第327話
【物語は10年前、ダンジョンが現れる当日に戻る】
【ダンジョン出現後、6ヶ月経過後】
東京、霞が関。
日本の政治の中枢、首相官邸の地下深くに存在する、内閣危機管理センターの極秘会議室。
その空気は、一触即発の、火花が散るかのような緊張感に満ちていた。
円卓を囲むのは、この国の運命をその両肩に背負う、大臣たちの姿。
彼らの視線は、テーブルの中央に置かれた一つのAR端末に注がれていた。
そこに表示されているのは、数時間前にアメリカのヘイワード長官から、坂本大臣の個人端末へと直接送りつけられてきた、あのあまりにも無邪気で、そしてどこまでも傲慢な「お願い」のメッセージだった。
『――僕達にも、その可愛いお姫様と、そのドレスと指輪を、少しだけ貸してほしいな♡』
その、あまりにもふざけきった文面。
だが、その一行一行に込められた、拒否を許さないという絶対的な圧力。
それを、この部屋にいる誰もが、痛いほどに理解していた。
重い、重い沈黙。
それを、最初に破ったのは、防衛大臣の、怒りに満ちた絶叫だった。
「――ふざけるなッ!」
彼が、その巨大な拳でテーブルを叩きつける。
「アメリカに、我々の剣と心臓を差し出せというのか?冗談ではない!」
その顔は、屈辱と怒りで真っ赤に染まっていた。
「あの【神域の元素心核】と【原初の調和】が、どれほどの犠牲の上に手に入ったものか!鬼塚君たちが、どれほどの血を流して持ち帰ったものか!それを、なんだ!『貸してほしいな♡』だと!?舐められているんだ、我々は!」
その、あまりにも真っ直ぐな、そしてどこまでも愛国心に満ちた魂の叫び。
それに、他の閣僚たちもまた、苦々しい表情で頷いていた。
だが、その熱狂の中で。
ただ一人、冷静な、そしてどこか冷めたような声が、響き渡った。
「…まあまあ、防衛大臣。そう、熱くならないでください」
声の主は、外務大臣だった。
彼は、長年アメリカとの外交の最前線に立ってきた、生粋の現実主義者。
その表情には、一切の感情が浮かんでいない。
「1回貸すだけなら、良いのでは?むしろ、これは好機です」
「は?」
防衛大臣が、その言葉に眉をひそめる。
外務大臣は、その視線を意にも介さず、続けた。
その声は、シルクのように滑らかで、そして氷のように冷たかった。
「アメリカ政府に、大きな『借り』を作れる、絶好の機会ですよ。彼らも、喉から手が出るほど、B級ダンジョンを安定してクリアできる力が欲しいはず。我々が、その『夢』を叶えてやるのです。その見返りとして、我々は今後のダンジョン資源に関する貿易協定や、軍事技術の共有において、圧倒的に有利な立場に立つことができる。短期的な損失で、長期的な利益を得る。これこそが、外交という名のギャンブルの、基本でしょう?」
その、あまりにもクレバーな、しかしどこまでも魂のない提案。
それに、防衛大臣の怒りが、再び爆発した。
「貴様は、それでも日本人か!アメリカの犬か!」
その、あまりにも直接的な挑発。
だが、外務大臣は、その表情を一切変えなかった。
彼は、ふっと、その口元に冷たい笑みを浮かべると、言い放った。
「失礼ですな。自国の利益を、第一に考えるのが外交官です。感情論や、精神論といった、脳筋では、この世界は回りませんよ?」
「…なんだと?」
「事実を、申し上げたまでです」
「貴様…!殴り合いでもしたいのか!?良いぞ、その貧弱な身体を、俺が『更生』させてやるよ!」
防衛大臣が、その巨大な体で椅子を軋ませながら、立ち上がった。
一触即発。
その、あまりにも子供じみた、しかしこの国の未来を左右する、あまりにも重大な喧嘩。
それを、止めたのは、この国の頂点に立つ男の、静かな、しかしどこまでも重い一言だった。
「――まあ、落ち着きなさい」
首相が、その重い口を開いた。
その声には、一切の感情がなかった。
だが、その静寂の中に、絶対的な王者の風格が宿っていた。
彼は、その鋭い瞳で、円卓を囲む全ての大臣たちを見渡した。
そして、彼は言った。
「議論は、尽くしたようだな。では、結論を出す」
「原則として、貸すのは認める」
その、あまりにもあっさりとした、しかしどこまでも最終的な決定。
それに、防衛大臣が、ぐっと言葉に詰まる。
だが、首相は続けた。
「だが、問題は、その『対価』を、何にするかだ」
その、あまりにも本質的な問いかけ。
それに、会議室の空気が、再び引き締まる。
首相の、隣に座っていた側近…坂本純一郎が、静かに、そして深く頷いた。
「…総理の、おっしゃる通りです」
彼の声が、その静寂を支配する。
「まず、現状を整理しましょう。アメリカからの、この『お願い』を、我々が拒否する。その選択肢は、ないと考えるべきです。彼らを、本気で怒らせれば、どうなるか。経済制裁、あるいは、最悪の場合、軍事的な圧力。ダンジョンという新たな脅威を抱える今の我が国に、その余裕はありません。まず、貸さないという選択肢はないと思います」
「では、問題は対価ですな」
「単純に、金を要求するか?それも違う。ダンジョンの魔石の恩恵で、すでに我が国の財政は、一気に黒字です。今更、彼らから金を貰っても、メリットがない」
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも冷静な分析。
それに、閣僚たちが深く頷く。
そうだ。
金ではない。
我々が、今、本当に求めるべきものは、金ではない。
では、何だ?
その答えを、誰もが見出せずにいた。
その、息が詰まるような沈黙。
その中で、坂本は、その最後の、そして究極の「切り札」を、提示した。
その瞳には、この国の未来を、100年先まで見据えるかのような、深い、深い叡智の光が宿っていた。
「――我々が、要求すべきもの。それは、金でも、武器でも、情報でもありません」
「我々が要求すべきは、『ルール』そのものです」
彼は、ARパネルを操作し、モニターに、一つの組織図を映し出した。
それは、まだ黎明期だった、あの「日米合同ダンジョン管理委員会」の、初期の組織図だった。
「これまでの委員会は、あくまで情報交換と、協力体制の確認のための、儀礼的な場所に過ぎなかった。だが、これからは違う」
彼の声に、熱がこもる。
「我々は、この委員会を、真の意味での『世界の管理者』へと、昇格させることを提案します。日米が、完全な対等の立場で、この世界のダンジョンに関わる、全ての重要事項を決定する、最高意思決定機関として」
「そして、その最初の議題として、これを定めるのです」
彼は、モニターに、新たなテキストを、荘厳な明朝体で表示させた。
【アーティファクト管理に関する、日米共同条約(仮称)】
第一条:今後、両国で発見された、世界の理を揺るがしかねない、神話級のアーティファクトは、その全ての情報を、速やかに本委員会に報告し、その処遇は、両国の合意の上で決定するものとする。
「…これが、我々が要求する、唯一の『対価』です」
坂本は、そう言って、その場にいる全ての人間を見渡した。
「我々は、アメリカに『貸し』を作るのではない。彼らを、我々と同じ『テーブル』に、引きずり込むのです。そして、二度と彼らが、その圧倒的な力で、我々を脅すことのできない、新たな『ルール』を、この手で創り上げるのです」
その、あまりにも壮大で、そしてどこまでも老獪な、究極の外交戦略。
それに、会議室の誰もが、言葉を失っていた。
防衛大臣の、その怒りに満ちていた顔が、驚愕に、そしてやがて、深い感嘆の色へと変わっていく。
外務大臣の、その冷徹な仮面が、初めて崩れ、純粋な興奮に、その瞳を輝かせている。
そして、首相。
彼は、ただ静かに、その目を閉じていた。
そして、数秒後。
彼は、ゆっくりと、その瞼を開いた。
その口元には、絶対的な王者の、そしてどこまでも楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「――面白い」
彼は、言った。
「実に、面白いじゃないか」
「外務大臣。直ちに、ヘイワード長官に、返信を」
彼の、その静かな、しかし絶対的な命令。
それが、この国の、新たな時代の幕開けを告げる、ゴングだった。
「――我々の『対価』は、これだと、伝えろ」
その日、日本は、初めて自らの意志で、世界のゲームの、そのルールを書き換えたのだ。




