第321話
その日の夜、世界の時間は止まった。
西新宿のタワーマンションで一人のギャンブル狂が退屈そうに欠伸をしていた、まさにその裏側で。
ニューヨークのウォール街でトレーダーたちが次の取引の算段を立てていた、その裏側で。
ロンドンの、歴史あるギルドハウスで老練な探索者たちが静かに茶を嗜んでいた、その裏側で。
全ての日常が、一つの絶対的な「狂騒」の前に、その意味を失った。
日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』。
そのトップページは、もはや本来の機能を失い、一つの巨大な「祭り」の会場と化していた。全ての掲示板、全てのカテゴリーが、ただ一つの話題で埋め尽くされている。
F級ダンジョンからドロップした、神話級のカード。
【神への挑戦権】。
その、あまりにも唐突に現れた究極の宝くじ。その一枚が、ギルドの公式オークションハウスに、出品されたのだ。
【SeekerNet 掲示板 - 総合雑談スレ Part. 1582】
511: 名無しの実況民A
おい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
見てるか、お前ら!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
オークション、始まったぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
もう、10億超えた!!!!!!!!!!!!!!!
512: 名無しのゲーマー
511
うおおおおお!マジかよ!
出品者、斎藤健太って本名じゃねえか!F級の、19歳!
513: 名無しの市場ウォッチャー
512
どいつもこいつも、血眼になってやがる!
入札者リスト見てみろ!オーディンも青龍もヴァルキリーも、全員参加してる!
それに加えて、中東の石油王やら、ヨーロッパの貴族やら、もうワケの分からん連中が、札束で殴り合ってる!
地獄だ!最高の地獄だぜ、これは!
その熱狂の渦の中心で。
世界中の探索者たち、いや、もはやこの世界の全ての人間が、固唾を飲んでその結末を見守っていた。
この、たった一枚のカードが、一体どこまでその価値を高めていくのか。
そして、その狂乱の果てに、一体誰が、神への挑戦権をその手にするのか。
その、あまりにも壮大な、そしてどこまでも下世話なスペクタクル。
それに、世界中が酔いしれていた。
戦いは、熾烈を極めた。
20億、30億…。
モニターの数字は、もはや現実の金銭ではなく、ただのスコアのように、その価値を増していく。
やがて、そのテーブルに残されたプレイヤーは、数えるほどになっていた。
国家レベルの資産を持つ、巨大なギルド。
そして、その資産に匹敵する、あるいはそれを凌駕するほどの、個人の富豪たち。
神々の、ポーカーゲーム。
その、息が詰まるような心理戦。
残り時間、10分。
入札額が、30億円の大台を突破したあたりから、それまで威勢の良かった中小ギルドや個人富豪の名前が、一人、また一人と入札者リストから消えていく。
後に残されたのは、もはや世界のパワーバランスそのものを体現するかのような、数人の巨人だけだった。
そして、残り1分を切った、その時だった。
それまで互いに牽制し合っていた巨人たちが、ついに最後の勝負を仕掛けた。
【入札者:Guild_Seiryu_Fund】
【入札額:35億円】
中華の赤い龍が、その圧倒的な資金力で、テーブルの空気を支配しようとする。
だが、そのわずか数秒後。
北欧の神々が、それを許さなかった。
【入札者:Guild_Odin_Asset】
【入札額:35億5000万円】
5000万の上乗せ。
もはや、意地の張り合い。
誰もが、この二つのギルドのどちらかの勝利を確信した、その刹那。
残り時間、3秒。
画面の数字が、最後の、そして最も美しい輝きを放った。
これまで、沈黙を保っていた一つの名前が、その全てを終わらせる一撃を放ったのだ。
【入札者:Royal_Family_MidEast】
【入札額:3,600,000,000円】
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
そして、運命のカウントダウンが、ゼロになる。
【【神への挑戦権】は、Royal_Family_MidEast様によって、3,600,000,000円で落札されました】
その、あまりにも劇的な、そしてどこまでも美しい幕切れ。
それに、掲示板が、これまでのどの熱狂とも比較にならない、本当の「爆発」を起こした。
もはや、それは言葉にならない、ただの、魂の絶叫の、洪水だった。
その、歴史的なオークションから、一夜が明けた。
世界の熱狂は、まだ冷めやらない。
誰もが、知りたがっていた。
あの、36億円の奇跡を、その手にしたF級の若者が、一体どんな人間なのか。
そして、その答えは、その日の夜、あまりにも意外な形で、世界へと示されることになる。
民放最大手テレビ局の、ゴールデンタイムのニュース番組。
その、トップニュースとして、それは報じられた。
『――速報です。昨日、日本中、いえ世界中が注目した、神話級のカード【神への挑戦権】。その出品者であり、36億円という大金を手にした、斎藤健太さんが、本日、我々の独占インタビューに応じてくれました!』
画面に映し出されたのは、少しだけ緊張した面持ちで、しかしその瞳に、揺るぎない決意の光を宿した、斎藤健太の姿だった。
彼の隣には、同じように少しだけ気恥ずかしそうな、しかしどこまでも誇らしげな顔をした、四人の若者たちが座っていた。
「…はい。正直、まだ夢を見ているようです。僕みたいな、ただのF級の学生が、こんな大金を手にするなんて…」
彼は、そう言って、はにかんだ。
「でも、僕、決めたんです。このお金は、僕一人で使うものじゃないって」
彼は、そこで一度言葉を切ると、その隣に座る、四人の仲間たちの顔を、一人一人、見つめた。
彼らは、高校時代からの、親友だった。
そして、共にこの冒険者の世界へと、足を踏み入れた、かけがえのない「仲間」だった。
「このカードを拾った時、僕は一人じゃありませんでした。この、四人の仲間が、一緒にいました。だから、この36億円は、僕たち5人で、山分けすることに決めました」
その、あまりにも衝撃的な、そしてどこまでも美しい、決断。
それに、スタジオの誰もが、言葉を失った。
36億円を、5人で山分け。
その、あまりにも巨大な、そしてどこまでも温かい、友情の証。
「そして、僕たちは、このお金で、最高の装備を揃えます」
健太の声に、力がこもる。
「そして、みんなで一緒に、A級まで駆け上がってみせます。それが、僕たちの、新しい夢です」
その、あまりにも青臭く、そしてどこまでも真っ直な、魂の叫び。
それに、スタジオの、そして日本中の、全ての人間が、涙した。
そのニュースは、SeekerNetの掲示板にも、燎原の火のように燃え広がった。
それまで、金と、欲望と、そして嫉妬の渦に飲み込まれていたスレッドの空気が、一変した。
後に残されたのは、ただ、一つの温かい、そしてどこまでも純粋な感動の波だけだった。
『…泣いた』
『ああ、泣いた。マジで、泣いた』
『なんだよ、これ…。最高の、物語じゃねえか…』
その感動の渦の中で、一人のユーザーが、その震える指で、計算を始めた。
『待て…36億を5人で山分け…一人7億2000万円かよ…!』
その、あまりにも具体的で、そしてどこまでも夢のある数字。
それに、スレッドは再び、熱狂の渦に飲み込まれた。
だが、その熱狂は、もはやただの欲望ではない。
一つの、本物の「物語」を前にした、純粋な祝福の熱狂だった。
『7億あったら、人生変わるだろ…』
『友情…本物の友情が、ここにいたんだな…』
『俺が、今まで組んできたパーティは、何だったんだ…。1万円のレアアイテムで、仲間割れしてたってのに…』
『最高の、仲間じゃねえか、あいつら…』
その、温かい共感の連鎖。
その中心で。
誰かが、彼らに、一つの新しい名前を、授けた。
それは、彼らの、新たな伝説の始まりを告げる、最高の称号だった。
『――彼らは、もはやただのF級じゃない。【七億の同志】だ』
その日、この世界に、新たな希望が生まれた。
それは、金でも、力でも、そしてスキルでもない。
ただ、仲間を信じる心。
その、あまりにも当たり前で、そしてどこまでも尊い光。
それこそが、この理不尽な世界を照らす、本当の「力」なのだと。
世界の、全ての探索者が、その胸に、その温かい光を、確かに感じていた。




