第320話
F級ダンジョン【ゴブリンの洞窟】。
そのひんやりとした湿った空気は、今やエッセンス・ブームに沸く、若者たちの熱気で満ち満ちていた。
洞窟の入り口付近の広間は、もはやダンジョンではない。一つの巨大な「養殖場」と化していた。
雷帝ファンドから支給された100万円を元手に、なけなしの装備を揃えた新人たちが、パーティを組み、あるいはソロで、ただひたすらにゴブリンを狩り続ける。
彼らの目的は、レベルアップではない。
ただ、ごく稀にドロップするという、あの青白い輝き。
【エッセンス】。
それを手に入れ、合成し、一攫千金を夢見る。
それが、この時代の、F級探索者の「日常」だった。
「…ちっ。また、ゴミかよ」
斎藤健太、19歳。大学を休学し、このゴールドラッシュに夢を賭けた、どこにでもいる若者の一人だった。
彼が、今しがた倒したゴブリンの亡骸からドロップしたのは、いつもの紫色の魔石と、そして汚れた布切れだけ。
「これで、もう50体目だぞ…。エッセンスなんて、本当に出るのかよ…」
彼の隣で、同じように疲れ果てた表情で槍を杖代わりにしていた仲間が、深いため息をついた。
「まあ、気長に行こうぜ。Tier1のエッセンス一つでも拾えば、今日の稼ぎは黒字なんだからさ」
その、あまりにもありふれた、日常の会話。
それが、唐突に、そしてあまりにも無慈悲に断ち切られた。
健太の目の前、彼が最後に倒したゴブリンの、光の粒子となって消えゆくその亡骸の、その中心に。
これまで誰も見たことのない、一つの異質な「光」が、生まれたのだ。
それは、紫色の魔石の光ではない。青白いエッセンスの光でもない。
まるで、古代の象牙を磨き上げたかのような、滑らかで、そしてどこまでも気品のある、淡いクリーム色の光だった。
「…ん?」
健太は、思わず足を止めた。
その光が収まった時、そこに残されていたのは、一枚の、手のひらサイズのカードだった。
彼は、そのカードを、おそるおそる拾い上げた。
ひんやりとした、滑らかな感触。
その表面には、一人の名もなき職人が、天に輝く一つの巨大な星へと、祈るように手を伸ばしている姿が、黄金のインクで繊細に描かれていた。
カード全体が、内側から淡い、しかし確かな神々しい光を放っており、手に取ると、遠い宇宙で星が生まれるような、静かな、しかし荘厳な鼓動が伝わってくる。
そして、そのカードの隅には、**(1/7)**という数字が、彼の魂にだけ見える形で、静かに刻まれていた。
「…なんだ、これ…?」
彼の口から、素直な困惑の声が漏れた。
新種のアイテムか?
あるいは、ただのハズレアイテムか?
彼は、ARコンタクトレンズの鑑定機能を起動させ、その詳細な情報を読み取ろうとした。
そして、彼の目の前に表示されたテキストを、彼は声に出して、読み上げた。
その声は、自分でも信じられないほど、震えていた。
「…アイテム種別名、【宿星のカード】…」
「カード名、神への挑戦権…」
「効果、このカードを7枚集め、天に向かって『交換!』と宣言することで、神話級クラフトアイテム**【神のオーブ】**を1つ入手できる…」
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
彼の隣にいた仲間が、その沈黙を破った。
「…おい、健太。今、なんて言った…?」
「…神の、オーブ…?」
「ふざけんなよ。あの、一本250億円は下らないっていう、都市伝説の…?」
健太は、答えることができなかった。
ただ、その場で呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
彼の、その震える手の中で。
一枚の、たった一枚のカードが、この世界の全ての富と、そして全ての理不尽さを、その身に宿しているかのように、重く、そしてどこまでも禍々しく、輝いていた。
第二章:電子の海の爆発
その、あまりにも衝撃的な発見の報。
それは、健太が我に返り、震える指でSeekerNetのF級ダンジョン総合スレに、そのスクリーンショットを投下した瞬間、燎原の火のように、世界中を駆け巡った。
【スレッドタイトル:【緊急速報】F級ゴブリンの洞窟で、なんかヤバそうなカード拾ったんだが…】
1: 名無しの斎藤
助けてくれ。これ、なんだ?俺、夢でも見てるのか?
[画像:【神への挑戦権】の詳細な性能]
その、あまりにも唐突な、そしてどこまでも現実離れした書き込み。
最初は、誰もがそれを信じなかった。
5: 名無しのC級戦士
1
釣り乙。
どうせ、コラ画像だろ。
クオリティは高いがな。
8: 名無しのE級魔術師
1
ああ、騙されんぞ。
神のオーブが、F級で出るわけねえだろ。
頭、大丈夫か?
だが、その懐疑的な空気は、長くは続かなかった。
その書き込みから、わずか数分後。
全く別のダンジョン…E級【女王蟻の巣穴】で狩りをしていた、別の探索者から、同じ報告が上がったのだ。
25: 名無しの蟻ハンター
おい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
釣りじゃねえぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
俺も、今、拾った!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
全く、同じカードだ!!!!!!!!!!!!!!!
その、あまりにも偶然とは言い切れない、第二の証言。
それが、引き金となった。
スレッドは、爆発した。
『は!?』
『マジかよ!』
その混乱の渦の中で、ついにあの男たちが、その重い口を開いた。
この世界の、誰よりも深く、そして誰よりも正確に、その理を知る、賢者たち。
元ギルドマン、ハクスラ廃人、そしてベテランシーカ―。
彼らは、その画像を、それぞれの専門的な知識と経験で、徹底的に分析し始めた。
そして、彼らが導き出した結論。
それは、この世界の全ての探索者を、熱狂と、そして絶望の、新たなステージへと叩き込むには、十分すぎるほどの威力を持っていた。
255: 元ギルドマン@戦士一筋
…本物だ。
間違いない。
このカードから発せられる魔力の波形パターン。これは、ギルドが最高機密として保管している、神話級アーティファクトのそれと、完全に一致している。
…信じられん。なぜ、こんなものが、F級の、ただのゴブリンから…
261: ハクスラ廃人
おいおい、ギルドの旦那。そんな、常識的な分析してる場合かよ。
問題は、そこじゃねえだろ。
このカードの、その「仕組み」だよ!
7枚集めたら、交換!?
ふざけんじゃねえ!
――これ、完全にドラゴンボールじゃねえか!
その、あまりにも的確な、そしてどこまでもオタク的なツッコミ。
それに、スレッドが、爆発した。
『wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww』
『ドラゴンボールwwwwwwwww間違いないwwwwwwwwww』
『じゃあ、7枚集めたら、神龍出てくんのかよwwwww』
『願いはもちろん、「ギャルのパンティーおくれ」だな!』
その、あまりにも不謹慎な、しかしどこまでもこの世界の黎明期らしい、熱狂。
だが、その熱狂の、さらにその中心へと。
ベテランシーカ―が、最後の、そして最も重要な情報を、投下した。
彼の言葉は、この狂乱の祭りに、一つの絶対的な「価値」を与えた。
288: ベテランシーカ―
皆さん、落ち着いてください。
ですが、これは、もはやただの祭りではありません。
経済が、動きます。
【神のオーブ】の、現在の国際市場における最低落札価格は、250億円。
つまり、このカードは、7枚で250億円の価値を持つということです。
単純計算で、一枚あたりの価値は…。
――約36億円です。
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
スレッドの、全ての時間が止まった。
そして、次の瞬間。
世界が、壊れた。
『さ、36億!?!?』
『一枚で!?!?』
『家どころじゃねえ!一等地が買えるぞ!』
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
その日、世界の全てのF級ダンジョンは、戦場と化した。
A級のトップランカーも、B級の中堅も、C級のベテランも。
全ての探索者が、そのプライドも、効率も、何もかもを投げ捨てて、ただ一つの夢を追い求めた。
36億円の、宝くじを。
ゴブリンの洞窟は、もはやダンジョンではない。
一つの巨大な、そしてどこまでも狂った、カジノへとその姿を変えたのだ。
その、狂乱のフィーバーは、数時間続いた。
だが、その熱狂の火に、さらに油を注ぐかのように。
スレッドに、新たな、そしてより現実的な「夢」が、投下された。
投稿主は、D級の、名もなき戦士だった。
511: 名無しのD級戦士
おい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
出た!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
俺も、カード出たぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
でも、なんか違うやつだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
[画像:色褪せたセピア色の写真のような、どこか懐かしい質感を持つカード。表面には、黎明期の七人の若者たちが、肩を組み、最高の笑顔で笑い合っている姿が描かれている]
512: 名無しのゲーマー
511
うおおおおお!なんだこれ!
【七人の開拓者】!?
効果は!?効果は何なんだよ!
515: 名無しのD級戦士
512
ああ!
7枚集めたら、【高貴のオーブ】が7個貰えるらしい!
518: ハクスラ廃人
515
は!?
高貴のオーブだと!?
あれ一個で、今2000万は下らねえぞ!
それが、7個!?
1億4000万かよ!
521: 名無しのD級戦士
518
2000万円拾ったって事で、ok?????
俺、今、手が震えて、動けねえ…。
その、あまりにもリアルな、そしてどこまでも人間的な、幸運の報告。
それに、スレッドは再び、熱狂の渦に飲み込まれた。
神のオーブは、あまりにも遠い夢。
だが、高貴のオーブなら?
1億4000万円なら?
あるいは、自分にも、手が届くかもしれない。
その、あまりにも甘美な、そしてどこまでも現実的な「夢」。
それが、この狂乱の祭りを、さらに加速させていった。
そして、その熱狂の、まさにその頂点で。
一つの、あまりにも間の抜けた、そしてどこまでもこの世界の理不尽さを象徴するかのような、書き込みが投下された。
688: 名無しのゴブリンの耳コレクター
…あの。
…すみません。
俺も、カード拾ったんですけど…。
[画像:泥で汚れた、みすぼらしいボール紙のようなカード。表面には、ただ一体のゴブリンの、間の抜けた顔が、雑に描かれている]
これ、ゴブリンの耳10個と交換できるって書いてあるんですけど…。
クソカード出たwwwwww
その、あまりにも切実な、そしてどこまでも滑稽な、魂の叫び。
それが、引き金となった。
スレッドは、もはやお祭り騒ぎではない。
一つの、巨大な笑いの渦に、完全に飲み込まれていた。
『wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww』
『ハズレもあるのかよwwwwwwwww』
『逆に、レアじゃねえか、それwwwwwwwww』
『1000万の当たりと、5000円のハズレが、同じテーブルに並んでるのかよ!最高の、クソゲーだな、これ!』
その日、世界の全ての探索者が、理解した。
この世界は、ただのゲームではない。
神々が、気まぐれにサイコロを振るう、究極の「ギャンブル」なのだと。




