第339話
【物語は10年前、ダンジョンが現れる当日に戻る】
【ダンジョン出現後、8ヶ月経過後】
DESA(ダンジョン経済戦略局)の最高機密会議室。
その空気は、一人の少女が去った後も、まるで時間が止まったかのように、凍りついていた。
円卓を囲む、この国のトップエリートたち。彼らは、誰一人として、言葉を発することができなかった。ただ、ホログラムモニターに映し出された、あまりにも完璧な『ヴァルキリー・キャピタル設立趣意書』と、その隣に並べられた悪魔的なまでの投資契約書を、呆然と見つめているだけ。
彼らは、負けたのだ。
国家の、全ての叡智と権力を結集して、たった一人の7歳の少女に、完膚なきまでに。
重い、重い沈黙。
それを、最初に破ったのは、デヴィッド・ヘイワード長官の、乾いた笑い声だった。
「…はっ、ははは…。素晴らしい。実に、素晴らしいじゃないか…」
彼の顔には、もはや敗北の屈辱はない。
ただ、自らの理解を遥かに超えた、絶対的な「理不尽」を前にした、純粋な畏敬の念だけが浮かんでいた。
「…我々は、神の誕生を、目撃したのだ。諸君」
彼は、そう言って、その場にいる全ての人間を見渡した。
「そして、神は我々に、こう告げている。『ひれ伏すか、あるいは、投資しろ』と。…答えは、一つしかないだろう?」
その、あまりにもアメリカ的な、そしてどこまでも合理的な結論。
それに、その場にいた誰もが、静かに、しかし力なく頷くことしかできなかった。
交渉の結果、アメリカ政府は、エヴリン・リードの要求を、全面的に受け入れるしかなかった。
彼らは、彼女が設立する法人…後の【ヴァルキリー・キャピタル】の、最初の、そして最大の株主となった。その見返りとして、彼らは彼女の戦闘データへの優先アクセス権と、いくつかの希少なドロップ品の優先交渉権を手に入れた。
だが、その実態は、国家と個人が対等な立場で結んだ、歴史上初の「契約」だった。
旧世界の常識が、完全に崩壊した瞬間だった。
◇
その日の夜。
シリコンバレーの、緑豊かな丘の上。
そこに、政府がエヴリンのために用意した、ガラス張りの、あまりにもモダンで、そしてどこまでも孤独な豪邸が、静かに佇んでいた。
壁一面が、床から天井まで続く巨大なガラス窓になっており、眼下には、まるで地上に散りばめられた銀河のような、シリコンバレーの夜景が一望できた。
その、広すぎるリビング。
その中央に、一つの黒檀と象牙で作られた、美しいチェス盤が置かれている。
そして、その前に、彼女は一人座っていた。
エヴリン・リード。
彼女は、その小さな体で、最高級の革張りのアームチェアに深く腰掛け、盤上の駒の動きを、その青い瞳で、静かに見つめていた。
その姿は、もはやただの子供ではない。
世界の運命そのものを、自らの指先で操ろうとする、若き女神の、それだった。
カツリ、という、硬質な音。
彼女の、その小さな指が、黒のクイーンを、静かに、そして滑らかに動かす。
その動きには、一切の迷いがない。
ただ、絶対的な、そしてどこまでも冷徹な、計算だけが、そこにはあった。
その一手によって、盤上の、白いキングは、完全にその逃げ道を塞がれた。
チェックメイト。
勝負は、決した。
彼女が、この数時間で、この国の、そして世界の運命を決定づけたように。
その、あまりにも静かで、そしてどこまでも完璧な勝利の、その余韻。
それを、破るかのように。
一つの、静かな足音が、彼女の背後から近づいてきた。
現れたのは、執事のような完璧な身のこなしの、初老の男性だった。
その手には、銀のトレイに乗せられた、一杯の温かいホットミルクが、湯気を立てている。
「お嬢様。お夜食の、お時間でございます」
その、どこまでも丁寧な、そしてどこまでも温かい声。
それに、エヴリンは、初めてそのチェス盤から、顔を上げた。
「…ありがとう、アルフレッド」
彼女の、その抑揚のない声。
だが、その声の奥に、この老執事に対する、絶対的な信頼の色が滲んでいるのを、アルフレッドは見逃さなかった。
エヴリンは、そのホットミルクを一口飲むと、再びチェス盤へと視線を戻した。
盤上では、彼女が操る黒のクイーンが、完全に孤立無援となった白のキングを、まるで嘲笑うかのように、見下ろしていた。
「アルフレッド」
彼女は、その盤上から目を離すことなく、言った。
「日本の、あの黒崎という男のデータは?」
「はい。全て、ここに」
アルフレッドは、そう言うと、一枚の薄型タブレットを、主の前に、そっと差し出した。
エヴリンは、そのタブレットを一瞥すると、その小さな唇の端を、わずかに吊り上げた。
それは、天使のような、しかし、この世界の全てを手に入れた、神の、笑みだった。
「そう。…面白いですわね」
「このゲーム、私以外にも、面白い動きをするプレイヤーがいるようですわ」
彼女の、その静かな一言。
それが、この世界の、新たな時代の幕開けを告げる、ゴングだった。
彼女の、世界を相手にした、壮大なゲームが、今、始まった。
その、あまりにも静かで、そしてどこまでも恐ろしい、女神の戴冠式だった。
シリコンバレーの、その美しい夜景だけが、その全ての始まりを、ただ黙って、見下ろしていた。




