第385話
西新宿の空を貫くかのようなタワーマンションの最上階。
その広大なリビングの、床から天井まで続く巨大な窓からは、宝石箱をひっくり返したかのような東京の夜景が一望できた。
神崎隼人――“JOKER”は、その光の海に背を向け、ギシリと軋む高級ゲーミングチェアにその身を深く沈めていた。
時刻は、午前8時を少し回ったところ。
彼の新たな日常が、始まろうとしていた。
「…さて、と」
彼は、椅子からゆっくりと立ち上がった。
彼の魂は、今や三つの顔を持つ。
一つは、世界の理不尽さと戦うための、絶対的な「力」。A級探索者としての、彼の原点である【戦士ビルド】。
一つは、世界の理そのものを、自らの手で書き換えるための、「知恵」。神々の領域すらも視野に入れた、彼の新たなる挑戦である【スマイト徒手空拳ビルド】。
そして、もう一つ。
ただ、純粋にゲームを楽しむための、「遊び」。彼の気まぐれな探求心が生み出した、【ネクロマンサービルド】。
その三つの人生を、彼は完璧に、そして自在に使い分けていた。
「今日の『仕事』は、ハイストだな」
彼は、自らのユニークスキル【複数人の人生】を発動させる。
彼の、レベル34まで育ったスマイト徒手空拳ビルドの、その軽やかな魂が、彼の肉体から抜け出ていくような感覚。そして、入れ替わるようにして、彼の魂に刻まれた最初の、そして最も多くの血と硝煙の匂いを纏った、鋼鉄の魂が、その肉体へと宿る。
彼の、その眠たげだった瞳が、一瞬だけ、鋭く光った。
A級探索者、“JOKER”。
その、帰還だった。
彼は、その日にこなすべきノルマ…ハイストでの金策を始めるために、リビングの中央に、慣れた手つきでポータルを開いた。
行き先は、ただ一つ。
あらゆる欲望と奇跡が取引される、究極のテーブル。
異空間【黄昏の港町アジール】。
彼は、その黄昏色の渦の中へと、躊躇なくその身を投じた。
だが、彼がその先に見た光景は、いつものような、ビジネスライクな喧騒とは、全く違っていた。
◇
「うおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!!!」
「マジかよ!本当に、あるのかよ!」
「どけ!どけ!俺にも見せろ!」
アジールの、その濡れた石畳の路地。
そこは、もはやただの港町ではなかった。
一つの巨大な「祭り」の会場と化していた。
世界中から集まった、A級、S級のトップランカーたちが、まるでバーゲンセールに殺到する主婦のように、一つの場所へと、なだれ込むように殺到している。
その熱狂の中心は、彼がいつもハイスト前の腹ごしらえに使っている、あの馴染みの酒場だった。
そのあまりにも異常な光景に、JOKERは、思わず足を止めた。
彼は、その人の波に逆らうようにして進んでいた、一人の、見覚えのある男の肩を掴んだ。
それは、アメリカ人のガンマン、ジェイクだった。
「おい、ジェイク。なんだ、この騒ぎは」
「おお、JOKER!お前も、噂を聞きつけてきたのか!」
ジェイクは、その顔を興奮で真っ赤にさせながら、答えた。
「出たんだよ!とんでもねえモンが!」
「グランドハイストで、超大物のユニークレプリカが出たんだ!」
「今、あの酒場でお披露目してる!一度見たほうがいいぜ、マジで!」
彼は、そこで一度言葉を切ると、その声を、ひそひそうとしたものに変えた。
その瞳には、畏敬と、そして純粋な興奮の色が宿っていた。
「――700億米ドルは、下らないらしいぜ?」
その、あまりにも暴力的な数字。
それに、JOKERの眉が、ピクリと動いた。
(700億米ドル…?日本円にしたら、10兆円は、超えてるってことか…)
彼の、ギャンブラーとしての魂が、その未知なるテーブルの匂いを、確かに嗅ぎつけていた。
「…面白い」
「一度、見に行くか」
彼は、そう言うと、ジェイクと共に、その熱狂の渦の中心へと、その歩みを進めていった。
酒場の中は、酸欠になるほどの熱気と、男たちの汗と、そして何よりも、剥き出しの欲望の匂いで満ち満ちていた。
人々は、テーブルの上に乗り、椅子の上に立ち、ただ一点を、食い入るように見つめている。
その視線の、中心。
バーカウンターの、その最も目立つ場所に、それは静かに、しかし絶対的な存在感を放って、鎮座していた。
ベルベットの、深紅の座布団。
その上に置かれていたのは、一足の、あまりにも無骨で、そしてどこまでも禍々しいオーラを放つ、鉄のブーツだった。
その表面には、無数の戦いの歴史を物語るかのような、深い傷跡が刻まれ、そのつま先は、敵の頭蓋を砕くためだけに設計されたかのような、鋭利な形状をしていた。
JOKERは、その人の壁をかき分け、最前列へとたどり着いた。
そして、彼はそのARコンタクトレンズの鑑定機能を起動させ、その神々の遺産の、その全てを、その目に焼き付けた。
「名前: レプリカ・アルベロンの戦闘鉄靴
種別: ソルジャーブーツ
レアリティ: ユニーク
物理耐性: 319
エナジーシールド: 20
装備条件: レベル 49, 筋力 47, 知性 47
性能:
・筋力が18%増加する
・物理耐性 +220
・混沌耐性 +19%
・移動速度が25%増加する
・混沌ダメージ以外のダメージを与えることができない
・筋力80ごとに、アタックに1-80の混沌ダメージを追加する
フレーバーテキスト:
飢えた被験体は、完全に力を振るう能力を失った。
だが、栄養を与えられると、彼が触れるもの全てを毒し始めた…」
静寂。
JOKERの、その頭の中だけが、絶対的な静寂に包まれた。
彼の、ギャンブルで鍛え上げられた超人的な思考能力が、目の前の、このあまりにも異質なテキストの、その本当の意味を、常識を超えた速度で、解析し始めていた。
そして、数秒後。
彼は、そのあまりにも巨大な「答え」にたどり着いた。
彼の、その眠たげな切れ長の瞳が、信じられないというように、大きく見開かれた。
「…なんだ、これ…」
彼の口から、素直な、そしてどこまでも戦慄に満ちた、感嘆の声が漏れた。
「どういう事だ。混沌ダメージ以外のダメージを与えることが出来ないというデメリットがあるが、筋力80ごとにアタックに1-80の混沌ダメージを追加する?それに、筋力が18%増加するという効果。…まさか」
彼の脳内で、全てのピースが、一つの完璧な、そしてどこまでも冒涜的な絵図へと、はまっていく。
「素手スマイトビルドのように、筋力特化して使えって事か!」
そうだ。
これは、ただのブーツではない。
一つの、新たな「哲学」そのものだ。
筋力(STR)という、これまでただの物理攻撃力とHPの指標でしかなかったステータス。
それを、純粋な、そしてどこまでも暴力的な「混沌ダメージ」へと変換する、悪魔の錬金術。
彼の脳内で、高速のシミュレーションが開始される。
「もし、筋力を2000まで積み上げる事が出来たら、そのダメージは桁違いに上がる!」
2000 ÷ 80 = 25。
25 × (1-80) の、フラットな混沌ダメージ。
25-2000。
その、あまりにも暴力的な基礎ダメージ。
それに、筋力18%増加の、相乗効果。
そして、もし、このビルドに、あのJOKER自身が発見した【プレサイステクニック】の、40% moreダメージが乗ったら?
あるいは、他の、まだ見ぬ神々の装備が、組み合わさったら?
そのダメージは、もはや計算するのも馬鹿馬鹿しいほどの、天文学的な領域へと、到達するだろう。
スマイト徒手空拳ビルドと、同じ。
いや、それ以上の、怪物が、生まれる。
その、あまりにも恐ろしい、そしてどこまでも甘美な可能性。
それに、JOKERは、ただ戦慄していた。
そして、その彼の戦慄を、肯定するかのように。
彼の周りで、ざわめいていた探索者たちの、噂話が、彼の耳に届いた。
「**おい、聞いたかよ。**これ、公式オークションに出品するらしいぜ?」
「まじかよ!ギルドや国家が、争奪戦するんじゃねぇか?」
「ああ、**史上初じゃないか?**レプリカ・ユニークが、ここまで注目されるのは」
「ああ。出したソロでグランドハイスト回してた奴は、金が欲しいから売るらしいぜ。魔術師だから、使い道がないらしい。わざわざ転生林檎で転生する気もないらしくて、混沌ダメージビルドにも興味ないから、売り一択だとよ」
「へえ、そうなのか。じゃあ、今アジールで披露してるのも、買い取り手を募集中らしいぜ?」
その、あまりにもリアルな、そしてどこまでも欲望に満ちた、噂話。
それに、JOKERは、ふっと、その口元を緩ませた。
そして彼は、その狂乱の渦の中心で、静かに、そしてどこまでも楽しそうに、笑った。
彼の、退屈だった日常は、終わりを告げた。
新たな、そして最高の「おもちゃ」が、この世界のテーブルに、配られたのだから。
彼の、本当の「ショー」が、今、始まろうとしていた。
彼の魂は、その果てしない可能性の前に、これ以上ないほどの歓喜に、打ち震えていた。




