第422話
その日の日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』は、もはや日常を取り戻していた。
いや、日常の「基準」そのものが、根底から書き換えられてしまった、と言うべきか。
【伝説の宝石】という新たな理の出現は、世界の探索者たちの生活を完全に変えた。B級以上の猛者たちは、ギルドの威信を賭けて、あるいは個人の栄光のために、その無限の階層の頂を目指し続ける。
その、あまりにも熾烈で、そしてどこまでもストイックな世界の、その頂点。
そこに、一人の男がいた。
【配信タイトル:【Lv.55】スマイトビルド、宝石育成の道】
【配信者:JOKER】
【現在の視聴者数:8,129,473人】
画面に映し出されているのは、もはや彼の独壇場と化した、ネファレム・リフトの深層だった。
ランク70。
A級上位のフルパーティですら、クリアに数十分を要するという、悪夢の領域。
その、禍々しい紫色の瘴気が渦巻く回廊を、神崎隼人――“JOKER”は、ただ一人、まるで散歩でもするかのように、進んでいく。
彼の肩の上では、1ポイントで交換した緑色のカエルの霊体が呑気に欠伸をし、その背後では、白銀の毛並みを持つ九尾の狐が、退屈そうに九本の尾を揺らめかせていた。
「…だから、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの『モーニン』は、ただのファンキー・ジャズの名盤じゃねえんだよ。あれは、宣言だ。難しい理論なんざ、知ったことか。ただ、心が、体が、魂が、踊り出すような音楽を、俺たちはやる。そういう、黒人たちの、反骨精神の塊だ。…まあ、お前らにはただの陽気なトランペットにしか聞こえねえかもしれんがな」
彼のそのあまりにも高尚で、そしてどこまでも難解な音楽談義。
それに、コメント欄が、いつものように、しかしどこまでも熱狂的に、反応した。
『出たwwwww JOKERさんのジャズ講座wwwww』
『もう何言ってるか全然分かんねえけど、この無敵の王者が、退屈そうに高尚な雑談しながら敵を蹂躙していくスタイル、最高にクールで好きだわ』
『同時接続800万!?もう、国が動くレベルだろこれ!』
彼がそう語りながら、ひび割れた黒曜石の橋を渡った、その瞬間。
闇の中から、十数体の、禍々しい影が、その姿を現した。
ランク70の悪夢が生み出す、混沌の悪魔たち。その両腕は、魂を刈り取るための、紫色の炎でできた鎌となっていた。
その一体一体が、B級上位の探索者を一撃で葬り去るほどの、殺意の塊。
だが、JOKERは、その雑談を止めることはない。
彼の視線は、敵ではなく、コメント欄へと注がれていた。
彼の体は、もはや彼の意識とは別の生き物のように、完璧に、そして滑らかに、その死地を舞い踊る。
「グルオオオオオオオオオオッ!!!!!」
悪魔たちが、その炎の鎌を、一斉に振り下ろす。
それは、もはやただの斬撃ではない。
空間そのものを焼き切る、死の弾幕。
**敵の攻撃がキツイ。**一発でも食らえば、彼のHPバーも半分は消し飛ぶだろう。
だが、その全てが、彼の、そのあまりにも軽やかなステップの前に、空を切る。
圧倒的俊敏で避けながら進む。
彼の、俊敏(DEX)700を超えるステータス。それは、もはや人間の反応速度ではない。未来予知の領域に、その片足を突っ込んでいる。
そして、その回避の、ほんのわずかな隙間。
彼が、反撃の狼煙を上げる。
その空っぽの、しかし神の力を宿した両の拳を、構えた。
そして、彼は叫んだ。
「オラオラオラオラオラオラオラオラ!」
黄金の雷霆が、嵐のように、吹き荒れる。
スマイトのラッシュで、敵が溶けていく。
**ワンパンで蹂躙しつつ、**彼は、その死の舞踏を、ただ楽しんでいた。
その、あまりにも日常的な、そしてどこまでも常軌を逸した光景。
その、あまりにも退屈な「作業」の、その合間に。
彼の、800万人の観客たちの一人が、この世界の、根源的な「謎」について、問いかけた。
『なあ、JOKERさん。ちょっと、聞きたいんだけどさ』
『最近、ネットニュースで**「【独占深層レポート】ダンジョン出現から10年、我々は見られているのか?専門家が語る「大いなる意志」の二つの仮説」って記事**が出て、掲示板でも盛り上がってるんだけどさ。JOKERさんは、どっち派閥?』
『人類救済説か、それとも試練説か。あんたは、この世界を、どう見てるんだ?』
その、あまりにも素朴な、そしてどこまでも本質的な問いかけ。
それに、JOKERは、ふっと、その口元を緩ませた。
彼は、目の前の悪魔の、最後の一体を、スマイトの一撃で光の粒子へと変えると、その場に立ち止まった。
そして、彼はその問いに、答えるのではなく、問い返した。
「…ほう。面白いことを、聞くじゃねえか」
「だが、その答えは、ボスをしばき倒してからだ。まあ、見てろよ」
その、あまりにもJOKERらしい、そしてどこまでも期待感を煽る一言。
それに、コメント欄が、熱狂した。
彼は、その声援をBGMに、リフトの最深部…ガーディアンが待つ、玉座の間へと、その歩みを進めていった。
◇
戦いは、一瞬だった。
リフトガーディアンとして召喚されたのは、ランク75のナイトメア・リフトで、あの月詠を苦しめた混沌の悪魔の、さらに上位の個体。
だが、JOKERの前では、ただの的でしかなかった。
黄金の雷霆が、炸裂する。
ワンパンだった。
ボスは、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その存在ごと、この世界から完全に消滅した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そして彼のARウィンドウにポップアップした、一つの小さな、しかし確かな勝利の証だけだった。
【伝説の宝石をアップグレードしますか?】
「――ああ、やるさ」
JOKERは、そのウィンドウをタップした。
レジェンダリージェムのレベルを3回上げて、彼は、その満足げな成果を、視聴者へと見せつける。
そして、彼はその場にポータルを開き、自室へと外に出る。
◇
西新宿の、タワーマンション。
彼は、その高級な革張りのソファに深く腰掛け、先ほど視聴者から投げかけられた、あのニュース記事を、そのARコンタクトレンズの視界に、呼び出した。
そしてゆっくり記事を読んでいく。
画面には、アンダーソン教授が語る、希望に満ちた「人類救済説」と、田中健介氏が語る、冷徹な「試練説」が、対比されるように表示されている。
彼は、その二つの、あまりにも対照的な「真実」を、数分間、ただ黙って、読んでいた。
そして、彼はARカメラの向こうの、その答えを待つ800万人の観客たちに、その最初の、そして最も重要な「評決」を、下した。
「――うーん、5:5で両方派かなぁ」
その、あまりにも曖昧な、そしてどこまでも正直な一言。
それに、コメント欄が、ざわめいた。
『どっちつかずかよ!』
『まあ、でも分かる気もする』
JOKERは、その反応を、楽しむように眺めていた。
そして彼は、その思考の、その根拠を、語り始めた。
その言葉は、もはやただの探索者ではない。
この世界の、理そのものを、その肌で感じ、そしてその矛盾を、誰よりも深く愛した、唯一無二のギャンブラーの、それだった。
「まず、救済説。これは、まあ、否定できねえだろ。**魔石が、どう見ても人類に都合が良すぎるからなぁ。**エネルギー、食料、医療。俺たちが、100年かかっても解決できなかった問題を、この石ころ一つが、たった10年で解決しちまった。これを、ただの偶然だと言い切るのは、無理がある」
「**でも、**それだけじゃ、説明がつかねえこともある」
彼の声のトーンが、変わった。
「B級、A級の呪いや、あのクソゲーダンジョンという試練があるから、選別してるとは思うしな。あれは、明らかに、俺たちを殺しに来てる。それも、最も悪質で、最も精神を削り取るやり方でだ。あれを、ただの『育成』だと言う奴がいるなら、そいつは頭がおかしい」
「だから、俺は、片方ではなく両方だと思うぜ?」
彼の、そのあまりにもバランスの取れた、そしてどこまでも合理的な、結論。
それに、コメント欄の有識者たちが、深く頷いた。
だが、JOKERの、本当の「答え」は、ここからだった。
「あと、これは持論だが」
彼の瞳が、この世界の、さらにその奥。
誰も見たことのない、深淵を、見据えていた。
「――一つの目的なのか?これ?」
その、あまりにも唐突な、そしてどこまでも根源的な、問いかけ。
それに、コメント欄が、一瞬にして静まり返った。
『――どういう事?』
一人の視聴者の、その素直な問い。
それに、JOKERは、最高の、そして最も不遜な笑みを浮かべて、答えた。
「うーん、なんか、レベルアップやポータルスクロールやフラスコがある、セーフティが充実してる一方で、殺意マシマシの敵もいるしなぁ。なんかこれ、一つの存在が考えたにしては、矛盾してるような気がする」
「救済と、試練。光と、闇。慈悲と、悪意。この世界は、あまりにも矛盾に満ちすぎてる。まるで、別々の奴らが、それぞれ好き勝手なルールを、この世界に書き加えてるみてえに、な」
彼は、そこで一度言葉を切ると、その究極の、そしてどこまでも冒涜的な、仮説を、世界へと投下した。
その言葉こそが、この世界の、新たな「常識」が生まれた、その瞬間だった。
「――むしろ、神々が、色々な思惑で、この世界の理を作ってるんじゃねーか?」
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
そして、爆発。
その、あまりにも壮大で、そしてどこまでも美しい、JOKERの、第三の仮説。
それに、SeekerNetは、もはや制御不能の熱狂の坩堝と化した。
世界の、全ての探索者が、その日、一つの共通の真実に、たどり着いた。
この世界は、ただのゲームではない。
神々が、気まぐれにサイコロを振るう、究極の「ギャンブル」なのだと。




