第429話
その日の日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』は、一つの巨大な熱狂の渦に、完全に飲み込まれていた。
神崎隼人――“JOKER”。
この世界の理そのものを、その身一つで蹂躙し続けてきた絶対的な王者が、初めて見せた「敗北」。それも、あまりにもあっけない、瞬殺という名の、完全な敗北。
その衝撃は、世界の探索者たちに、絶望ではなく、むしろ一つの奇妙な、そしてどこまでも熱狂的な興奮をもたらしていた。
神が、初めて血を流した。
その、あまりにも人間的な光景。
そして、その敗北に対する、JOKERの、あまりにも異質な反応。
怒りでも、絶望でもない。
ただ、心の底から楽しそうな、獰猛な笑み。
その全てが、これから始まる、未知なる物語への、最高の序曲であることを、世界の誰もが、予感していた。
【SeekerNet 掲示板 - アルトリウス攻略総合スレ Part. 18】
111: 名無しの実況民A
…おい。
…おい、お前ら。
見たか、今の。
JOKERが、笑ってる…。
112: 名無しのゲーマー
111
ああ、見た。
完全に、目がイッちまってる。
最高の、ギャンブル狂の目だ。
113: 名無しのビルド考察家
…なるほどな。
ようやく、理解した。
我々が、このボスを「倒すべき壁」として見ていたのに対し、彼だけは、違う。
彼は、これを「解き明かすべき謎」として、見ているのだ。
そして、彼は今、そのパズルの、最初のピースを手に入れた。
「正面からのゴリ押しは、通用しない」という、あまりにも当たり前で、そして最も重要な、そのピースをな。
その、あまりにも的確な分析。
スレッドが、その言葉の意味を噛しめるように、静まり返った、まさにその時だった。
JOKERの配信画面が、再び動き出した。
彼は、B級ダンジョンのオベリスクの前に、再び立った。
彼の目の前には、先ほど彼がこじ開けた、神々の坩堝へと続く漆黒のポータルが、まだその口を開けたまま、静かに揺らめいている。
コメント欄が、熱狂する。
『うおおおおお!再挑戦だ!』
『早すぎるだろ!』
だが、JOKERは、その声援に、一切応えない。
彼の表情から、笑みは消えていた。
ただ、そこにあるのは、絶対的な、そしてどこまでも冷徹な、集中力だけだった。
彼は、そのポータルの中へと、再びその身を投じた。
神々の坩堝。
その、荒涼とした、しかしどこか神聖な闘技場の中央で。
彼は、再びその宿敵と、対峙した。
深淵の騎士、アルトリウス。
だが、JOKERの動きは、一変していた。
彼は、一切の攻撃行動をしない。
ただ、逃げた。
アルトリウスの、その神速の剣技から、ただひたすらに、逃げ続けた。
「グルオオオオオオオオオオッ!!!!!」
アルトリウスが、咆哮を上げる。
その巨体が、信じられないほどの初速で、JOKERへと突進してくる。
大剣が、横薙ぎに、閃光のように煌めく。
JOKERは、それを、バックステップで、紙一重でかわす。
だが、その一撃は、布石だった。
薙ぎ払いの、その遠心力を利用して、アルトリウスの体は、コマのように高速で回転を始める。
二撃目、三撃目の、回転斬り。
その、あまりにも予測不能な、そしてどこまでも殺意に満ちた連撃。
それに、JOKERの反応が、わずかに遅れた。
彼の脇腹を、大剣の切っ先が、掠める。
HPバーが、3割、消し飛んだ。
そして、その硬直の隙を見逃すほど、深淵の騎士は、甘くはなかった。
追撃の、突き。
JOKERの、その心臓を、寸分の狂いもなく、貫いた。
彼の視界が、白に染まる。
オベリスクの前。
彼は、無言で、再びポータルへと足を踏み入れた。
視聴者たちは、彼がその動きを洗練させていく過程を目撃する。
二度目の挑戦。
彼は、あの回転斬りを、完璧に回避した。
だが、その直後。
アルトリウスは、天高く、跳躍した。
そして、その巨体が、隕石のように、JOKERの頭上へと、降り注ぐ。
回避が、間に合わない。
彼の体は、その衝撃波だけで、闘技場の壁まで吹き飛ばされ、そしてHPをゼロにされた。
三度目の挑戦。
彼は、跳躍攻撃を、完璧に回避した。
だが、その着地の隙を狙おうとした、彼の、その思考を、アルトリウスは読んでいた。
着地の、その瞬間に放たれる、足元への、薙ぎ払い。
避けられない。
四度目、五度目、十度目…。
彼は、入り口に戻され続けた。
その度に、コメント欄は、困惑と、そして少しずつの、理解に、満たされていった。
『…おい、JOKERさん、何してるんだ?』
『なんで、攻撃しないんだよ?』
『いや、違う…。見てみろよ、彼の動きを』
『一度食らった技は、二度と食らってない…!』
『まさか…。こいつ、この挑戦の中で、敵の全ての動きを、記憶してるのか…?』
その、あまりにも人間離れした、そしてどこまでもストイックな、学習能力。
それに、SeekerNetの、全ての有識者たちが、戦慄した。
ハクスラ廃人:
…馬鹿野郎が。
なんだよ、これ…。
こいつ、俺たちが掲示板で、何時間もかけて分析してる内容を、たった一人で、それも数分で、その魂に直接、書き込んでやがる。
これが、天才か…。
元ギルドマン@戦士一筋:
うむ。
もはや、我々が口を出す領域ではない。
ただ、見届けよう。
一人の人間が、神の領域へと、その足を踏み入れる、その瞬間を。
◇
数十回に及ぶ挑戦の末、彼はついに一つの「安全な隙」を見つけ出す。
それは、アルトリウスが、あの天高く跳躍し、そして大剣を地面に突き立てる、その大技の、その直後。
ほんの、コンマ数秒だけ生まれる、絶対的な硬直。
それこそが、唯一の、そして許された、「反撃」の時間。
二十回目の挑戦。
JOKERは、初めて、その隙を突いた。
アルトリウスの跳躍攻撃を、完璧に回避した、その直後。
彼は、その全ての魂を込めて、その右の拳を、叩き込んだ。
スキル、【スマイト】。
黄金の雷霆が、炸裂する。
アルトリウスの、その禍々しいHPバーが、初めて、確かに、そして目に見える形で、削り取られた。
1割。
たった、1割。
だが、それは、人類が、初めて神の装甲を貫いた、歴史的な一撃だった。
その直後、彼はカウンターの薙ぎ払いを受けて、入り口へと戻されたが。
彼の口元には、確かな手応えを感じた、ギャンブラーの笑みが浮かんでいた。
そこから、彼の、本当の「舞踏」が始まった。
挑戦を繰り返す中で、彼がボスに与えるダメージは、1割、2割、3割と、少しずつ増えていく。
三十回目の挑戦。
彼は、そのHPを、2割削った。
だが、そこで彼は、欲を出した。
もう一撃、いける。
その、ほんのわずかな慢心が、彼のステップを、コンマ数秒だけ、狂わせた。
HPがゼロになり、入り口に戻される。
四十回目の挑戦。
彼は、そのHPを、3割削った。
だが、そこから、アルトリウスの攻撃パターンに、新たな派生が加わった。
それまで、単発で放たれていた突き攻撃が、二段突きへと、変貌していたのだ。
その、未知なる一撃に、彼は対応できず、その胸を貫かれた。
HPがゼロになり、入り口に戻される。
視聴者は、JOKERが人間離れした集中力と学習能力で、不可能を可能へと変えていく様を、固唾を飲んで見守る。
そして、五十回目の挑戦。
彼は、ついにその場所へと、たどり着いた。
世界の、トップギルドたちが、その総力を挙げても、決して超えることのできなかった、あの絶望の壁。
4割の壁。
彼は、その壁を、ただ一人で、そしてたった数時間で、乗り越えてみせた。
アルトリウスのHPが、半分を切る。
だが、その瞬間。
アルトリウスが、咆哮を上げた。
彼の、その折れていたはずの左腕が、深淵の闇を纏い、新たな「脅威」として、その姿を現したのだ。
二刀流。
これまでとは比較にならない速度と手数で襲いかかる、死の嵐。
それに、JOKERは、なすすべもなく、蹂躙された。
HPがゼロになり、入り口に戻される。
だが。
オベリスクの前に戻された、JOKERの表情に、絶望の色はなかった。
彼の瞳は、燃えていた。
最高の、そして最も面白い、パズルの、その最後のピースを、見つけ出した、子供のように。
彼は、その配信画面の向こうの、言葉を失った数百万人の観客たちに、初めて、その声を聞かせた。
その声は、震えていた。
だが、それは恐怖からではない。
抑えきれない、武者震いからだった。
「――面白い」
「面白いじゃねえか」
「ここからが、本当の戦いだろ?」




