第333話
その日の夜、世界の時間は止まった。
西新宿のタワーマンションで一人のギャンブラーが退屈そうに欠伸をしていた、まさにその裏側で。
ニューヨークのウォール街でトレーダーたちが次の取引の算段を立てていた、その裏側で。
ロンドンの、歴史あるギルドハウスで老練な探索者たちが静かに茶を嗜んでいた、その裏側で。
全ての日常が、一つの絶対的な「狂騒」の前に、その意味を失った。
日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』。
そのトップページは、もはや本来の機能を失い、一つの巨大な「祭り」の会場と化していた。全ての掲示板、全てのカテゴリーが、ただ一つの話題で埋め尽くされている。
世界で初めて、一人の探索者の手によって組み上げられた、神話級のクラフトアイテム。
【フラクチャーオーブ】。
その、あまりにも唐突に現れた究極の切り札が、ギルドの公式オークションハウスに、出品されたのだ。
【SeekerNet 掲示板 - ライブ配信総合スレ Part. 985】
1: 名無しの実況民A
おい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
始まったぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
JOKERが、配信始めた!!!!!!!!!!!!!!!
タイトルが、ヤバい!!!!!!!!!!!!!!!!
その、あまりにも切羽詰まった絶叫。
それに、スレッドは一瞬にして、トップスピードへと加速した。
【配信タイトル:【世界初】フラクチャーオーブ、出品してみる【伝説の始まりか、破滅か】】
【配信者:JOKER】
【現在の視聴者数:1,834,291人】
『は!?』
『マジかよ!売るのかよ、あれを!』
『自分で使わないのか!?最高のギャンブルができるのに!』
『いや、これ自体が奴にとっての最高のギャンブルなんだよ…!』
その熱狂をBGMに、配信画面にJOKERの姿が映し出された。
彼は、西新宿のタワーマンションの一室。その漆黒のハイスペックPC、【静寂の王】の前に座り、ARカメラの向こうの興奮する観客たちに、不敵な笑みを向けた。
「よう、お前ら。見ての通り、今日はオークション配信だ」
彼の声は、どこまでも楽しそうだった。
「俺が、この手で創り出した、この世界の新しい『理』。こいつが、一体どれほどの価値を持つのか。それを、お前らと一緒に、高みの見物を決め込もうじゃねえか」
彼は、そう言うと、公式オークションハウスの出品画面を開いた。
そして、彼はその開始価格の入力欄に、指を置いた。
「開始価格は、1億から。時間は、1時間。短い勝負だ」
「さあ、始めようぜ。神々の、醜い札束の殴り合いをな」
その、あまりにも不遜な、そしてどこまでも挑発的な宣言。
それに、コメント欄が、爆発した。
『きたあああああああ!』
『1億スタート!安すぎるだろ!』
『いや、これがJOKERのやり方なんだよ!テーブルを、最高に熱くするためのな!』
その熱狂をBGMに、彼は躊躇なく、出品ボタンをクリックした。
そして、世界の歴史が、再び動き始めた。
オークション開始のゴングが鳴り響いた、そのコンマ数秒後。
画面の入札額が、いきなりその数字を、ありえないほど変えたのだ。
【入札者:Guild_Odin_Asset】
【入札額:10億円】
静寂。
そして、爆発。
『は!?』
『いきなり10億!?!?』
『オーディン、ガチじゃねえか!』
だが、その驚愕は、まだ序の口に過ぎなかった。
北欧の神々が口火を切ったその戦いに、世界の巨人たちが、次々とその姿を現したのだ。
【入札者:Guild_Seiryu_Fund】
【入札額:50億円】
【入札者:Valkyrie_Capital_LLC】
【入札額:80億円】
【入札者:Royal_Family_MidEast】
【入札額:100億円】
100億。
開始から、わずか1分。
その数字がモニターに表示された瞬間、SeekerNetのサーバーが、一度、悲鳴を上げた。
だが、戦いはまだ終わらない。
200億。
その数字が表示された時、コメント欄に、一つの祝福の書き込みが投下された。
『材料費200億ペイ出来たな!!』
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも祝祭的な一言。
それを、配信画面の向こうで見ていたJOKERは、ふっと、その口元を緩ませた。
そして彼は、ARカメラの向こうの観客たちに、聞こえるように呟いた。
「――ああ、最低ラインは合格だ。さて、どこまでいくか」
その、絶対的な王者の言葉。
それが、この狂乱のオークションの、第二幕の始まりを告げる、ファンファーレとなった。
300億。
400億。
500億。
550億。
600億。
650億。
もはや、そこに駆け引きなど存在しない。
ただ、純粋な、そしてどこまでも暴力的な、50億のレイズが、積み重なっていく。
世界の富が、この一つのオーブの下に、集約されていく。
その、あまりにも非現実的な光景。
それに、コメント欄はもはや、言葉を失っていた。
そして、オークション開始から40分が経過した、その時。
入札額が、700億円に到達した、その瞬間。
ぴたりと、その動きが止まった。
まるで、嵐の前の、静けさ。
『…止まったぞ』
『700億で、終了か?』
『いや、まだだ。まだ、オーディンも青龍も残ってる』
『どうなるんだ…?』
その、息が詰まるような沈黙。
それを、破ったのは、JOKER自身の、乾いた笑い声だった。
彼は、新しいタバコに火をつけながら、その紫煙を、ゆっくりと吐き出した。
そして、彼は言った。
その声は、全てを見透かしたかのような、預言者のそれだった。
「――おいおい、前にも言ったろ。最後が、一番盛り上がるんだよ」
その言葉が、現実となったのは、残り時間が、1分を切った、その時だった。
それまで、沈黙を保っていた巨人たちが、一斉に、その最後の牙を剥いた。
【入札者:Guild_Odin_Asset】
【入札額:800億円】
『うおおおおお!動いた!オーディンだ!』
コメント欄が、絶叫した。
だが、その絶叫は、次なる絶叫によって、かき消される。
【入札者:Guild_Seiryu_Fund】
【入札額:900億円】
『青龍が返した!』
『やべえ!やべえよ!』
【入札者:Valkyrie_Capital_LLC】
【入札額:1000億円】
『1000億!大台、乗ったぞ!』
『わー、来たー!』
そこから先は、もはや人間の目には追いきれない、神々の領域の戦いだった。
1100億。
1200億。
1300億。
1400億。
モニターの数字が、まるで壊れたスロットマシンのように、凄まじい勢いで回転していく。
そして、残り時間、3秒。
オーディンが、その全ての執念を、そしてギルドの未来そのものを賭けた、最後の一撃を放った。
【入札者:Guild_Odin_Asset】
【入札額:1500億円】
その、あまりにも重い、そしてどこまでも美しい、最後の一撃。
それに、他の全ての巨人が、ついに沈黙した。
勝負は、決した。
そして、運命のカウントダウンが、ゼロになる。
【オークションは終了しました】
【最終落札価格: 150,000,000,000円】
【落札者: Guild_Odin_Asset】
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
その、あまりにも劇的な結末。
それに、コメント欄が、これまでのどの熱狂とも比較にならない、本当の「爆発」を起こした。
もはや、それは言葉にならない、ただの、魂の絶叫の、洪水だった。
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!』
『やった…!やったんだ…!』
『歴史が、動いた…!』
『1500億…。もう、俺たちの金銭感覚じゃ、理解できねえ…』
その興奮の渦の中で、一人のユーザーが、冷静に、しかし震える指で、計算を始めた。
『待てよ…。**手数料5%**ってことは…75億か…?それでも、JOKERの手元には、1425億残るのかよ…』
『なんだよ、この男…。最強のギャンブラーかよ…』
その、あまりにも当然な、そしてどこまでも絶対的な結論。
大金が、再びJOKERの手に渡った。
その、あまりにも巨大な、そしてどこか空虚な勝利の味を、彼はただ一人、静かに噛みしめていた。
彼のギャンブルは、終わった。
そして、彼は勝ったのだ。




