から存在しなかったかのように、「食べられて」、消えるのだ。
その、あまりにも冒涜的な、そしてどこまでも絶対的な、絶望の宣告。
それが、その日の、全てのニュースの、ヘッドラインとなった。
人類の、最後の希望が、完全に絶たれた、その瞬間だった。




