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ギャンブル中毒者が挑む現代ダンジョン配信物  作者: パラレル・ゲーマー
過去・ダンジョンパレード編

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第347話

物語(ものがたり)は10(ねん)(まえ)、ダンジョンが(あらわ)れる当日(とうじつ)(もど)る】

【ダンジョン出現(しゅつげん)()、12ヶ(げつ)経過後】


 世界の潮目は、変わった。

 10年後の未来から振り返れば、誰もがそう断言するだろう。ダンジョンという未知なる理が、人類の歴史という名の穏やかな海流に、巨大な楔を打ち込んだのだと。だが、出現からわずか1年が経過したこの時点において、その変化の本当の意味を理解している者は、まだ世界に一人として存在しなかった。


 東京、ニューヨーク。

 二つの超巨大都市は、新たな時代の熱狂に沸いていた。ダンジョンはもはや脅威ではなく、無限の富を生み出す「黄金郷エルドラド」。魔石エネルギーは産業革命を加速させ、街には昨日よりも今日、今日よりも明日が豊かになるという、どこまでも楽観的な空気が満ち溢れていた。テレビをつければ、B級ダンジョンを攻略する英雄たちの武勇伝が連日報道され、子供たちの将来の夢は、野球選手から「探索者」へと、その姿を完全に変えていた。日本とアメリカ。二つのダンジョン先進国は、この新たなゴールドラッシュの波に乗り、世界の覇権をその手中に収めつつあった。


 だが、その華やかな光の裏側で。

 世界の大多数は、まだ深い眠りの中にいた。

 ヨーロッパ、アジア、南米、アフリカ。

 彼らにとって、ダンジョンとは、いまだに得体のしれない「厄災」であり、触れてはならない「禁忌」だった。彼らは、自国の領土内に出現したゲートを、分厚いコンクリートと鉄条網で厳重に封鎖した。そして、その存在に蓋をすることで、旧世界の秩序という名の、束の間の平和を享受していた。

 彼らは信じていた。この静かな日常が、永遠に続くと。

 彼らは、まだ知らなかった。

 凪いだ海の、その最も深い水底で。

 世界を飲み込むほどの巨大な津波が、静かに、そして確実に、その胎動を始めていることを。

 これは、そんな世界の「油断」と、来るべき大災害の最初の兆候を記録した、名もなき者たちの物語である。


 フランス、アルプス山脈の麓。標高2000メートル。

 万年雪をいただくモンブランの雄大な姿を望む、風光明媚な高地に、その監視所はあった。プレハブで作られた簡素な建物だが、周囲は高さ5メートルの電気柵と、最新鋭の監視カメラで厳重に固められている。その物々しい警備網の中心にあるのは、一つの、まるで黒いインクを空間に垂れ流したかのような、空間の歪み。

 F級ダンジョンゲート、【氷結の洞窟】。

 1年前、世界中に出現した無数のゲートの一つだった。


「…チェックメイトだ、新人」


 監視所の、ストーブが焚かれ温められた室内。

 ジャン・ピエール曹長(48)は、その深い皺の刻まれた顔に、満足げな笑みを浮かべていた。彼の目の前のチェス盤の上では、彼の黒のクイーンが、相手の白のキングを、完全に追い詰めている。

 対面に座る、まだ若さの残る顔つきの一等兵、リュカ(22)は、「くそっ、また負けた…」と、その癖のある茶色の髪を悔しそうにかきむしった。


「だから言っただろうが、リュカ。お前は、攻めが単調すぎる。もっと、盤面全体を見ろ。二手先、三手先を読め」

 ジャンは、そう言って慣れた手つきで、ドリップ式のコーヒーメーカーに豆をセットした。芳醇なコーヒーの香りが、狭い室内に広がる。

 彼の日常は、このコーヒーの香りと、そして1日に15回は繰り返される、この退屈なチェスのゲームで構成されていた。


 ジャンは、このアルプスの山々で、もう20年以上を過ごしている、生粋の山岳兵だった。若い頃は、その鍛え上げられた肉体で、冬山の遭難者を何人も救助してきた。だが、今の彼に、その頃の面影はない。その腹は、長年の平和な勤務と、妻が作る美味しいチーズフォンデュによって、だらしなく弛んでいる。

 1年前、この場所にダンジョンゲートが出現した時。彼は、確かに緊張した。パリの本部からは、厳戒態勢を敷けという命令が下り、一睡もできない夜が続いた。

 だが、その緊張も、今や遠い過去の記憶だ。

 この一年間、このゲートからは、ただ冷たい風が吹き出してくるだけだった。ゴブリン一体、スライム一匹すら、その姿を現したことはない。

 彼の仕事は、退屈そのものだった。一日に三度、ゲートの魔素濃度を測定し、その数値を本部に報告する。それだけ。残りの時間は、こうして新人のリュカとチェスを指すか、あるいは故郷に残してきた妻と娘に、他愛のない手紙を書くだけ。


「…なあ、曹長」

 リュカが、窓の外に広がる雄大なアルプスの雪景色を眺めながら、どこか不満げに言った。

「俺たち、本当にここにいる意味あるんすかね」

「何が言いたい」

「だって、そうでしょう?日本やアメリカじゃ、俺たちと同じくらいの歳の奴らが、探索者になって、億単位の金を稼いでる。英雄になってる。それに比べて、俺たちはどうです?ただ、この雪山で、チェスをしてるだけ。…正直、退屈で死にそうです」

 その、若者らしい、そしてどこまでも正直な不満。

 それに、ジャンはふっと息を吐き出した。


「…リュカ。お前は、まだ若いから分からんかもしれんがな」

 彼は、マグカップに注がれた熱いコーヒーを啜りながら、言った。

「退屈こそが、平和の証だ。そして、俺たち軍人の仕事は、その退屈な日常を、一日でも長く続けることなんだよ」


 その、あまりにもベテランらしい、そしてどこまでも諦観に満ちた言葉。

 それに、リュカは「…そうかもしれませんけど」と、まだ納得のいかない表情で、唇を尖らせた。


 そんな、あまりにも平和で、そしてどこまでもいつも通りの日常。

 それが、唐突に、しかしあまりにも静かに、終わりを告げた。

 その最初の兆候に気づいたのは、リュカだった。

 彼は、いつものように監視モニターを眺めていた、その時。

 ふと、その眉をひそめた。


「…ん?」

「どうした、リュカ。また、カモシカでも迷い込んできたか?」

 ジャンが、軽口を叩く。

「いえ、違います…」

 リュカの声が、わずかに緊張を帯びていた。

「ゲートの様子が、少し…」


 ジャンは、そのただならぬ気配に、マグカップを置くと、リュカの隣へと歩み寄った。

 そして、彼もまた、そのモニターに映し出された光景に、言葉を失った。

 そこには、これまで一度も見たことのない、異質な光景が広がっていた。

 黒い、空間の歪み。

 そのゲートの中心から、まるで生き物が呼吸をするかのように、ゆっくりと、しかし確実に、乳白色の「霧」が、溢れ出してきていたのだ。

 霧は、冷気を纏っているのか、その周囲の空気を白く凍らせ、地面の草花には、うっすらと霜が降りている。

 それは、決して自然現象ではなかった。

 明らかに、ダンジョンの内部から発生した、未知の現象。


「…なんだ、これは…」

 ジャンの口から、呻き声が漏れた。

 彼の、長年の兵士としての勘が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。

 これは、危険だと。

「…リュカ!すぐに、魔素濃度を測定しろ!」

「は、はい!」

 リュカが、慌てて測定器のパネルを操作する。

 数秒後。表示された数値に、彼は再び絶句した。

「…曹長。魔素濃度、通常時の3倍以上に、跳ね上がってます…!」

「…なんだと…?」


 ジャンは、ゴクリと喉を鳴らした。

 彼は、即座に司令部への緊急回線を開いた。

 そして彼は、震える声で、その異常事態を報告した。

「――こちら、アルプス監視所!ゲートより、原因不明の霧状物質の流出を確認!魔素濃度、急上昇中!繰り返す!これは、訓練ではない!」

 その、あまりにも切羽詰まった報告。

 だが、回線の向こう側から返ってきたのは、どこまでも冷静で、そしてどこまでも官僚的な、声だった。

『…こちら、司令部。落ち着け、ジャン曹長。その報告は、すでに他の監視所からも複数上がっている。最高幹部会は、これを特殊な気象現象による、一時的な魔素の活性化と判断している。現時点では、ただの自然現象だ。警戒レベルは、引き上げない。通常通り、監視を続けろ。以上だ』


 その、あまりにも他人事のような、そしてどこまでも楽観的な判断。

 それに、ジャンの額に、青筋が浮かんだ。

「馬鹿野郎!現場は、こっちなんだぞ!」

 彼は、そう叫び返したかった。

 だが、その言葉は、彼の喉の奥で、虚しく消えた。

 軍隊とは、そういう場所だ。

 命令は、絶対。

 彼は、奥歯をギリと噛みしめると、ただ一言だけ、答えた。

「……了解」


 通信が、切れる。

 後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてモニターの向こう側で、その領域をゆっくりと、しかし確実に広げ続ける、不気味な乳白色の霧だけだった。

 ジャンは、ただ呆然と、その光景を見つめていた。

 彼の脳裏に、一つの、拭い去ることのできない予感が、浮かび上がっていた。

(…何か、とんでもなくヤバいことが、始まろうとしている)

 その予感が、的中することになるのは、もう少しだけ、先の話。



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