第338話
【物語は10年前、ダンジョンが現れる当日に戻る】
【ダンジョン出現後、8ヶ月経過後】
アメリカ合衆国、ワシントンD.C.。
その国の、そして世界の運命を左右する決定が下される場所、ホワイトハウス。そのさらに地下深く、いかなる物理的・電子的攻撃も届かない、DESA(ダンジョン経済戦略局)の最高機密会議室。
その空気は、鉛のように重かった。
部屋の中央に鎮座する、磨き上げられた黒曜石の巨大な円卓。その上座に座るデヴィッド・ヘイワード長官の表情は、これまでにないほど険しく、そしてその瞳の奥には、隠しきれない興奮と、そしてわずかな恐怖の色が浮かんでいた。
彼の周りを固めるのは、この国の最高の叡智を結集した、側近中の側近たち。
児童心理学の権威、アーニャ・シャルマ博士。
元DARPAの天才、マーカス・ソーン博士。
そして、その背後に影のように控える、元デルタフォース指揮官、エージェント・スティール。
彼ら、旧世界のルールを知り尽くしたプロフェッショナルたちが、今、たった一人の、あまりにも小さな挑戦者を、迎え撃とうとしていた。
ギィィィ…という、わずかな駆動音と共に、会議室の分厚いチタン製の扉が、ゆっくりと開かれた。
そして、そこに現れたのは、一人の、あまりにも場違いな少女の姿だった。
エヴリン・リード、7歳。
プラチナブロンドの髪を、可愛らしいツインテールに結び、その身を包んでいるのは、高級な子供服ブランドの、真っ白なワンピース。
その隣には、執事のような完璧な身のこなしの初老の男性が、静かに付き添っている。
その光景は、あまりにもシュールで、そしてどこまでも異様だった。
エージェントの一人が、彼女のために、巨大な革張りの椅子の上に、子供用の、可愛らしいデザインのブースターシートを、そっと置いた。
エヴリンは、それに何の感情も見せることなく、ちょこんと、その玉座のような席に腰を下ろした。
その小さな足は、床に届かない。
「――ようこそ、エヴリン君」
ヘイワードが、その重い口を開いた。
彼は、練習した通りの、最も優しく、そして最も威厳のある声で、語りかけた。
「長旅、ご苦労だったね。まずは、何か飲むかい?オレンジジュースでも」
「結構ですわ、長官」
エヴリンの、その抑揚のない、しかしどこまでも明晰な声が、会議室の静寂を切り裂いた。
「時間の無駄です。本題に、入りましょう」
その、あまりにも子供らしくない、そしてどこまでもビジネスライクな一言。
それに、その場にいた全ての大人たちの顔が、わずかにひきつった。
ヘイワードは、咳払いを一つすると、その表情を、この国の未来を担う指導者の、それへと切り替えた。
彼は、この国が持つ、最高のカードを切った。
「エヴリン君。我々は、君に最高の環境を提供することを約束する。最高の教育、最高の装備、そして最高の安全を。その代わり、君のその力を、この国のために、使ってはくれないだろうか」
彼は、その言葉に、父性的な優しさと、そして国家としての絶対的な力を、絶妙に織り交ぜた。
どんな人間であろうと、この提案を前にすれば、心を揺さぶられるはずだ。
彼は、そう確信していた。
だが。
エヴリンは、その提案を、最後まで静かに聞いていた。
そして、彼女はこてんと、不思議そうに首を傾げた。
その仕草だけは、どこにでもいる7歳の少女の、それだった。
だが、その唇から紡ぎ出された言葉は、神々の、それだった。
「…長官。あなたのそのご提案は、根本的に間違っていますわ」
「え?」
ヘイワードの、その完璧だったはずの表情に、初めて明確な動揺が走った。
エヴリンは、続けた。その声は、どこまでも平坦だった。
「あなたは、私を国家というシステムに組み込もうとしています。それは、社会主義的な発想です。ですが、ここはアメリカ合衆国。自由と、競争と、そして何よりも資本主義の国ですわよね?」
彼女は、そう言うと、その小さな指先で、テーブルの上に置かれたARグラスを、軽くタップした。
円卓の中央の、何もない空間。
そこに、一つの荘厳な、そしてどこまでも挑戦的な企画書が、ホログラムとして浮かび上がった。
そのタイトルは、世界の全ての人間を、嘲笑うかのようだった。
『ヴァルキリー・キャピタル設立趣意書』
「私を、管理しようなどと、お考えにならないでくださいな」
エヴリンは、言った。その青い瞳は、もはやヘイワードを見てはいなかった。そのさらに奥。この国の、そして世界の、未来そのものを、見据えていた。
「私は、国家に奉仕する兵士ではありません。私は、私自身がCEOを務める、一つの『企業』です。そして、あなた方は、その企業に、出資なさるべきですわ」
「私のこのスキルは、この世界で最も価値のある、唯一無二の資産。この資産が生み出す未来の利益に対し、あなた方は投資家として、そのリターンを享受する。それこそが、この国における、正しいビジネスの形ではありませんこと?」
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
ヘイワードと、彼の側近たちは、ただ言葉を失うしかなかった。
シャルマ博士は、その美しい顔を蒼白にさせ、震える手で、額の汗を拭っている。
ソーン博士は、その分析的な瞳をこれ以上ないほど見開き、目の前の少女を、もはや人間としてではなく、一つの未知なる「現象」として、観測していた。
そして、エージェント・スティール。彼は、その歴戦の勇士としての本能で、感じ取っていた。
今、自分たちが対峙しているのは、いかなるテロリストよりも、いかなる独裁者よりも、遥かに危険で、そして遥かに格上の、「怪物」なのだと。
7歳の少女に、この国のトップエリートたちが、完全に、そして木っ端みじんに、論破された瞬間だった。
彼らの、そのあまりにも人間的な、そしてどこまでも滑稽な動揺。
それを、エヴリンは、ただ静かに、そしてどこか退屈そうに、眺めていた。
そして彼女は、その小さな、しかしこの世界の誰よりも重い、最後の一撃を、放った。
「…ちなみに」
彼女は、そのホログラムの企画書を、指先でスワイプした。
画面が切り替わり、そこに表示されたのは、一つの、あまりにも緻密で、そしてどこまでも悪魔的な、契約書の雛形だった。
「これが、私からの、投資契約の提案ですわ。第一ラウンドの、最低投資額は、10億ドル。それで、あなた方は、私の生み出す利益の、5%の優先株主となる権利を、得ることができます。…いかがなさいますか?この、歴史的な投資の機会。逃す手は、ありませんわよね?」
その、あまりにも無邪気な、そしてどこまでも残酷な、悪魔の囁き。
それに、ヘイワードは、ついに観念したように、深く、そして重いため息をついた。
彼は、理解した。
自分は、負けたのだと。
旧世界の、全ての常識と、プライドと、そして国家という名の巨大な権力。
その全てが、このたった一人の7歳の少女の、その圧倒的な「理」の前に、完全にひれ伏したのだと。
彼は、その震える声で、ようやく、その言葉を絞り出した。
「……分かった」
「その、契約書を、見せてもらおうか」
その一言。
それが、この国の、そして世界の、新たな時代の幕開けを告げる、降伏の鐘の音となった。
エヴリンは、その言葉に、初めて、その小さな唇の端を、わずかに吊り上げた。
それは、天使のような、しかし、この世界の全てを手に入れた、神の、笑みだった。




