第329話
【物語は10年前、ダンジョンが現れる当日に戻る】
【ダンジョン出現後、6ヶ月経過後】
霞が関、内閣危機管理センターの極秘会議室。
その空気は、一ヶ月前とは比較にならないほどの、静かな、しかしどこまでも深い興奮と、そしてわずかな困惑に満ちていた。円卓を囲む日本のトップエリートたちは、巨大なホログラムモニターに映し出された一枚の公式文書を、まるで聖書でも読み解くかのように、食い入るように見つめていた。
それは、数時間前に、ホワイトハウスから、最高レベルの機密回線を通じて送られてきた、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマの、親書だった。
「…信じられん」
最初に、その沈黙を破ったのは、外務大臣だった。彼の、常に冷静沈着なポーカーフェイスが、これまでにないほど、純粋な驚愕の色に染まっている。
「アメリカ政府からの返答に、舌を巻くとはな。流石に、この返答は予想していなかった…」
彼のその言葉に、会議室の誰もが、深く、そして静かに頷いた。
彼らが、国家の存亡を賭けて提示した「対価」…日米が対等の立場で世界のルールを創り上げるという、あのあまりにも大胆な提案。
それに対し、アメリカが返してきたのは、単純な「YES」でも「NO」でもなかった。
それは、彼らの提案を、遥かに上回るスケールの、あまりにも壮大で、そしてどこまでも野心的な「逆提案」だった。
『――【国際公式探索者ギルド】の、共同設立』
その、あまりにも力強い文字列。
それに、防衛大臣が、その巨体を震わせながら、興奮したように言った。
「面白い!面白いじゃないか!国連などという、旧世界の老人の寄り合いではない!この新しい時代の、新しい秩序を、我々日米の手で創り上げる!最高の提案だ!」
「ええ!」
他の大臣たちも、次々とその興奮を口にし始める。
「この新たな枠組みに、ワクワクしますな!」
「これこそが、真の『新世界秩序』だ!」
だが、その熱狂の中心で。
坂本純一郎だけは、その喜びの中に、一つの確かな「棘」を感じ取っていた。
(…やられたな)
彼は、心の中で、その見えざる好敵手の顔を思い浮かべていた。
デヴィッド・ヘイワード。
そして、その背後にいる、バラク・オバマ。
(我々の提案を、ただ飲むのではない。それを、さらに大きな風呂敷で包み返し、そしてその主導権を、再び自分たちの側へと引き戻す。見事な、一手だ)
そうだ。
アメリカの提案に、このまま乗るのは、どこか癪だった。だが、このテーブルを最初に提案したのは、こちらだ。今更、この手札を蹴るわけにもいかない。
「――総理」
坂本は、その場の熱狂を制するように、議長席に座る首相へと、その視線を向けた。
「ご決断を」
その、あまりにも重い問いかけ。
それに、首相は、その深い皺の刻まれた顔に、初めて笑みを浮かべた。
その笑みは、絶対的な王者の、そしてどこまでも楽しそうな、それだった。
「…うむ。決まったな」
彼は、断言した。
「この、面白いギャンブル。乗ろうじゃないか」
その一言。
それが、この国の、そして世界の未来を決定づけた。
そして、議論は、そのための最初の「供物」についての、具体的な話へと移っていった。
「とりあえず、アメリカのB級クリアのために、結城沙耶君と、あの首輪と指輪を貸し出す事は、決定とする」
首相の、その言葉。
それに、誰も異論はなかった。
「彼女への報酬は、どうする?」
「はい」
坂本が、答えた。
「彼女の功績は、計り知れない。国家予算から、追加で一億円の特別報酬金を出すべきかと。そして、彼女が望むのであれば、ギルドの研究機関への、終身名誉研究員としての席も、用意しましょう」
その、あまりにも破格の待遇。
それに、外務大臣が、悪戯っぽく付け加えた。
「まあ、何、彼女にとっては、少しのアメリカ留学だと思えばいい。資料によれば、彼女は帰国子女で、英語も堪能らしい。コミュニケーションには、困らないだろう」
「…当事者不在で、彼女の人生を決めてしまうのは、遺憾ではあるがな」
防衛大臣が、ポツリと呟いた。
「まあ、そこは、置いておこう。これも、国家のためだ」
首相が、その議論を、強引に締めくくった。
こうして、一人の少女の運命は、彼女の知らないところで、世界の大きな歯車の一部として、動き始めたのだ。
◇
その数週間後。
結城沙耶は、国賓待遇で、アメリカの地へと降り立った。
彼女を待っていたのは、ヘイワード長官と、そして米軍が誇る最強の実験部隊『デザート・イーグル』の、丁重な、しかしどこか値踏みするような出迎えだった。
そして、彼女は彼らと共に、ネバダ砂漠のB級ダンジョン【鉄の廃墟】へと、その歩みを進めた。
結果は、言うまでもなかった。
日本のD-SLAYERSが、あの古竜マグマロスを相手に見せた、あの神がかった蹂躙劇。
それが、今度はアメリカの地で、完璧に再現されたのだ。
その、あまりにも圧倒的な力の差。
それを、目の当たりにしたヘイワードと、アメリカ政府は、戦慄した。
そして、彼らは同時に、歓喜した。
この「力」を、自分たちもまた、手にすることができるのだと。
そして、その歴史的な共同作戦が成功した、まさにその日。
世界の、理が、再び変わった。
日本と、アメリカ。
二つの超大国が、同時にB級ダンジョンを制圧した、その事実。
それが、世界のダンジョンシステムの、新たな「フラグ」を、解放したのだ。
世界中の、あらゆる場所に。
これまでとは、比較にならないほどの、巨大な魔力の渦が、現れ始めた。
新たなB級ダンジョンが、まるで雨後の筍のように、沢山生えてきた。
そして、それだけではなかった。
東京、ニューヨーク、ロンドン、北京…。
世界の、主要都市の、その中心に。
これまでのどのゲートとも比較にならないほどの、禍々しい、そしてどこまでも絶望的なオーラを放つ、巨大な亀裂が、その口を開いたのだ。
A級ダンジョン。
その、最初の産声だった。
その、あまりにも衝撃的なニュース。
それは、再び霞が関の対策本部を、パニックの渦へと叩き込んだ。
「A級だと!?」
「鑑定結果は、どうなっている!」
坂本の、その絶叫に近い問いかけ。
それに、アナリストが、震える声で答えた。
「…はい。現在、判明しているだけで、二つの、致命的な情報が…」
「まず、内部のモンスター。その全てが、これまでのB級の主クラスの、戦闘能力を持っているとのことです…」
「そして、もう一つ…」
彼は、そこで一度言葉を詰まらせた。
そして、その絶望的な事実を告げた。
「――A級ダンジョンゲートを通過した全ての探索者は、その魂に、新たな【世界の呪い】が付与されます。効果は…」
「……全属性耐性、-50%です…」
静寂。
会議室の、全ての時間が止まった。
-30%ですら、あれほどの地獄だったのだ。
それが、-50%?
もはや、それはただのデバフではない。
死の、宣告だ。
その、あまりにも重く、そしてどこまでも絶望的な空気。
それを、破ったのは、一人の、あまりにも場違いな、そしてどこまでも乾いた笑い声だった。
「…はっ、はははははははははははははははっ!」
笑い声の主は、防衛大臣だった。
彼は、腹を抱えて、涙を流しながら、笑い続けていた。
「-50%だと?面白い!面白いジョークだ!最高じゃねえか!」
その、あまりにも狂気的なまでの、現実逃避。
だが、それが、今の彼らにできる、唯一の抵抗だったのかもしれない。
坂本は、その笑い声を聞きながら、静かに、そして深く、ため息をついた。
そして彼は、その場の全ての人間へと、告げた。
その声は、どこまでも、疲れていた。
「…A級の件は、一旦、見なかったことにしよう」
「我々の、今の戦力では、どうすることもできん」
「まずは、新たに出現した、B級ダンジョンたちの分析を進める。それこそが、今の我々が、できる、唯一のことだ」
その、あまりにも現実的で、そしてどこまでも消極的な、決断。
それに、会議室の誰もが、ただ黙って、頷くことしかできなかった。
彼らは、ようやく一つの壁を乗り越えた。
だが、その先には、さらに高く、そしてどこまでも絶望的な、新たな壁が、そびえ立っていたのだ。




