第43話
神崎隼人は、もはやE級ダンジョンというテーブルに、何の魅力も感じていなかった。
そこは彼にとって、レートが低すぎる。
【毒蛇の巣窟】の主、バジリスクを討伐して以降、彼は数日間E級ダンジョンを周回し、自らのビルドの完成度を高めると同時に、確実な金策を続けてきた。
その結果、彼の力と資産は、もはやE級という枠には、収まりきらないレベルへと到達していた。
その日の配信。
彼は、ダンジョンの入り口ではなく、自らの殺風景なアパートの一室から配信を開始した。
画面に映し出された彼の背後には、これまでの戦いで手に入れた数々の戦利品と、そして新たに購入した武具が並べられている。
彼のビルドは、あのバジリスク戦から、さらに進化を遂げていた。
パッシブスキル【生命の泉】による、スケールするHP自動回復。
そして、物理ダメージを常に15%増幅させる、自動発動の【脆弱の呪い】。
もはや、彼に死角はない。
「…さて、お前ら」
彼は、ARカメラの向こう側にいる数万人の観客たちに、不敵な笑みを向けた。
「E級は、もう卒業だ」
その一言に、コメント欄が熱狂の渦に包まれる。
「今日から、レートを上げる。――D級に、行くぞ」
その力強い宣言。
それは、彼の新たな伝説の始まりを告げる、ファンファーレだった。
彼が次に選んだ戦場。
それは、SeekerNetのダンジョン情報でも、特にその陰鬱さと難易度で有名な場所だった。
D級ダンジョン、【打ち捨てられた王家の地下墓地】
都心から電車を乗り継ぎ、山奥の寂れた駅へと降り立つ。
そこから、さらに霧深い森の中を、歩き続けること一時間。
そのダンジョンは、まるで訪れる者全てを拒絶するかのように、静かに、しかし圧倒的な存在感を放って、そこにあった。
ひんやりとした、巨大な大理石で組まれた壮麗な霊廟。
壁には、風化し、所々が剥がれ落ちたフレスコ画が描かれている。そこに描かれているのは、おそらく、かつてこの地を治めていたであろう王族たちの姿。だが、その描かれた瞳はどれも黒く塗りつぶされており、まるでその奥の暗闇から、侵入者を不気味に見つめているかのようだった。
これまでのダンジョンとは、明らかに違う。
ゴブリンの巣の混沌でも、砦の殺伐さでも、毒蛇の巣窟の生命的なおぞましさでもない。
ここは、ただ静かで、どこまでも神聖で、しかしそれ故に、底知れない「死」の気配が、満ち満ちていた。
彼のD級初挑戦に、コメント欄は期待と、そしてそれ以上に大きな不安の声で、入り混じっていた。
『ついにD級か…!待ってたぜ!』
『いや、でも相手はD級だぞ…。E級とは、敵のレベルもギミックも、次元が違うはずだ…』
『JOKERさん、無理はするなよ!まずは、偵察からだ!』
『この不気味な雰囲気…。俺、このダンジョン苦手だわ…』
隼人は、そんな視聴者たちの心配を背中で受け止めながら、ただ静かに、その巨大な霊廟の扉へと手をかけた。
ギィィィィ、という耳障りな音を立てて、重い石の扉が開かれる。
中に満ちていた、千年の淀んだ空気が、彼の頬を撫でた。
彼は、迷わなかった。
D級という、新たなテーブル。
そこに、どんなイカサマが仕掛けられていようとも、全てを見抜き、そして勝利する、絶対の自信が彼にはあったからだ。
地下墓地の内部は、ひんやりとした大理石の床が、どこまでも続いていた。
壁には、等間隔に燭台が置かれ、そこに灯る青白い鬼火のような炎だけが、唯一の光源だった。
彼は、最初の広大な墓室へと足を踏み入れた。
そこは、おそらく王族の棺が安置されていた場所なのだろう。中央には、ひときわ豪華な装飾が施された石棺が、鎮座している。
だが、その中はもはや空っぽだった。
彼が、その墓室の中央へと進んだ、その瞬間だった。
カタ…カタカタ…。
最初は、小さな音だった。
だが、その音は瞬く間に連鎖し、やがて、墓室全体を揺るがすほどの、おびただしい骨の擦れる音へと変わっていった。
地面の石畳の隙間から。
壁際に並べられた、古い棺の中から。
カタ、ガタ、ゴトと、白い骨の手が次々と現れる。
そしてそれらは、ぎこちない動きでその本体を地上へと引きずり出し、空虚な眼窩に赤い憎悪の光を灯して、立ち上がった。
【骸骨兵】。
その数、ざっと五十は超えている。
一体一体は、ゴブリン兵よりも脆そうだ。
だが、この圧倒的な物量。
そして何よりも、その死者であるという事実が、生理的な嫌悪感を隼人にもたらした。
『うわあああ!いきなり、お出ましかよ!』
『数が多すぎる!50体以上、いるぞ!』
『D級、初っ端からこれかよ!』
視聴者たちが、悲鳴を上げる。
だが、隼人は冷静だった。
彼は、この物量作戦を想定内と判断する。
(数が多いだけの、骨か。問題ない。【無限斬撃】の、いい的だ)
彼は迷いなく、鉄板のコンボを起動した。
長剣が、青白い光を纏う。
そして彼は、骸骨の軍勢へと、正面から突撃していった。
ザク、ガキ、バキッ!
彼の長剣は、面白いように脆い骨を砕いていく。
骸骨兵たちは剣も持っているが、その動きはあまりにも単調で、彼の敵ではなかった。【鉄壁の報復】で攻撃をいなすまでもない。
彼は、ただ無心で剣を振り続ける。
一体、また一体と、骸骨たちが骨の破片を撒き散らしながら、光の粒子となって消えていく。
そしてその度に、敵の魂(魔素)が、彼のMPを回復させていく。
完璧な、永久機関。
圧倒的な、蹂躙劇。
このまま、この墓室を制圧するのに、一分もかからないだろう。
彼がそう確信した、その時だった。
彼は、気づいた。
墓室の最も奥。
王の石棺が置かれた、その祭壇の影で。
数体の黒いローブを身に纏った人影が、不気味な呪文を唱え始めていることに。
「…ギ…ザ…レクイエム…」
「…ル…ガ…アニマ…」
意味の分からない、古の言葉。
だが、その呪文が持つおぞましい力は、すぐに現実となって彼の目の前に現れた。
彼が倒したはずの、骸骨兵。
その床に散らばっていた骨の破片が、独りでに動き出したのだ。
カタカタと震えながら、それらは、まるで磁石に引き寄せられる砂鉄のように、一つの場所へと集まっていく。
そして、砕かれた骨が再構築され、失われた部位が復元され、再び一体の完全な骸骨兵として、その場に立ち上がったのだ。
その空虚な眼窩に、先ほどよりもさらに濃い、憎悪の赤い光を灯して。
一体ではない。
二体、三体、四体…。
彼が斬り伏せた全ての骸骨が、次々とその呪われた生命を取り戻していく。
「…なんだと…?」
隼人の手が、止まった。
彼の完璧だったはずの永久機関が、その意味を失った。
倒しても、倒しても、無限に復活する死者の軍勢。
それは、終わりのない悪夢。
不毛な、消耗戦。
視聴者たちのコメント欄も、その絶望的な光景に、悲鳴で埋め尽くされた。
『嘘だろ!?復活しやがった!』
『あれがネクロマンサーか!D級のギミックは、これかよ!』
『ダメだ!これじゃキリがないぞ!JOKERさん、一度引け!』
『無限にMPが回復しても、敵が無限に湧いてきたら意味がねえ!』
その通りだった。
彼の【無限斬撃】は、確かに強力だ。
だが、それはあくまで**「有限の敵」**を相手にして、初めて意味を持つ。
敵が無限であるならば、彼の行為は、ただ穴の空いた船から必死に水を掻き出すだけの、無意味な労働に過ぎない。
いずれ、彼の集中力が尽きるか、あるいは武器の耐久値がゼロになるのが、先だろう。
バキンッ!
彼の長剣が、一体の骸骨の頭蓋を砕いた、その直後。
その背後で、別の骸骨がすでにその体勢を立て直し、錆びついた剣を振り下ろしてきていた。
彼は、それを咄嗟にパリィする。
だが、その隙を狙って、また別の三体の骸骨が彼を取り囲み、その骨の刃を彼へと突き立ててきた。
終わりが、ない。
このままでは、いずれ押し潰される。
彼の額に、じわりと冷たい汗が浮かんだ。




