第336話
【物語は10年前、ダンジョンが現れる当日に戻る】
【ダンジョン出現後、8ヶ月経過後】
アメリカ合衆国、カリフォルニア州、シリコンバレー。
Google、Apple、Facebook…。旧世界の神々が、そのガラス張りの神殿を構える、世界で最も知性に満ち、そして最も未来に近い場所。その中心、パロアルトの郊外に、新たなダンジョンゲートが出現したのは、ダンジョン出現から8ヶ月が経過した、ある夏の日のことだった。
ゲートから漏れ出す魔素を分析したギルドは、そのダンジョンをF級と認定し、こう名付けた。
【廃棄されたサーバーファーム】。
その、あまりにも現代的で、そしてどこか物悲しい名前。
当初、このダンジョンは、他のF級と同様、探索者たちの格好の稼ぎ場となっていた。内部に出現するのは、旧時代のテクノロジーが魔素と融合して生まれた、機械蜘蛛や、自律式の警備ドローンといった、比較的対処しやすいモンスターばかり。ドロップする魔石の質も悪くなく、何よりも都市部からのアクセスの良さから、瞬く間に、西海岸の新人探索者たちの人気スポットとなった。
誰もが、この平和なゴールドラッシュが続くと信じていた。
その、あまりにも楽観的な空気が、一変するまでは。
◇
【SeekerNet - North America Server】
スレッドタイトル:【WTF】シリコンバレーのサーバーファーム、マジで何が起きてるんだ?【Loot Pinata?】
1: 名無しの新人Ranger
おい、誰か説明してくれ。
さっき、仲間と3人でサーバーファームの2階層に行ったんだ。そしたら、なんだと思う?
モンスターが一匹もいねえんだよ。
その代わりに、フロアのど真ん中に、魔石とドロップ品が、山みてえに積まれてやがった。
これって、新種のボーナスステージか何かか?
2: 名無しのベテランWarrior
1
釣り乙。
どうせ、先行パーティが狩り尽くした後だっただけだろ。
初心者は、そういうのも分かんねえのか。
3: 名無しの新人Ranger
2
違う!違うんだよ!
俺たち、そのフロアに一番乗りだったんだ!入り口のセキュリティードア、俺たちがこじ開けたんだから!
なのに、中にはもう、お宝の山だけがあったんだよ!
マジで、気味が悪いぜ…。
4: 名無しの情報分析官
3
ふむ…興味深いな。
ここ数日、サーバーファームの魔石産出量が、統計的に見て異常な数値を叩き出しているという報告はあった。
君の話が本当なら、その原因は、これかもしれん。
誰かが、我々の知らない方法で、このダンジョンを「養殖」している可能性がある。
5: 名無しのゴーストハンター
養殖…?
いや、違うね。
俺は、昨日、その「現場」を目撃した。
いや、正確には、その「残骸」をな。
俺のパーティが3階層に突入した、まさにその瞬間だった。
目の前で、最後の警備ドローンが、まばゆい光と共に、木っ端みじんに消し飛んだんだ。
そして、その光が収まった時。
そこには、誰もいなかった。
ただ、キラキラと輝く魔石だけが、床に転がっていた。
まるで、亡霊の仕業のように。
その、あまりにも生々しい、そしてどこまでも不気味な目撃証言。
それが、引き金となった。
スレッドは、爆発した。
「俺も見た!」「マジだ!」「先行パーティなんていなかった!」
シリコンバレーのサーバーファームに、正体不明の「何か」がいる。
その噂は、燎原の火のように、西海岸の探索者たちの間に広まっていった。
そして、彼らは畏敬と、そしてわずかな恐怖を込めて、その存在をこう呼んだ。
「シリコンバベイの亡霊」、と。
◇
米国公式ギルド、西海岸支部。
その、地下深くに存在する、巨大なモニタリングルーム。
壁一面に設置された巨大なスクリーンには、西海岸全域のダンジョンゲートのライブ映像が、リアルタイムで映し出されていた。
その、情報の洪水の中で。
一人の男が、その鋭い瞳で、一つの画面だけを、食い入るように見つめていた。
彼の名は、ジョン・ミラー。
ギルドの情報分析部門を率いる、ベテランのエージェントだった。
彼の目の前のモニターには、あの「シリコンバレーの亡霊」に関する、SeekerNetの掲示板のログが、凄まじい勢いで流れ続けていた。
「…馬鹿げている」
ミラーは、吐き捨てるように言った。
「亡霊だと?ふざけるな。ただの、隠密スキルを持った高ランクの盗賊が、低級ダンジョンで初心者をからかっているだけだろう」
「ですが、主任」
隣に座る若いアナリストが、恐る恐る口を挟んだ。
「その『高ランクの盗賊』が、一体何のために?F級の魔石など、A級以上の探索者にとっては、何の価値もないはずですが…」
「知るか。金持ちの道楽だろ」
ミラーは、苛立たしげにそう言うと、一つの決断を下した。
「…まあ、いい。この下らない幽霊騒ぎも、今日で終わりだ」
彼は、通信機のスイッチを入れた。
「こちら、ミラー。サーバーファームに、ステルス機能付きの監視ドローンを3機、投入しろ。あの『亡霊』の、正体を暴き出す。どんな手を使っても、だ」
彼の、そのあまりにも冷静な、そしてどこまでもプロフェッショナルな命令。
それが、この世界の理を、根底から破壊する、パンドラの箱を開けることになるなど。
その時の彼は、まだ知る由もなかった。
◇
監視ドローンが、その薄暗いサーバーファームの内部へと、音もなく侵入していく。
その高解像度のカメラが映し出すのは、どこまでも続く、静寂な、そして死んだように沈黙した、サーバーラックの列。床には、おびただしい数のケーブルが、まるで金属の蛇のように、とぐろを巻いていた。
ドローンは、一層、また一層と、その階層を上げていく。
そして、ついに5階層。
ダンジョンの、最深部へと到達した。
そこは、ひときわ巨大な、ドーム状の空間だった。
中央には、このサーバーファームの、かつての心臓部であったであろう、巨大なメインフレームが、その機能を停止したまま、静かに鎮座している。
そして、そのメインフレームを守るようにして、一体の巨大なモンスターが、その姿を現した。
全長5メートルを超える、巨大な機械蜘蛛。
その8本の脚は、鋭利な刃物のように研ぎ澄まされ、その頭部の、赤い複合眼が、侵入者であるドローンを、冷徹に捉えていた。
F級ダンジョン【廃棄されたサーバーファーム】の主、【デバッグ・スパイダー】。
『…ターゲット、補足』
ミラーは、モニタリングルームで、その光景に満足げに頷いた。
「よし。あとは、あの『亡霊』とやらが、現れるのを待つだけだ」
だが、その彼の、あまりにも楽観的な予測。
それを、嘲笑うかのように。
ドローンのカメラの、その片隅に。
一つの、あまりにも場違いな影が、映り込んだ。
「…ん?」
ミラーは、眉をひそめた。
「なんだ、あれは…?子供…?」
モニターに映し出されていたのは、一人の、小さな、小さな少女だった。
プラチナブロンドの髪を、可愛らしいツインテールに結んでいる。
その身を包んでいるのは、戦闘服ではない。ピンク色の、フリルのついたワンピース。
その姿は、まるで日曜日の公園に、ピクニックにでも来たかのようだった。
彼女は、その巨大な機械蜘蛛を前にしても、一切の恐怖を見せることなく、まるで遊び場で新しい遊具を見つけたかのように、その瞳をキラキラと輝かせていた。
「――いた」
彼女の、その鈴を転がすような、しかしどこまでも無機質な声。
それが、ドローンの高性能マイクに、確かに拾われた。
そして彼女は、その手に握られた、初心者用の粗末な短刀を構えると、まるでスキップでもするかのように、その巨大なボスへと、駆け寄っていった。
その、あまりにも無謀で、そしてどこまでも狂気的な光景。
それに、モニタリングルームの誰もが、息を呑んだ。
「馬鹿野郎!止めろ!」
ミラーが、絶叫した。
だが、その声は、届かない。
少女の、その小さな体が、ボスの、巨大な刃の脚の間を、まるで蝶のように、ひらりひらりと舞い踊る。
そして、彼女がその短刀で、ボスの、装甲の継ぎ目を、コン、と軽く突いた、その瞬間だった。
ドッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
世界から、音が消えた。
そして、次の瞬間。
巨大な機械蜘蛛は、内側から、太陽が爆発したかのような、まばゆい光を放った。
そして、その光が収まった時。
そこには、もはや何も残ってはいなかった。
あれほど、絶望的に見えたF級のボス。
それが、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その存在ごと、この世界から完全に消滅していた。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、おびただしい数の魔石の山を、退屈そうに眺める、一人の少女の姿だけだった。
モニターの、分析データ表示ウィンドウが、けたたましいアラート音と共に、赤いエラーメッセージを吐き出していた。
『DAMAGE MULTIPLIER: ×4.0…ERROR』
『PROBABILITY ANALYSIS…ERROR』
『THREAT LEVEL…ERROR…ERROR…ERROR…』
ミラーは、その光景に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
彼の、これまでの全ての常識と、経験と、そして世界の理そのものが、今この瞬間、たった一人の7歳の少女によって、完全に、そして木っ端みじんに、破壊されたのだ。
彼女は、ただの子供ではなかった。
この世界の理を、根底から破壊する「何か」。
一つの、歩く災害。
一つの、神々の気まぐれな、エラーだった。




