第36話
「ギシャアアアアアッ…」
【古龍蛇 バジリスク】の断末魔の叫びが、広大なドーム状の空洞に虚しく響き渡る。
その巨大な緑色の体躯は、その存在を維持することができず、内側からまばゆい、しかしどこか禍々しい光を放ちながら、ゆっくりと光の粒子へと分解されていく。
後に残されたのは、絶対的な静寂。
そしてその中心で、無銘の長剣を杖代わりに肩で大きく息をする、一人の満身創痍の男の姿だけだった。
「はぁ……はぁ……はぁっ……クソ…がっ…」
神崎隼人は、途切れ途切れの呼吸を繰り返しながら、かろうじてその意識を保っていた。
全身が、鉛のように重い。傷口からは、絶え間なく血が流れ、彼の視界の隅で赤く点滅するHPバーは、もはや風前の灯火だった。
ベルトに差された5本のフラスコ。そのうち、ライフフラスコとマナフラスコはチャージが完全に尽き、ただの空の瓶と化していた。
勝った。
確かに、勝ったのだ。
だが、それはこれまでの蹂躙劇とは全く質の違う、薄氷の上の勝利だった。
もし、最後のパリィのタイミングがコンマ一秒でもずれていたら。
もし、必殺の【衝撃波の一撃】を叩き込む魔力が、ほんの少しでも足りなかったら。
今頃、この冷たい石の床に転がっていたのは、間違いなく自分の方だっただろう。
その、あまりにもギリギリの死闘。
その結末を固唾を飲んで見守っていた一万人を超える観客たちもまた、すぐにはその現実を受け止めきれずにいた。
コメント欄は、爆発的な熱狂ではない。
まるで張り詰めていた糸が切れたかのような安堵と、そして信じられないという驚きの声で、ゆっくりと埋め尽くされていった。
『……………マジか…』
『勝った…のか…?うそだろ…』
『本当に倒しやがった…。あのバジリスクを、ソロで…』
『危なかった…。心臓、止まるかと思った…。最後のラッシュがなかったら、こっちがジリ貧で確実に負けてたぞ…』
『よく勝てたな、マジで…。今日の配信は、これまでで一番心臓に悪かった…』
爆発的なお祭り騒ぎではない。
視聴者たちは、彼のそのあまりにも無謀な挑戦と奇跡的な勝利を、ただ呆然と受け止めることしかできなかったのだ。
画面に流れ始めた投げ銭もまた、その空気を反映していた。
『ナイスファイト!最高の戦いだった!』
『お疲れ!今日は、もうゆっくり休めよ!』
『これは祝儀だ。うまいもんでも、食ってくれ』
それは、これまでの神の御業を称えるような熱狂的な信仰心からくるものではない。
一人の探索者の命を懸けた死闘を見届けた戦友が、その健闘を称えるかのような、温かく、そしてどこか労わるような雰囲気の投げ銭だった。
その安堵と賞賛の空気が、しばらく続いた後。
コメント欄の流れが、少しずつ変わっていった。
熱狂から、冷静な分析へ。
その口火を切ったのは、やはりあのベテラン探索者たちだった。
元ギルドマン@戦士一筋: ふぅ…。まず、お疲れ、JOKER。生きて帰ってこれたこと、それ自体が奇跡だ。
その労いの言葉。だが、その文章にはどこか棘があった。
元ギルドマン@戦士一筋: だが、今回の勝利を手放しで喜ぶなよ。お前は確かに勝った。だが、その勝ち方は褒められたものじゃない。はっきり言って、今回のボスは**「スルーするのが正解」**の相手だ。
その衝撃的な一言に、コメント欄がざわついた。
『え?』『スルー?』『どういうこと?』
新規の視聴者たちが、困惑の声を上げる。
その疑問に答えたのは、別のベテランだった。
ハクスラ廃人: その通りだぜ、元ギルドの旦那。あそこのボスはな、倒してもドロップするアイテムが、その労力に見合ってねえんだよ。大したレアも、ユニークも落とさねえ。なのに、あのスタックする毒のせいで、アメジストのフラスコもライフフラスコも、ゴリゴリに消費させられる。
ハクスラ廃人: つまり、どういうことか分かるか?下手に戦いを挑んだパーティは、たとえ全滅はしなくても、持ち込んだポーション代で完全に「赤字」になって撤退することになるんだよ。だから、経験豊富なパーティほど、あそこのボスは完全に無視して、道中の雑魚だけを安全に狩って帰る。それが、このダンジョンの最もクレバーな「正解」なんだ。
その、あまりにもリアルで、そしてシビアな解説。
それは、この世界がただのゲームではなく、金と効率が支配するビジネスの側面を持っていることを物語っていた。
そして、その解説を締めくくったのは、いつも冷静なあの女性プレイヤーだった。
ベテランシーカ―: ええ。いつでも安全に撤退できる以上、リスクを冒してまで戦う価値のない相手。それが、このバジリスクというボスの客観的な評価です。
彼女はそこで一度言葉を切ると、その真意を告げた。
ベテランシーカ―: ……だからこそ、JOKERさんの今回の行動は、私達経験者から見れば**「異常」**なんです。
その言葉に、コメント欄の空気が再び張り詰める。
ベテランシーカ―: 彼は、「ボスをスルーする」という最も安全で、最も利益の出る「安定択」を選びませんでした。そして、ジリ貧になり、いつでも撤退できたはずなのに、それをしなかった。初見で、たった一人で、ボスの全ての攻撃パターンをその場で見切り、あのギリギリの戦いを制して、最後まで倒しきった。
ベテランシーカ―: この行動が、いかに凄まじいことか、皆さん、分かりますか?
彼女のその問いかけ。
それが、コメント欄の評価の流れを完全に転換させた。
そうだ、重要なのは、「ボスを倒した」という結果そのものではない。「多くの熟練プレイヤーが避けて通る理不尽なボスを、あえて初見で、たった一人でねじ伏せた」という、そのプロセスとその意味。
そこにこそ、神崎隼人 "JOKER" の本当の恐ろしさがあったのだ。
元ギルドマン@戦士一筋: そうだ。俺が一番驚いたのは、彼が、あっさりと「戦士の戦い方」を捨てたことだ。
元ギルドマン@戦士一筋: 自分のHPと耐性に、絶対の自信を持っていたはずの防御ビルド。それが通用しないと悟った、あの瞬間。彼は、躊躇なくその戦術を放棄した。そして、回避とパリィを主体とした、まるで**盗賊**のような戦い方に、完全に切り替えてみせた。
元ギルドマン@戦士一筋: 普通のプレイヤーなら、自分のビルドに固執して、「こんなはずじゃなかった」とパニックになり、なすすべなくフラスコを浪費して撤退する。あの絶望的な状況で、あの冷静な判断ができるセンス。そして、それを完璧に実行できる技量。…正直、末恐ろしいとしか言いようがない。
ハクスラ廃人: まさに、ギャンブラーだよな、あいつは。普通は、ローリスク・ローリターンの「ボススルー」を選ぶ。それが、一番賢い勝ち方だからだ。だがあいつは、ハイリスク・ローリターンに「しか見えない」最悪のテーブルに、あえて座りやがった。
ハクスラ廃人: そして、その土壇場で、自分のスキルと戦術と、そして何よりもそのイカれた度胸で、無理やり「勝ち」の目を引きずり出したんだ。それは、もはや攻略ではない。ただの、暴力だ。だが、あまりにも美しすぎる暴力だ。
ベテランたちの、その熱を帯びた解説。
それによって、新規の視聴者たちも、ようやくJOKERの本当の強さが、ただの戦闘能力の高さだけではないことを、理解し始めていた。
『なるほど…そういうことか…』
『ただ強いだけじゃなくて、頭がキレすぎるのか…』
『だから見てて、あんなに心臓に悪かったんだな…。常に最悪の選択肢を選んで、それを最高の結果に変えてるのか…』
コメント欄には、新たな質の賞賛と、そして畏怖の念が、生まれ始めていた。
やがて、コメント欄には、一つの新たな共通認識が形成されていく。
ベテランシーカ―: ええ。JOKERさんの今の装備やレベルだけで見れば、その強さはまだ、E級の範疇かもしれません。所詮は、E級のボスです。D級、C級には、もっと理不尽で、もっと初見殺しの敵が、いくらでもいます。
ベテランシーカ―: ですが、彼ならきっと、その都度、私達が誰も思いつかないような「解法」を見つけ出してくれるのでしょうね。彼の戦況を読み解く**『眼』と、勝ち筋のためならセオリーすら平気で捨て去る『胆力』**は、すでにトップランカーの領域に、片足を突っ込んでいると言っても過言ではありません。
元ギルドマン@戦士一筋: ああ。そして、今回の勝利で、彼自身が一番の「課題」を見つけたんじゃないか?「プレイヤースキル頼みの綱渡りでは、いずれ限界が来る」ってな。
元ギルドマン@戦士一筋: 次、彼がどんなビルドを組み、どんなクレバーな「安定した勝ち方」を見せてくれるのか。それが、楽しみで仕方ない。
そうだ、と視聴者たちは思う。
彼が、ただ強いだけのプレイヤーではないことを再認識し、その唯一無二のプレイスタイルにより一層、強く魅了されていく。
もはや、彼らがJOKERに期待しているのは、単なる勝利ではない。
誰も見たことのない、芸術的な勝ち方。
常識を覆す、革命的な攻略法。
それこそが、彼の配信の本当の価値なのだと。
隼人は、そんな視聴者たちの質の変わった期待感を、その肌で感じながら、ドロップした【古龍蛇の心臓】を、静かに拾い上げた。
彼は、確かに理解していた。
今回の勝利は、奇跡だ。
そして、奇跡は何度も続かない。
次なる戦いに勝つためには、もっと確実で、もっと安定した「力」が、必要だ。




