第34話
神崎隼人は自らのビルドがまた一つ新たな段階へと進化したことを確かに実感していた。
アメ横のフリーマーケットで彼は水瀬雫のアドバイス通り**【アメジストのフラスコ】**を手に入れていた。これで彼のベルトに差された5本のフラスコは彼の生存戦略を完璧に体現する鉄壁の布陣となった。
HPMP移動速度状態異常解除そして混沌耐性。
もはや彼に大きな穴はない。
準備は整った。
その日の配信。
彼のチャンネルにログインした数万人の視聴者たちが目にしたのは見慣れた【棄てられた砦】の風景ではなかった。
画面に映し出されていたのはじっとりと湿った緑色の粘液に覆われた洞窟の入り口。入り口の周囲には緑に発光する不気味な苔が群生し中からは生暖かい腐敗臭と鼻を突く酸っぱい匂いが漂ってくる。
E級ダンジョン【毒蛇の巣窟】
そのあまりにも分かりやすい名前にコメント欄がざわついた。
視聴者A: 新しいダンジョン!?
視聴者B: 毒蛇の巣窟…って名前からしてヤバそうなんだが…
視聴者C: E級の中でもここは継続ダメージがエグいって有名な初見殺しダンジョンだぞ!JOKERさん大丈夫か!?
隼人はその心配の声を楽しむかのように不敵な笑みを浮かべた。
「ああ。今日から新しいテーブルで遊ばせてもらう。なんでもここのディーラーは随分といやらしい手口を使うらしいじゃねえか」
彼は自らのベルトに差した紫水晶のフラスコをポンと叩いた。
「だからこっちも新しい『カード』を用意してきたってわけだ」
「見せてやるよ。本当の『攻略』ってやつをな」
その力強い宣言と共に彼は躊躇なくその毒と瘴気に満ちたダンジョンへとその一歩を踏み出した。
ダンジョンの内部は彼の想像以上に陰湿な場所だった。
壁や床は常にぬめりを帯び足元には時折緑色の泡を吹く小さな水たまりができている。
彼は慎重に奥へと進んでいく。
そして最初の敵と遭遇した。
それはゴブリンではなかった。
彼の目の前に現れたのはぬめぬめとした巨大な**【ナメクジ】と壁の影から素早い動きで現れた二体の爬虫類のような小型の亜人…【毒矢を放つコボルト】**だった。
「グルル…」
「キシャア!」
コボルトたちが口に含んだ吹き矢から小さなしかし鋭い毒針を放ってきた。
隼人はそのあまりにも貧弱な攻撃に一瞬油断した。
彼はその二本の毒針をあえてその身に受けた。
チクリと肌を刺すごくわずかな痛み。
彼のHPバーはほとんど動かない。
「…なんだこんなもんか」
彼がそう呟いたその瞬間だった。
彼のステータスウィンドウに一つの忌々しいアイコンが表示された。
『毒状態(弱)』
そして彼は気づいた。
自らのHPバーがゆっくりとしかし確実に削られていくのを。
HP: 337... 336... 335... 334...
彼の指にはめられた【混沌の血脈】が毎秒15のHPを回復してくれているはずなのに。
その回復量を上回る速度で彼の生命が失われていく。
「…なるほどな」
隼人はその現象の意味を瞬時に理解した。
「毎秒15回復しているはずなのに1ずつ減っていく。つまりこの毒…秒間16ダメージか…!」
彼はその驚愕の事実を配信で報告する。
視聴者D: うわやっぱり毒キッツいな!
視聴者E: これがDoTの恐ろしさ…!防御力とか関係なしにHPを直接削ってくる!
視聴者F: 今のはただの雑魚の攻撃だろ?もしボスの強力な毒を食らったら…
コメント欄が悲鳴で埋め尽くされる。
10秒で160ダメージ。
気を抜けば本当に死ぬレベルだ。
隼人は初めて雫が語っていた混沌属性の本当の恐ろしさをその肌で実感した。
「キシャアアッ!」
コボルトたちがさらに数本の毒針を放ってくる。
そして後方からは巨大なナメクジがその進んだ跡に緑色の酸の粘液を撒き散らしながらゆっくりとしかし確実に距離を詰めてきていた。
隼人はコボルトの毒針を長剣で弾きながらもその数本を再び受けてしまう。
彼のステータスウィンドウに表示された毒のアイコンが重なっていく。
『毒状態(弱)×3』
彼のHPの減少速度が加速した。
秒間1だったダメージが秒間1020と凄まじい勢いで増していく。
このままではまずい。
視聴者A: JOKERさんHPが!
視聴者B: やばいやばいやばい!フラスコ!ライフフラスコを!
視聴者C: 毒スタックするのかよ!クソゲーか!
コメント欄がパニックに陥る。
だが隼人は冷静だった。
いやむしろその口元には不敵な笑みすら浮かんでいた。
彼はこの状況こそ自らが用意した新たな「カード」の性能を試す最高の舞台だと確信していたからだ。
「さてと…」
彼はARカメラの向こうの観客たちに宣言した。
「こいつの性能を試す時が来たな」
彼はベルトに差した一本のフラスコを起動させた。
紫水晶の液体が満たされた美しいフラスコ。
【アメジストのフラスコ】。
その瞬間。
彼の全身を気高い紫色のオーラが奔流のように包み込んだ。
彼のステータスウィンドウに力強いバフアイコンが点灯する。
『混沌耐性 +35%』
そして劇的な変化が訪れた。
これまで彼のHPを猛烈な勢いで削り取っていた毒のダメージがまるで嘘のようにその勢いを失ったのだ。
秒間数十減っていたHPの減少がぴたりと止まる。
それだけではない。
毒のダメージが大幅に軽減されたことで彼の指輪が持つ**『毎秒15HP自動回復』**の効果が今度は完全に上回った。
彼のHPバーは減少から一転今度は確かな速度で回復を始めたのだ。
「…はっなるほどな」
隼人はそのあまりにも劇的な効果に満足げに頷いた。
「ただダメージを減らすんじゃねえ。戦況そのものをひっくり返す。これがユーティリティフラスコの本当の力か」
戦いの主導権は完全に逆転した。
もはやこのダンジョンの最大の武器であった「毒」は隼人には通用しない。
彼は紫色のオーラをその身に纏ったまま反撃の狼煙を上げた。
「ウォーミングアップは終わりだ」
彼はもはや敵ではなくなったコボルトとナメクジの群れを自慢の**【無限斬撃】**で蹂躙していく。
フラスコの効果時間内に敵を殲滅しそしてその敵から得たチャージでまた次の戦いでフラスコを使用する。
完璧な永久機関。
彼はこのダンジョンの攻略法を完全に見出したのだ。
数十分後。
彼はダンジョンの小部屋で一息つきながら配信のコメント欄を眺めていた。
そこには彼の見事な危機脱出劇に賞賛と安堵の声が溢れていた。
彼はカメラの向こうの観客たちに語りかける。
「どうだお前ら。これがE級の『初見殺し』の正体だ」
「知識と準備がなけりゃどんな強者でもこの継続ダメージで削り殺される。だが逆を言えば…」
彼はそこで一度言葉を切ると最高の不敵な笑みで締めくくった。
「対策さえ知っていればただのボーナスステージだ」
その言葉はこの世界の本質を突いていた。
力だけでは勝てない。
運だけでも勝てない。
勝利を掴むのはいつだって情報を制し最適な準備をした者だけ。
彼はその真理を改めてその肌で実感していた。
彼はアメジストのフラスコの残りの効果時間を確認すると静かに立ち上がった。
このダンジョンのギミックは見切った。
ならばあとはこのボーナスステージで狩れるだけの獲物を狩り尽くすだけだ。
彼の目は洞窟のさらに奥深く。
まだ見ぬこの巣窟の「主」であろう巨大な毒蛇の影を捉えていた。
物語は新たなダンジョンの本質を見抜きそれを完全に掌握した主人公が次なる獲物を求めてその牙を研ぐその確かな成長を描き出して幕を閉じた。
神崎隼人のE級ダンジョン【毒蛇の巣窟】攻略はもはや「攻略」という言葉が不釣り合いなほど安定しきっていた。
彼の戦いは一つの完璧なルーティンと化していた。
洞窟の暗がりから毒矢を放つコボルトの集団が現れる。
――彼はフラスコを飲むまでもない。指輪【混沌の血脈】がもたらす毎秒15のHP自動回復が数発の毒矢による継続ダメージを完全に相殺する。彼はただ無表情でその煩わしい小虫の群れを長剣の一振りで薙ぎ払う。
床を緑色の酸の粘液で覆い尽くす巨大ナメクジの大群が道を塞ぐ。
――彼は顔色一つ変えない。ベルトに差した【解呪のフラスコ】を一度仰ぐだけでその全てのデバフ効果を無効化しそのぬめりの上をまるで何もない平地のように駆け抜け背後から一体ずつ確実に処理していく。
「…さてと。これでこの区画の掃除はおしまいか」
隼人は最後の一体のナメクジが光の粒子となって消えていくのを見届けるとまるで退屈なデスクワークでも終えたかのように短く息を吐いた。
彼のHPバーは満タン。MPバーも【無限斬撃】のマナ・リーチ効果により常に最大値を維持している。
あまりにも一方的な蹂躙。
あまりにも安定しきった無双。
その光景に彼の配信のコメント欄はもはや驚愕ではなくある種の感嘆とそして心地よいマンネリ感に包まれていた。
視聴者A: JOKERさん強すぎてもはや作業だなw
視聴者B: このダンジョンJOKERさんにとってはただのATMでしかない。
視聴者C: でもこの安定感こそがプロだよな。見てて安心する。
「まあな。ギャンブルも探索も勝つ時は退屈なもんだ。一番面白いのは負けるか勝つかギリギリの瀬戸際だけだからな」
隼人はそんな達観したようなコメントを拾いながらドロップした魔石を回収していく。
そのあまりにも余裕のある彼の立ち振る舞い。
それを見た一人の視聴者が素朴な疑問をコメント欄に投じた。
『JOKERさんの戦い方すごい安定してるけど他のクラスの人はどうやってこの毒のダンジョンを攻略してるんだろう?やっぱりみんなアメジストのフラスコを持ってるのかな?』
その純粋な問いかけ。
それがこの日の配信を単なる金策作業から高度なビルド哲学の議論の場へと変えるきっかけとなった。
隼人はそのコメントに目を止めると自らの考えを語り始めた。
「ああ戦士系なら大体俺と同じだろ。耐性を積んでHPリジェネで毒のダメージを上回るかあるいはアメジストのフラスコで対策するか。要は殴られても死なない準備をする。それが俺たち戦士の基本思想だ」
彼のそのあまりにも正統派な回答。
それに多くの戦士クラスの視聴者たちが「その通り!」「それな!」と同意のコメントを寄せる。
だがその和やかな空気に一つの鋭い「異論」が投げ込まれた。
そのコメントの主はSeekerNetでも有名な一人のプレイヤーだった。
彼のハンドルネームは『疾風のローグ』。盗賊クラス一筋のスピード狂だ。
疾風のローグ: 戦士の旦那方はそうかもしれねえな。だが俺たち盗賊は思想が根っこから違う。
その挑戦的な一言にコメント欄がざわつく。
疾風のローグ: 俺たちにとって毒も呪いも炎も氷も関係ねえ。なぜならその全ては**「攻撃」**という一つの事象に過ぎないからだ。そして俺たちの哲学はただ一つ。
「――そもそも当たらなければどうということはない」
そのあまりにもシンプルであまりにも傲慢な一言。
だがそれこそが盗賊というクラスの本質を完璧に言い表していた。
疾風のローグ: 俺たちは戦士のように耐えやしない。ただ避ける。ひたすらに避ける。全ての攻撃をだ。高い回避率と移動速度。そして【フェーズ・ラン】のような無敵スキルを駆使して敵の攻撃そのものが存在しない空間を作り出す。俺たちにとって毒は耐えるべき脅威じゃない。ただ避けるべき弾丸の一つに過ぎないのさ。
そのあまりにも異なる哲学。
隼人は興味深そうにそのコメントを読み進めていた。
疾風のローグ: だからこういう毒矢をちまちまと飛ばしてくるだけの雑魚の群れは俺たちにとっちゃただのボーナスタイムだ。戦士の旦那方みたいにリジェネが上回るかなんて心配をする必要もない。ただ一方的に殴れる最高の経験値パックさ。敵の攻撃はどうせ当たらねえんだからな。
その言葉に戦士クラスの視聴者たちが「なんだと!」「回避頼みは安定しないだろ!」と反論の声を上げる。
だが『疾風のローグ』はそれを鼻で笑った。
疾風のローグ: もちろんお前らの言う通り中には確実に当たる攻撃を使ってくる厄介なボスもいる。だから俺たちも最低限の毒対策としてアメジストのフラスコくらいはベルトの隅に差しておくさ。それはあくまで事故った時の保険だ。だが少なくともこういう雑魚相手のステージでは俺たちの独壇場だよ。
『疾風のローグ』のその挑発的なしかし一本筋の通ったビルド哲学。
それが引き金となってコメント欄は様々なクラスのプレイヤーたちによる大討論会へと発展していった。
魔術師A: まあ俺たちメイジから言わせれば毒とかどうでもいいけどな。敵が動く前に画面ごと凍らせればいいだけの話だし。
召喚士B: うちのスケルトン軍団が全部毒を受けてくれるから本体はノーダメージですわ。ミニオンはいくらでも補充効くし。
オーラ支援専門: 私はそもそも攻撃を受けないので…。味方の耐性を上限まで引き上げてあとは後ろで見てるだけです。
無数のビルド。
無数の戦術。
無数の「正解」。
隼人はそのカオスな情報の奔流を眺めながらこの世界の本当の面白さに改めて気づかされていた。
最強のビルドなど存在しない。
最強のクラスなど存在しない。
あるのはただその状況と敵との**「相性」**だけだ。
そしてそれぞれのプレイヤーが自らの信じる最強の哲学をそのビルドに込めて戦っている。
「…なるほどな」
隼人は静かに呟いた。
「戦士は耐えて勝つ。盗賊は避けて勝つ。魔術師は動く前に殺す。ビルドによって得意なテーブルと不得意なテーブルがあるってことか」
彼はARカメラの向こうの観客たちに語りかける。
その声はもはやただの配信者のものではない。
この世界の理を一つ深く理解した求道者の響きを持っていた。
「どれが一番強いなんて話は不毛だな。要はその状況でどう勝つかだ」
その言葉と同時に彼は自らのユニークスキル【複数人の人生】の本当の価値とその恐ろしさに改めて思い至っていた。
戦士として耐えることもできる。
盗賊として避けることもできる。
魔術師として焼き尽くすこともできる。
ネクロマンサーとして軍勢を率いることもできる。
彼はその全ての「正解」になれるのだ。
戦況に応じてその仮面を自在に付け替える究極のプレイヤーに。
彼の心に新たなそしてより大きな野心の炎が灯った。
E級ダンジョンを攻略するだけでは足りない。
全てのクラスを理解し全てのビルドを使いこなしそしてその全てを凌駕する。
それこそがこの世界の唯一の「例外」である彼に課せられた宿命なのではないか。
※2025/07/17 フラスコ効果を間違えてたので修正しました。




