第354話
場所は、新宿伊勢丹の地下食品売り場。通称「デパ地下」と呼ばれる、食の楽園。
ひんやりと、しかしどこまでも清潔な空気が、彼の肺を満たす。磨き上げられた大理石の床は、天井に埋め込まれた無数のダウンライトの光を反射して、まるで水面のようにキラキラと輝いていた。空気中には、焼きたてのパンの香ばしい匂い、色とりどりのフルーツが放つ甘い香り、そして惣菜コーナーから漂ってくる出汁の奥深い香りが、完璧なハーモニーを奏でている。
そのあまりにも平和で、そしてどこまでも幸せな匂い。
それに、神崎隼人――“JOKER”は、少しだけ居心地の悪さを感じていた。
「わあ、見て、お兄ちゃん!魔石メロンだって!すっごく大きい!」
彼の隣で、ショッピングカートを押しながら弾むような声を上げたのは、彼のたった一人の妹、神崎美咲だった。
「…ああ。だが、高いな」
隼人は、そのメロンに付けられた値札を一瞥すると、ぶっきらぼうにそう答えた。そこに表示されていたのは、『一個:80,000円』という、常識では考えられない数字。だが、その隣で、品の良い老婦人が、何の躊躇もなくそれを二つ、買い物かごに入れている。
この世界は、そういう場所なのだ。
「こっちの、魔石イチゴも美味しそうだよ!見て、宝石みたいにキラキラしてる!」
「…ああ」
「あ!あっちには、魔石マンゴーが…!」
その、子供のようにはしゃぐ妹の姿。
それに、隼人の常にポーカーフェイスを保っていたはずの口元が、わずかに、しかし確かに緩んだ。
彼は、その小さな手を、はぐれないようにと、そっと握りしめる。
その、あまりにも温かい感触。
それに、彼の心もまた、温かく満たされていくのを感じていた。
二人は、精肉コーナー、鮮魚コーナーと、まるで宝探しでもするかのように、その広大な食の迷宮を巡っていく。
美咲は、その一つ一つの食材を、目を輝かせながら眺めていた。
「ねえ、お兄ちゃん」
彼女は、ふとその足を止めた。
そして、最高の笑顔で隼人へと向き直った。
その瞳には、もはや講義の後の感傷はない。
ただ、自らが手に入れた新たな「知識」を、この世界で最も尊敬する兄へと、早く伝えたくて仕方がないという、純粋な期待だけがキラキラと輝いていた。
「今日の歴史の授業、すごかったんだよ!」
彼女は、弾むような声でその一日を語り始めた。
その声は、彼女がこの新しい世界を心の底から楽しんでいることを、何よりも雄弁に物語っていた。
「私達が今、こうして当たり前のように生きてるこの世界が、どうやってできたのか。石川先生が、全部教えてくれたんだ」
「…へえ。ニュースでしか知らなかったからなぁ」
彼が、ようやく絞り出したのは、そんな、どこか他人事のような一言だった。
だが、その言葉の裏側で。
彼の脳内には、あの頃の記憶が、鮮明に蘇っていた。
9年前。
彼は、まだ14歳の、ただのガキだった。
ダンジョン?
モンスター?
そんなものより、彼にとって重要だったのは、学校の昼休みに、仲間たちとやるトランプの勝敗であり、そしてその日の晩飯のおかずが、ハンバーグであるかどうか、それだけだった。
彼の、小さな、しかし完璧だった世界。
『――また、そのニュースかよ』
当時の彼は、そう言って悪態をついていた。
リビングの、テレビ。その画面には、連日、同じような映像が映し出されていた。
ヘルメットを被ったアナウンサーが、緊迫した表情で、世界の様子を伝える。
その、あまりにも非現実的な光景。
それを、彼の両親は、食い入るように見つめていた。
『…父さん、母さん。飯、まだかよ』
『静かになさい、隼人。今、大事なところなんだから』
母の、その厳しい声。
父の、その大きな、しかしどこか不安げな背中。
彼は、その光景を、今でもはっきりと覚えている。
当時の彼には、理解できなかった。
なぜ、大人たちが、あんなにもテレビの向こう側の、遠い世界の出来事に、一喜一憂しているのか。
その画面に映る、ゴブリンの醜い顔よりも、今日の給食の、冷めきったコロッケの方が、よっぽど彼にとっては、重大な問題だった。
「あの頃は、バカなガキだったしな」
隼人は、自嘲気味に呟いた。
「ダンジョンなんて、全く興味がなかった。毎日、ニュースばっかりで、つまらないとしか思えなかったな」
彼は、そう言って、どこか懐かしそうに笑った。
「思えば、学校では、友達とトランプゲームばっかりしてたな、あの頃は」
そうだ。
彼の、全ての原点は、そこにあった。
放課後の、誰もいない教室。
西日が差し込む、その机の上で。
彼は、ただひたすらに、カードを切り、そして配り続けた。
ポーカー、大富豪、そしてブラックジャック。
彼は、そのゲームの中に、世界の全てを見ていた。
確率の、揺らぎ。
相手の、心の動き。
そして、たった一枚のカードが、その場の全てをひっくり返す、あの瞬間の快感。
彼は、その時から、すでにギャンブラーだったのだ。
「そうだね!お兄ちゃん、昔からトランプでばっかり遊んでた!」
美咲が、その思い出を肯定するかのように、声を上げた。
そして彼女は、頬をぷくりと膨らませながら、続けた。その姿は、昔と何も変わらない、兄に甘える妹のそれだった。
「私は、オセロがしたかったのに!お兄ちゃん、いっつもトランプばっかりするんだもん!」
その、あまりにも可愛らしい、そしてどこまでも懐かしい、文句。
それに、隼人は思わず、吹き出してしまった。
「はははっ!」
彼は、心の底から楽しそうに笑った。
そして、彼はその小さな頭を、不器用な手つきで、しかしどこまでも優しく撫でた。
「悪い、悪い。あの頃は、好きな事だけしたい、クソガキだったんだよ」
その、あまりにも素直な謝罪。
それに、美咲は少しだけ驚いたような顔をした。
そして彼女は、最高の笑顔で言った。
「うん。知ってる」
その、あまりにも温かい、そしてどこまでも優しい時間。
それが永遠に続くかと思われた、その時だった。
隼人の、その眠たげな切れ長の瞳が、ある一点で、ぴたりと止まった。
それは、青果コーナーの、最も奥。
ひときわ、美しい輝きを放つ、一角だった。
「おっ」
彼の口から、待ってましたとばかりに、声が漏れた。
「魔石フルーツがあるぞ。買おうぜ」
そこには、彼がこれまで見たこともないような、幻想的な果物が並べられていた。
D級ダンジョン【妖精の森】の、奥深くでしか採れないという、希少な果実。
その果肉には、魔石のように、純粋な魔力の光が宿っており、食べればその者の魔力を、わずかに、しかし恒久的に、上昇させると言われている。
当然、その値段も、高い。
一つ、数万円は下らない。
だが、今の彼にとって、そんなことはどうでもよかった。
彼は、その中から、一つの、ひときわ大きく、そして美しい、緑色の果実を指さした。
洋梨だった。
「たまには、贅沢もいいだろ?」
彼は、そう言って、悪戯っぽく笑った。
その、あまりにも子供っぽい、そしてどこまでも兄らしい、笑顔。
それに、美咲は、少しだけ呆れたように、しかし心の底から嬉しそうに、ため息をついた。
そして彼女は、言った。
その声には、兄の、その不器用な優しさを、全て理解している、妹の、温かさが宿っていた。
「――しょうがないなぁ」
彼女は、そう言って、その8万円の値札が付いた、巨大な魔石フルーツの洋梨を、そっと、買い物カゴに入れた。
そして彼女は、兄の顔を、そっと盗み見た。
その横顔は、いつも通りの、ぶっきらぼうなポーカーフェイス。
だが、その瞳の奥に、確かな喜びの色が浮かんでいるのを、彼女は見逃さなかった。
彼女は、くすりと、小さく笑った。
そして、彼女は呟いた。
その声は、兄には聞こえなかったかもしれない。
だが、そこには、彼女の全ての愛情が、込められていた。
「――お兄ちゃん、洋梨、大好きだもんね」
そのあまりにも穏やかで、そしてどこまでも尊い、兄妹の時間。
それを、西新宿の、午後の柔らかな光だけが、静かに、そしてどこまでも優しく、照らし出していた。




