第387話
その日の東京の空気は、新たな時代の熱狂と、それに伴う喧騒で満ち満ちていた。
だが、千代田区永田町、国会議事堂の向かいにそびえ立つ、日本の政治の中枢、首相官邸。その地下深く、外界のあらゆる物理的・電子的干渉から隔絶された内閣危機管理センターの極秘会議室だけは、世界の熱狂から完全に切り離された、氷のように冷たい静寂に支配されていた。
時刻は、午後11時を少し回ったところ。
本来であれば、この国の指導者たちがそれぞれの私邸で、束の間の休息を取っているはずの時間。だが、今夜、その円卓には、この国の運命をその両肩に背負う、全ての閣僚の姿があった。
彼らの表情は一様に硬く、その瞳の奥には、隠しきれない興奮と、そしてそれ以上に大きな、国家の存亡を賭けたギャンブルに挑む者だけが宿すことのできる、深い、深い緊張の色が浮かんでいた。
円卓の中央に鎮座する巨大なホログラムモニター。そこに映し出されているのは、ダンジョンのライブ映像ではない。異空間アジールの酒場で、今この瞬間も、世界のトップランカーたちの羨望の眼差しを一身に浴びている、一足の、あまりにも無骨で、そしてどこまでも禍々しいオーラを放つ、鉄のブーツだった。
「――では、緊急閣議を始める」
議長席に座る男…現内閣総理大臣が、その重い口を開いた。彼の声は静かだったが、その一言が、この部屋の空気をさらに張り詰めたものへと変えた。
「議題は、ただ一つ。今、アジールで確認された、神話級レプリカ・ユニーク【レプリカ・アルベロンの戦闘鉄靴】。これを、我が国として確保すべきか否か。そして、確保する場合、いかなる手段を用いるべきか。忌憚のない意見を聞きたい」
その、あまりにもシンプルで、そしてどこまでも重い問いかけ。
最初に、その声に応えたのは、このテーブルの、事実上の主役だった。
「超常領域対策本部」のトップ、坂本純一郎特命担当大臣。
彼は、その深い皺の刻まれた顔に、一切の感情を浮かべることなく、立ち上がった。
「まず、この『究極の兵器』の性能について、改めて説明させていただきます」
坂本が手元のARパネルを操作すると、中央のホログラムモニターに、あの鉄靴の詳細な性能データが、荘厳な明朝体で表示された。
「ご覧の通り、この装備の本質は、筋力(STR)というステータスを、純粋な混沌ダメージへと変換する、悪魔的なまでの能力にあります」
彼の、その静かな、しかしどこまでもよく通る声が、会議室の静寂を支配する。
「当本部のシミュレーションによれば、我が国の『D-SLAYERS』に所属するトップクラスの隊員が、全身の装備とパッシブスキルを筋力特化に再構築し、このブーツを装備した場合。その単独での戦闘能力は、理論上、現行の一個師団…戦車や戦闘ヘリを含む、約一万の兵力に匹敵、あるいはそれを凌駕する可能性があると、結論付けられました」
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
その、あまりにも非現実的な数字の暴力。
それに、会議室の誰もが、息を呑んだ。
その静寂を破ったのは、一人の、老政治家の、深い、深いため息だった。
財務大臣だった。彼は、その白髪頭をかきむしりながら、心の底からの、そしてどこまでも人間的な愚痴を、漏らした。
「…はぁ。ダンジョンが出来てからもう、内閣会議はゲームの会議だな」
その、あまりにも正直な、そしてこの国の全ての「旧世界の大人たち」の心を代弁するかのような一言。
それに、会議室の空気が、わずかに緩んだ。
だが、その緩んだ空気を、坂本は、最高の、そしてどこまでも冷徹な笑みで、再び引き締めた。
「ははは。大臣、お気持ちは分かります。ですが、これはゲームじゃない、現実です。そして、これは究極の兵器ですよ」
彼の、その静かな、しかし絶対的な一言。
それが、この夜の議論の、本当の始まりを告げる、ゴングとなった。
最初に、その牙を剥いたのは、やはりこの国の「矛」を司る男だった。
防衛大臣が、その巨大な拳でテーブルを叩きつけ、立ち上がった。
「――議論の余地など、ない!」
彼の、その怒号が、部屋全体を震わせた。
「確保だ!何としてでも、確保する!これさえあれば、我が国の防衛力は、飛躍的に向上する!北の脅威も、西の大国も、もはや我々を脅かすことはできん!これこそが、真の『抑止力』だ!」
「総理!どうか、ご決断を!無制限の予算を!」
その、あまりにも力強く、そしてどこまでも愛国心に満ちた、魂の叫び。
だが、その熱狂に、冷や水を浴びせる者がいた。
外務大臣だった。彼は、その常に冷静沈着なポーカーフェイスを、わずかに歪ませながら、静かに首を横に振った。
「…大臣。気持ちは分かりますが、少し、頭を冷やしていただきたい」
彼の声は、シルクのように滑らかで、そして氷のように冷たかった。
「**勿論、アメリカさんも狙うでしょうね。**我々が無制限の予算を投じれば、彼らもまた、それに応じる。結果は、ただの泥沼の消耗戦です。そして、そのチキンレースの果てに、我々が勝てる保証は、どこにもない」
「それだけではない!」
外務大臣は、続けた。その瞳には、世界のパワーバランスを常にその目で見てきた者だけが持つことのできる、深い、深い憂慮の色が浮かんでいた。
「**あと、国際公式ギルドが、どういう反応を示すかです。**彼らは、世界の秩序の、絶対的な番人。一つの国家が、あまりにも強大な力を独占することを、彼らが黙って見ているはずがない。**下手したら、『国家による落札は認めない』とか、言い出すかも知れない。そうなれば、我々の投資は全て水の泡。**国際社会における、我が国の信頼も、失墜する。それは、まずい」
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも現実的な、国際政治の分析。
それに、防衛大臣が、ぐっと言葉に詰まる。
財務大臣もまた、その青ざめた顔で、深く頷いていた。
「…外務大臣の、おっしゃる通りです。無制限の予算を出したい所ですが、そこまで状況が加熱すれば、ギルドが介入するかも知れない。塩梅が、難しいですよ、これは」
会議室は、再び、重い沈黙に包まれた。
手に入れたい。だが、その代償は、あまりにも大きい。
進むも地獄、退くも地獄。
その、あまりにも巨大なジレンマ。
その、息が詰まるような膠着状態。
それを、破ったのは、やはり、この国の、本当の「切り札」だった。
「――ならば」
坂本の、その静かな声が、その場の全ての空気を、支配した。
「我々がやるべきことは、一つです」
彼の瞳には、この混沌としたテーブルの、その全てのカードを読み切り、そして唯一の勝ち筋を見つけ出した、天才ギャンブラーの光が宿っていた。
彼は、そのあまりにも大胆不敵な、そしてどこまでも緻密な「作戦」を、その場の全ての人間へと、告げた。
それは、もはやただの入札戦略ではない。
世界の、全てのプレイヤーを欺き、そして神々すらも手玉に取る、究極のブラフだった。
「まず、我々は、このオークションに、公式には一切参加しません」
その、あまりにも意外な一言。
それに、会議室がどよめいた。
「何!?」
「大臣、それはどういう…!」
坂本は、その動揺を手で制すると、静かに続けた。
「我々が、表立って動けば、必ずアメリカも、中国も、そしてギルドも、警戒する。だから、我々は『降りた』と、見せかけるのです」
「だが、その水面下で。我々は、動く」
彼の視線が、円卓の末席に座る、ギルドの連絡官、伊吹へと注がれる。
「伊吹君。君には、少しだけ汚い仕事をしてもらうことになる。君の、裏の人脈を使い、一人の男を探し出してほしい。かつて、この世界の黎明期から、ただひたすらに、ダンジョン産のアイテムの価値の変動だけを追い続けてきた、伝説のダンジョン専門バイヤー。ハンドルネーム、『蔵前』。彼を、だ」
その、あまりにも意外な、そしてどこまでも伝説の匂いを纏った名前。
それに、伊吹の、その傷だらけの顔が、わずかに引き締まった。
「彼に、我々の『代理人』となってもらうのです」
坂本の声に、熱がこもる。
「我々は、彼に無制限の軍資金を、非公式に提供する。そして、彼はただの一個人のバイヤーとして、この神々の戦争に参加する。誰も、彼の背後に国家がいるとは、夢にも思うまい」
「そして、彼は勝つ。必ずだ。なぜなら、彼はこの世界の誰よりも、市場の『呼吸』を知り尽くしている。最高のタイミングで、最高の一撃を叩き込むだろう」
「そして、彼が落札した、その『究極の兵器』。それを、我々はさらに裏のルートを通じて、彼から『買い取る』。もちろん、彼には十分すぎるほどの手数料を、支払った上でな」
その、あまりにも老獪で、そしてどこまでも美しい、究極の迂回作戦。
それに、会議室の誰もが、言葉を失っていた。
ただ、そのあまりにも完璧な、そしてどこまでも悪魔的な計画の、その美しさに、戦慄していた。
やがて、その沈黙を破ったのは、首相の、深い、深い感嘆のため息だった。
彼は、その深い皺の刻まれた顔に、最高の、そしてどこまでも楽しそうな笑みを浮かべて、言った。
「…面白い」
「実に、面白いじゃないか、坂本君」
「まるで、スパイ映画だな」
彼は、そう言うと、その場の全ての閣僚たちを見渡した。
そして、彼はその絶対的な、そしてどこまでも力強い声で、その最終的な決断を、下した。
「――その作戦、承認する」
「やれ。日本の、全ての叡智と、そして『狂気』を、世界に見せつけてやれ」
その、あまりにも力強い、王の号令。
それが、この国の、新たな時代の幕開けを告げる、ゴングとなった。
その日、日本政府は、ただのプレイヤーであることをやめた。
自らが、この世界の、新たな「ディーラー」となることを、決意したのだ。
その、あまりにも静かで、そしてどこまでも壮絶な、革命の始まりだった。




