第353話
月曜日の午後。西新宿の空から差し込む柔らかな光が、日米合同冒険者高等学校の巨大な階段教室の窓を白く、そしてどこか神聖な雰囲気で満たしていた。
数百人の若者たちの視線が、教壇に立つ一人の小柄な老人の姿へと注がれている。歴史学者であり、元A級探索者でもある石川講師。彼の静かな、しかしどこまでもよく通る声が、生徒たちの熱気に満ちた、しかしどこか浮ついた空気を、ゆっくりと引き締めていく。
先週、彼らが目の当たりにしたのは、世界の理不尽さそのものだった。B級の呪い、そして腐敗の領域という絶望。その中で、国の英雄たち…『D-SLAYERS』が、自らの命を賭して勝利を掴み取る、あまりにも壮絶な歴史の真実。その衝撃は、まだ生徒たちの心に生々しい傷跡として残っていた。
「――さて、前回の続きだ」
石川は、ARパネルを操作し、巨大なホログラムモニターに一枚の世界地図を映し出した。その地図は、一年前…あの「ダンジョン・パレード」直後の世界の勢力図を、鮮やかな色分けで示していた。
日本とアメリカ。その二つの国だけが、確かな青色…「安全圏」として輝いている。
対して、ヨーロッパ、アジア、南米、アフリカ。そのほとんどの大陸は、危険を示す赤色と、混乱を示す黄色で、まだら模様に染め上げられていた。
「我々は、前回、一つの時代の終わりを見た。旧世界の常識と、軍事力が、ダンジョンという新たな理の前に、いかに無力であったかを。そして、日本とアメリカという二つのダンかジョン先進国が、その圧倒的な力で、世界の新たな『秩序』の礎を築き上げた、その瞬間を」
彼の声は、静かだった。だが、その一言一言には、歴史の目撃者だけが持つことのできる、確かな重みが宿っていた。
「だが、物語はそこで終わりではない。むしろ、本当の歴史は、そこから始まったのだ。今日は、その後の世界が、いかにして今の君たちが生きるこの『平和』な姿へと再編されていったのか。その光と、そして影について、話をしようと思う」
講義室の空気が、引き締まる。
桜潮静と神崎美咲もまた、その静かな熱気の中で、背筋を伸ばし、固唾を飲んでその言葉の続きを待っていた。
「歴史とは、常に勝者によって語られる。だが、その本当の顔は、敗者の涙と、屈辱の中にこそある」
石川は、そう切り出した。
モニターの映像が切り替わる。そこに映し出されたのは、国連本部、安全保障理事会の議場の、あの歴史的な一幕だった。
フランス、ドイツ、イギリス。かつて世界の歴史を、その圧倒的な力と、そして誇りで牽引してきた旧世界の「王」たち。彼らが、その白髪の頭を深く、深く、円卓へと垂れる、あの屈辱的な光景。
『――どうか、我々に、その知識と技術を、教えてはいただけないだろうか』
その、震える声で紡がれた降伏宣言。
「この日を境に、世界のルールは完全に変わった」
石川は、淡々と、しかしどこまでも重い声で語り続ける。
「これまで、ダンジョンゲートを『未知の脅威』として厳重に封鎖し、その存在に蓋をすることで束の間の平和を享受していた国々は、ついにその過ちを認めざるを得なくなった。ダンジョンを、ただ封鎖するだけではダメなのだと。この新たな脅威に対抗するためには、自らの手で『探索者』を育て上げるしかないのだと。彼らは、そのあまりにも苦い教訓を、おびただしい数の兵士の血と、そして国家のプライドそのものを代償として、学んだのだ」
モニターに、次々と写真が映し出されていく。
フランス、アルプスの麓。日本のD-SLAYERSの教官から、剣の基本的な振り方…「斬り上げ」「薙ぎ払い」といった初歩の初歩を、歯を食いしばりながら教わる、フランス軍の特殊部隊員たち。その顔には、昨日までのエリートとしての誇りは微塵もない。ただ、自らの無力さを認め、そして国を守るために、必死に新たな戦い方を学ぼうとする、一人の兵士の顔があるだけだった。
ドイツ、シュヴァルツヴァルト。アメリカの『デザート・イーグル』の隊員たちが、現地で急遽組織されたドイツの探索者部隊に、パーティ連携の基本を叩き込んでいる。言葉の壁、文化の壁、そして何よりも、圧倒的なまでの経験の壁。罵声が飛び交い、時には小競り合いにまで発展する。だが、その混沌の中から、確かに新たな「絆」が生まれ始めていた。
「彼らにとって、それは屈辱の始まりだっただろう。だが、同時にそれは、希望の始まりでもあった」
石川の声が、わずかに温かみを帯びる。
「なぜなら、彼らは我々日米が、何万という犠牲と、そして数え切れないほどの失敗の果てに、ようやく手に入れた『答え』を、最初から知ることができたからだ」
「B級の呪いには、耐性装備が不可欠であること。パッシブスキルツリーにおける、最も効率的なルート。そして、クラフトという、無限の可能性を秘めた力の存在。我々が血反吐を吐きながら開拓したその道を、彼らは教科書として、歩むことができたのだ」
モニターに、一枚の対照的なグラフが表示される。
左側には、ダンジョン出現後、最初の半年間における、日米の探索者の死亡率。その赤い線は、恐ろしいほどの角度で、天を突き刺している。
そして、右側。
ヨーロッパ諸国が、本格的にダンジョン探索を開始してからの、半年間の死亡率。
その線は、驚くほど低く、そしてどこまでも安定していた。
「そうだ。彼らの初期攻略は、驚くほど死者数が少ない状態でスタートした。それは、彼らが我々よりも臆病だったからではない。ただ、我々よりも『賢く』戦う術を、知っていたからだ。皮肉な話だが、歴史とは常に、後から来た者の方が有利にできているものなのだよ」
そのあまりにも本質的な、そしてどこまでも真理を突いた言葉。
それに、生徒たちは深く、そして静かに頷いていた。
「そして、その知識の共有は、戦闘技術だけにとどまらなかった」
石川の講義は、次なるステージへと、その歩みを進めていく。
モニターに映し出されたのは、再びあの紫色の、しかしどこまでも希望に満ちた輝きを放つ、小さな石だった。
【魔石】。
「アメリカと日本による、魔石の活用方法という『答え』。それが、世界へと開示された時。本当の意味での『革命』が起こった」
彼は、モニターに世界地図を映し出し、そのいくつかの国をハイライトした。
中東の、産油国。
南米の、資源国。
かつて、世界の経済を、その地下に眠る化石燃料と鉱物資源で、牛耳ってきた国々。
「彼らの時代は、終わった」
石川は、静かに、しかしどこまでも無慈悲に宣告した。
「魔石という、ほぼ無限の、そしてどこまでもクリーンなエネルギー源の出現。それは、石油や天然ガスの価値を、一夜にして暴落させた。彼らが築き上げてきた富の帝国は、砂上の楼閣のように、あっけなく崩れ去っていったのだ」
モニターに、ドバイの、あの未来都市の映像が映し出される。だが、その光景は生徒たちが知る、華やかなそれではない。建設途中で放棄された、巨大な摩天楼の骸。その間を、砂嵐が虚しく吹き抜けていく。
「だが」と彼は続けた。
その声には、確かな希望の光が宿っていた。
「一つの時代の終わりは、常に新たな時代の始まりを告げる。魔石の恩恵は、世界の富を、より広く、そしてより公平に、再分配したのだ」
彼は、地図の、これまで光の当たらなかった場所を、次々とハイライトしていく。
アフリカの、サハラ砂漠の南の国々。
東南アジアの、小さな島国。
これまで、資源を持たず、貧困と飢餓に喘いできた国々。
「彼らの、その不毛と思われた大地の下にもまた、ダンジョンゲートは、等しく出現した。そして、彼らは気づいたのだ。自らの足元にこそ、世界を変えるほどの『宝』が眠っているという事実に」
モニターに、新たな映像が映し出される。
アフリカの、小さな村。
これまでは、井戸の水を汲むために、何キロも歩かなければならなかった、その村。
その村の、中央に。
一つの、巨大なB級の魔石が、まるでトーテムポールのように、鎮座している。
その魔石から引き出された、清廉な魔力エネルギーが、村に設置された浄水プラントを動かし、そして村の全ての家庭に、清潔な水と、そして夜を照らす明かりを、供給していた。
子供たちの、屈託のない笑い声。
そのあまりにも温かい光景。
「魔石の恩恵が、ここで初めて世界全体に行き渡った」
石川の声が、わずかに震えていた。
「電気代の低下は、産業を活性化させ、新たな雇用を生み出した。食糧の促成栽培技術は、飢餓という概念を、この星から消し去った。そして、魔石軟膏による医療技術の革新は、これまで救えなかった、無数の命を救ったのだ」
「魔石は、あるいは、神が我々人類に与えたもうた、最後の機会だったのかもしれない。人種も、国境も、そして貧富の差も超えて、手を取り合うための」
その、あまりにも壮大で、そしてどこまでも希望に満ちた物語。
それに、講義室は静かな、しかしどこまでも深い感動に包まれた。
静もまた、その瞳に涙を浮かべていた。
彼女は、自らの魂に宿る、あのSSS級スキル【魂の聖歌】の、本当の意味を、少しだけ理解したような気がした。
この力は、ただ仲間を強くするためだけにあるのではない。
この、温かい光を、世界に広げるためにあるのだと。
やがて、講義の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
だが、石川はまだ、その場から動かなかった。
彼は、その静かな、しかしどこまでも重い声で、その日の授業を締めくくった。
その言葉こそが、彼がこの未来の英雄たちに、本当に伝えたかった、たった一つの「真実」だったのかもしれない。
「――だが、忘れるな」
彼の、その老いた、しかし鋭い瞳が、教室の生徒たち一人一人の顔を、見渡した。
「光が生まれれば、必ず、影も生まれる」
「この、あまりにも平和で、そしてどこまでも豊かな時代の、その水面下で。今、新たな、そしてより根源的な『戦争』が、始まろうとしている」
「それは、国家間の、領土や資源を巡る、旧世界の戦争ではない。ギルド間の、縄張り争い。探索者個人の、ランキングを巡る、熾烈な競争。そして何よりも、情報を制する者が、全てを制する、見えざる、情報戦争だ」
「君たちが、これから生きる世界は、かつてないほど豊かで、そして同時に、かつてないほど過酷な競争社会でもある。その中で、君たちはどう生き、何を成すのか。それが、君たち一人一人に課せられた、次の時代の、あまりにも重い『宿題』だ」
「今日の授業は、ここまで。午後は、好きにしろ」
彼の、その静かな言葉。
それが、この日の授業の終わりを告げた。
生徒たちは、そのあまりにも重い歴史の真実と、そして未来への課題を、その胸に刻み込み、それぞれの思いを胸に、席を立ち始めた。
その喧騒の中で。
静と美咲は、まだ、その場から動けずにいた。
彼女たちは、ただ黙って、モニターに映し出された、あの黄金時代の、そしてその後の世界の、目まぐるしい歴史の奔流を、その目に焼き付けていた。
「…すごい、話だったね」
美咲が、ぽつりと呟いた。
「うん…」
静もまた、深く頷いた。
「なんだか、私達が今ここにいることが、奇跡みたいに思えてきた」
「そうだね」
美咲は、その大きな瞳に、これまでにないほどの力強い光を宿していた。
「だから、私達も頑張らないとね。この、平和な時代を、守るために」
「うん!」
静は、力強く頷いた。
二人は、顔を見合わせた。
そして、彼女たちは同時に、最高の笑顔で笑った。
彼女たちの、本当の冒険は、まだ始まったばかりだった。
その輝かしい未来の始まりを、彼女たち自身だけが、まだ知らなかった。
そして、その未来が、決して平坦なだけではない、茨の道であることをも。




