第357話
その日の日米合同冒険者高等学校、大講義室。
その空気は、これまでにないほどの、奇妙な熱気に満ちていた。
数百の席を埋め尽くすのは、真新しい制服に身を包んだ、この国の、いや、世界の未来を担う若き才能たち。日本の生徒たちに加え、昨日、羽田空港に到着したばかりのアメリカ、中国、韓国からの第一期留学生たちの姿もあった。
彼らの人種も、言語も、そして育ってきた文化も違う。だが、その瞳に宿る光だけは、同じだった。
期待と、興奮と、そして目の前の、あまりにも非現実的な光景に対する、純粋な困惑。
彼らの視線が注がれる先、その広大な講堂の、教壇の上に。
一人の男が、ただ静かに立っていた。
神崎隼人――“JOKER”。
その身を包んでいるのは、講師らしいツイードのジャケットではない。彼が常に好んで着ている、フード付きの黒いローブ。その顔は、フードの影に隠れて、ほとんど見えない。
彼は、何も語らない。
ただ、その場にいる全ての人間を、値踏みするかのように、その鋭い瞳で、ゆっくりと見渡しているだけ。
その、あまりにも不遜な、そしてどこまでも圧倒的な存在感。
それに、講義室は水を打ったように静まり返っていた。
「…おい、マジかよ」
アメリカからの留学生の一人、ジェイクが、隣に座る友人に囁いた。
「彼が、あのJOKER…?聞いてたより、ずっとヤバそうな雰囲気じゃねえか」
「ああ」
韓国からの留学生、パク・ソジュンもまた、ゴクリと喉を鳴らした。
「我が国のギルドでも、彼の配信は必修教材だ。だが、本物は、画面越しとは比較にならないほどのプレッシャーだ…」
中国からの留学生、李もまた、その冷静な表情を、わずかに引きつらせていた。
「…面白い。実に、面白いじゃないか。日本の『鬼』が、我々に何を語るのか。見ものだな」
その、国際色豊かな、しかしどこまでも張り詰めた空気。
それを破ったのは、教壇の男の、あまりにも唐突な、そしてどこまでも気怠そうな、第一声だった。
「…はぁ」
彼は、マイクの前で、深く、そして重いため息をついた。
その、あまりにもやる気のない態度。
それに、生徒たちが、ずっこける。
JOKERは、その反応を意にも介さず、続けた。その声は、眠たげで、そしてどこまでも不機嫌そうだった。
「…なんで、俺がこんなところにいるのか。まず、そこから説明しなきゃならねえらしい」
彼は、そう言って、忌々しげに舌打ちした。
「言っとくが、俺は、お前らに何かを教えるつもりは、一切ねえ。柄じゃねえし、何より、面倒くさい。俺がここに来たのは、ただの取引だ。ギルドの、偉いさんたちとのな」
彼は、講義室の後方の席で、心配そうに、しかしどこか誇らしげに彼を見つめている、水瀬雫の姿を一瞥すると、続けた。
「まあ、その話はどうでもいい。今日の、この退屈な時間は、講義じゃねえ。ただの、Q&Aだ。何か、聞きてえことがある奴は、さっさと手を上げろ。なければ、俺は帰る」
その、あまりにも乱暴な、そしてどこまでも一方的な、進行。
それに、生徒たちは、一瞬だけ、戸惑った。
だが、次の瞬間。
講義室の、あちこちから、まるで森のように、無数の手が、突き上げられた。
その、あまりにも熱狂的な反応。
それに、JOKERは、ふっと、その口元を緩ませた。
そして彼は、その中から、一番前の席に座る、一人の金髪のアメリカ人の少年を、指名した。
「――そこの、お前」
「は、はい!」
少年は、その顔を興奮で真っ赤にさせながら、立ち上がった。
「俺は、あなたの【虚空】ガチャの配信を見て、冒険者になることを決意しました!あなたのように、最高のギャンブラーになるのが、俺の夢です!そこで、質問です!どうすれば、あなたのように、運命を、自分の手で掴み取ることができるのですか!?」
その、あまりにも青臭く、そしてどこまでも真っ直ぐな、魂の叫び。
それに、JOKERは、数秒間、沈黙した。
そして彼は、ゆっくりと、その口を開いた。
その声は、いつもよりも少しだけ低く、そしてどこまでも、真剣だった。
「――運命、ね」
彼は、その言葉を、まるで口の中で転がすかのように、反芻した。
「いいだろう。お前らが、そんなに聞きたいって言うなら、少しだけ、俺の昔話を、してやる」
彼は、そこで一度言葉を切った。
そして、彼は語り始めた。
彼が、これまで誰にも、たとえ雫にすら、その断片しか見せたことのなかった、彼の魂の、最も奥深く。
その、あまりにも暗く、そしてどこまでも冷たい、原風景を。
「俺にも、お前らと同じような、ガキの頃があった」
彼の声は、静かだった。
「ダンジョンなんて、興味がなかった。ただ、学校で、仲間とトランプをして、その日の晩飯のことだけを考えていれば、幸せだった。そんな、どこにでもある、ありふれた日常だ」
「俺には、両親と、そして年下の妹がいた。まあ、絵に描いたような、平凡な家族だったな」
彼は、そう言って、どこか遠い目をした。
「だが、その全てが、ある日、唐突に終わった」
「**ある日、妹が、環境魔素不適合症になった。**医者には、言われたよ。『原因は不明。治療法も、ない』と。ただ、日に日に弱っていく妹の、その小さな手を、握りしめることしか、俺にはできなかった」
「そして、その半年後だ。両親が、事故で死んだ。妹の、高額な治療費を稼ぐために、無理な仕事を掛け持ちしていた、その帰り道だったらしい。居眠り運転の、トラックに、追突された。即死だったと、警察は言った」
講義室が、水を打ったように静まり返った。
誰もが、息をすることも忘れ、ただその、あまりにも残酷な、告白に、聞き入っていた。
「絶望した。もう、終わりだと思った。」
JOKERの声は、淡々としていた。だが、その淡々とした響きこそが、彼の、その計り知れない絶望の深さを、何よりも雄弁に物語っていた。
「**親が事故で亡くなってから、妹だけが、俺の唯一の家族だったからな。**その、たった一つの光すらも、消えようとしていた。俺は、全てを呪った。この、理不-尽な世界そのものをな」
「そして、何よりも」
彼の声に、初めて、明確な「憎悪」の色が滲んだ。
「――ダンジョンを、恨んださ」
「あの忌々しい穴が、この世界に現れなければ。魔素なんていう、クソみてえなものが、存在しなければ。俺の家族は、今も、あの小さな食卓で、笑い合っていたはずなんだ」
その、あまりにも生々しい、そしてどこまでも人間的な、魂の叫び。
それに、生徒たちの、その若い、そしてまだ傷つくことを知らない魂が、激しく揺さぶられていた。
ミカも、その瞳に大粒の涙を浮かべていた。
田中健介氏もまた、その眼鏡の奥で、静かに目頭を押さえていた。
「俺は、全てを諦めた。ただ、妹がその命の灯火を燃やし尽くす、その最後の瞬間まで、その隣にいてやること。それだけが、俺に残された、唯一の贖罪だと思っていた」
「だが、ある日、一人の男が、俺の前に現れた。裏社会の、ポーカーハウスの元締めだ。彼は、俺の、その腐りきった瞳の奥に、まだ消えていない『何か』を見出したらしい」
「彼は、俺に言った。『お前のそのツキ、俺のテーブルで試してみねえか?』と。俺は、その誘いに乗った。失うものは、もう何もなかったからな」
「そして、俺は勝った。勝ち続けた。だが、その金は、全て妹の治療費に消えていった。焼け石に水だ。俺は、気づいていた。このままでは、何も変わらないと」
「そんな、絶望の淵で。俺は、初めて、自らの意志で、あの忌々しい場所へと、足を踏み入れた」
「ダンジョンだ」
「俺は、思った。この世界が、俺から全てを奪ったというのなら。俺もまた、この世界から、全てを奪い返してやると。金も、力も、そして、妹の未来も」
「だが、ダンジョンに入り、俺の人生は、変わった」
彼の声のトーンが、変わった。
それは、もはや絶望のそれではない。
一つの、確かな「光」を見出した者の、それだった。
「そこは、ただの地獄ではなかった。そこには、確かに『理』があった。リスクと、リターン。絶望と、そしてそれと等しいだけの、希望。その、あまりにも美しく、そしてどこまでも公平な、ギャンブルのテーブルが、そこにはあった」
「俺は、そのテーブルで、戦った。戦い続けた。そして、俺は気づいたんだ」
彼は、その教壇の上から、講義室にいる、全ての若者たちの、その一人一人の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
そして彼は、その全ての魂を込めて、叫んだ。
その言葉こそが、彼が、この未来の英雄たちに、本当に伝えたかった、たった一つの「真実」だった。
「――人間の精神には、限度がない!」
「限界を超越する事が出来るのが、人間のユニークな点だ!」
「お前らが、今、当たり前のように使っている『レベルアップ』。あれは、ただの数字じゃねえ。お前らの魂が、昨日までの自分を超えたという、確かな証だ!お前らが、当たり前のように飲んでいる、あのフラスコ。あれは、ただの回復薬じゃねえ!何度、打ちのめされても、何度、膝をついても、もう一度立ち上がるための、神様からの、贈り物だ!」
「この世界は、確かにお前らに、多くの理不尽を、そして絶望を、叩きつけてくるだろう。だが、同時に、それと等しいだけの、あるいはそれ以上の、『希望』も、用意してくれている!」
「どんなに、人生が辛くても、前を向いて歩けば、道が拓ける事を、俺が証明した!」
「見てみろ!今の俺を!」
彼は、そう言って、そのフードを、初めて、その手で脱ぎ捨てた。
現れたのは、まだ若さの残る、しかしその瞳の奥に、計り知れないほどの物語を宿した、一人の男の、素顔だった。
その顔には、無数の、古傷が刻まれている。
だが、その表情は、どこまでも穏やかで、そしてどこまでも、力強かった。
「俺は、全てを失った。だが、全てを、取り戻した。いや、それ以上のものを、この手で掴み取った」
「だから、お前らも、諦めるな!」
「才能がない?金がない?運がない?そんなもん、関係ねえ!言い訳だ!」
「命あるかぎり、希望はある!」
「お前らが、その足を一歩でも前に踏み出すことをやめない限り、お前らの物語は、決して終わらねえんだよ!」
その、あまりにも不器用な、しかしどこまでも真っ直ぐな、魂の叫び。
それに、講義室は、絶対的な静寂に包まれた。
そして、その静寂を破ったのは、一人の、小さな、しかしどこまでも力強い、拍手の音だった。
音の主は、アメリカからの、あの金髪の少年だった。
彼の、その涙に濡れた瞳は、もはやただのファンではない。
一人の、本物の英雄を前にした、絶対的な尊敬の光で、キラキラと輝いていた。
その、一つの拍手。
それが、引き金となった。
講義室は、割れんばかりの、万雷の拍手喝采に、完全に包まれた。
国籍も、人種も、そしてクラスも関係なく。
全ての若者たちが、その場で立ち上がり、彼らの、新たな「英雄」の誕生を、その魂の全てで、祝福していた。
その、あまりにも温かい、そしてどこまでも力強い光景。
それを、JOKERは、ただ静かに、そしてどこか照れくさそうに、その目に焼き付けていた。
彼の、孤独だった戦いは、終わった。
ここから始まるのは、彼がその背中で導く、新たな時代の、英雄たちの物語。
その、あまりにも壮大で、そしてどこまでも希望に満ちた、物語の幕開けだった。




