第33話
神崎隼人は、再びあの上野の高架下に広がる、治外法権の市場へとその身を投じていた。
数日間のE級ダンジョン【棄てられた砦】の周回。それは、彼に確かな「資産」と、そして次なる「課題」をもたらした。
彼の現在の最大の課題。それは、空席となったベルトのフラスコスロットを埋めること。
彼の頭の中には、水瀬雫が授けてくれた、一つの明確な「回答」があった。
【アメジストのフラスコ】。
来るべき混沌の脅威に備えるための、最高の「保険」。
彼はもはや、この市場の空気に気圧されることはない。
むしろ、その胡散臭く危険な匂いこそが、彼のギャンブラーとしての本能を研ぎ澄ませてくれる。
彼は、明確な目的を持って雑踏の中を進んでいく。
向かう先は、フラスコやポーションといった薬品類を専門に扱う一角だった。
そこは、錬金術師の失敗作か、成功作か、判別のつかない様々な色の液体が瓶詰めにされ、怪しげな光を放っていた。
「よう、兄ちゃん。また来たな」
声をかけてきたのは、前回彼がいくつかのフラスコを購入した、痩身の店主だった。
「どうだい?俺のフラスコの、使い心地は」
「まあ、悪くない」
隼人はぶっきらぼうに答えると、単刀直入に用件を切り出した。
「【アメジストのフラスコ】は、あるか?」
その言葉に、店主の目がキラリと光った。
「ほう…アメジストをお探しで。兄ちゃん、なかなか分かってるじゃないか。E級、いや、D級以上を目指すなら、そいつは必須アイテムだ」
店主はそう言うと、店の奥から一つの紫色の液体が満たされた、美しいフラスコを取り出してきた。
「どうだい、この輝き。最高級のアメジストを使った、一級品だ。混沌耐性を、6秒間、35%も引き上げてくれる。これ一本あれば、大抵の毒や呪詛は笑ってやり過ごせるぜ」
「…で、いくらだ?」
「兄ちゃんは、お得意様だからな。特別に、2万円でどうだい?」
「…1万8千円」
隼人は、即答した。
「このフラスコの市場価格は、知ってる。それが、妥当なラインだろ」
「…はっ、相変わらず手厳しいねえ!」
店主は、楽しそうに笑うとその取引に応じた。
隼人は、残された軍資金の中から1万8千円を支払い、目的の紫水晶のフラスコを手に入れた。
これで、彼のベルトスロットは再び5本のフラスコで埋まった。
ライフフラスコ、一本。
マナフラスコ、一本。
そして、水銀、解呪、アメジストという三本のユーティリティフラスコ。
もはや、彼のビルドに大きな穴はない。
彼は、一つの目的を達成した満足感に浸っていた。
【承】ウィンドウショッピングと世界の「頂」
目的の買い物を終えた、隼人。
だが彼は、すぐにこの市場を後にしようとはしなかった。
彼の足は、自然とマーケットのさらに奥深く。
彼が前回は、足を踏み入れることすらなかった一角へと向かっていた。
そこは、これまでの混沌とした雑踏とは、明らかに空気が違う。
人の数は、まばら。しかし、そこにいる一人一人が、尋常ならざるオーラを放っている。
ここに店を構えているのは、もはやただの商人ではない。
超一流の職人か、あるいはトップランカーと直接繋がりを持つ大物のブローカーだけだ。
そして、そこに並べられているアイテムは、隼人がこれまで目にしてきたガラクタとは、次元が違っていた。
それは、彼にとってのウィンドウショッピング。
この世界の「頂」が、どれほどの高みにあるのかを、その目で確かめるための巡礼だった。
彼が最初に足を止めたのは、一人の無口なドワーフの職人が営む、武具店だった。
そこに並べられているのは、レア等級(黄色)のアイテムだけ。
しかしそのどれもが、完璧な特性(MOD)を持つ、いわゆる「神レア」と呼ばれる逸品ばかりだった。
彼の目が、一つのガントレットに釘付けになる。
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アイテム名: 竜殺しのガントレット
等級: レア(黄)
効果:
物理ダメージを大幅に増加させる (Tier 1)
攻撃速度が飛躍的に上昇する (Tier 1)
クリティカル率が大幅に上昇する (Tier 1)
クリティカルダメージが上昇する (Tier 1)
最大HP +160 (Tier 1)
周囲の敵を威圧し、被ダメージを増加させる ====================================
息を、呑んだ。
六つの特性、全てが完璧に噛み合っている。
火力、速度、クリティカル、耐久力。そして、デバフ。
戦士が求める全ての要素が、このたった一つのガントレットに凝縮されている。
彼の左腕に輝く【万象の守り】が、霞んで見えるほどの圧倒的な性能。
隼人は、恐る恐るその値札を見た。
『価格: 3億5000万円』
「…さんおく、ごせんまん…」
彼の口から、乾いた声が漏れた。
彼がこれまで稼いだ全ての金を注ぎ込んでも、全く足りない。
これが、トップランカーたちが戦う世界の現実。
次に彼が向かったのは、フードを目深に被った謎めいた人物が営む、ユニークアイテム専門店だった。
店の商品は、たった一つ。
ベルベットのクッションの上に、静かに置かれた一つの盾。
それは、まるで茨の木が化石になったかのような、歪な形状をしていた。その中心では、まるで心臓のように赤い光が、ドクンドク...と脈打っている。
隼人は、その盾の名を知っていた。
SeekerNetのビルド考察スレで、嫌というほどその名を目にしてきたからだ。
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アイテム名: 茨の心臓
等級: ユニーク(橙)
効果:
ブロックしたダメージの500%を、物理ダメージとして攻撃者に反射する。 ====================================
【完全反射ビルド】。
そのビルドの、絶対的な核となるキーアイテム。
隼人はその盾を見つめながら、戦慄していた。
これはもはや、ただのアイテムではない。
一つの「思想」であり、「哲学」だ。
攻撃を捨て、ただひたすらに受けに徹する。そして、敵の力を利用し、自滅させる。
その、あまりにも異質で完成された戦術。
それを購入するということは、その戦術思想そのものを手に入れるということ。
その価値は。
『価格: 5億円』
「…ごおく…」
もはや、笑うしかなかった。
そして、最後に。
彼がたどり着いたのは、店ですらない、ただ人だかりができているマーケットの一角だった。
その中心にいるのは、情報屋と呼ばれる痩せた狐目の男。
彼は、物理的な商品を売っているのではない。
彼は、「情報」と「夢」を売っているのだ。
彼が掲げるタブレットの画面には、一つの不鮮明な動画がループで再生されていた。
そこに映っているのは、一人の探索者。
だがその姿は、銀色の光の軌跡となって、もはや人の形を留めていない。
あまりにも速く、あまりにも滑らかに、ダンジョンの中を駆け抜けていく。
「さあさあ、見たかい、聞いたかい!」
情報屋が、甲高い声で叫ぶ。
「これこそが、全ての探索者が夢見る究極のアーティファクト!【賢者の帯】の持ち主の姿だよ!」
「フラスコの効果が永続する!物理ダメージ無効!常時クリティカル率100%!まさに、歩く神!」
「このベルトの在り処に繋がる情報のカケラ!限定一名様に、特別価格でお譲りしよう!さあ、買った買った!」
その、狂乱の光景。
隼人はもはや、その場にいることすらできず、ゆっくりと後ずさった。
彼は、理解した。
世界の「頂」とは、自分が思っていたよりも、遥かに、遥かに高い場所にあるのだと。
億単位の、資産。
神の領域の、装備。
それは、今の自分には決して手の届かない、星空の輝き。
【結】現実と、新たなる決意
隼人は、マーケットの喧騒から逃れるように、高架下を後にした。
手の中には、先ほど購入したたった一つの【アメジストのフラスコ】が、握りしめられている。
1万8千円。
あの数百万、数億円という狂った数字の後では、それはあまりにもちっぽけな買い物に思えた。
だが。
彼の心は、決して折れてはいなかった。
むしろ、逆だった。
彼の瞳には、これまでにないほど強く、そして静かな炎が灯っていた。
(…面白い)
彼は、思う。
(それくらい遠くなくっちゃあ、目指す価値がねえってもんだ)
あの、神々の領域。
そこにたどり着くための道は、果てしなく遠い。
だが、道があるということは、いつかはたどり着けるということだ。
そのために、必要なのは何か。
圧倒的な、金。
そして、常識を覆す奇跡。
それら全てを手に入れる手段を、彼はただ一つだけ知っている。
――ギャンブルだ。
彼は、自らのベルトの空いていたスロットに、購入したばかりの【アメジストのフラスコ】を装着した。
カチリ、という小さな音。
それは、彼のビルドがまた一つ完成へと近づいた音。
そして、彼があの遥かなる頂へと至る長い長い道のりの、確かな**「次の一歩」**を踏み出した音だった。
彼は、空を見上げた。
上野の、灰色の空。
だが、今の彼の目には、そのさらに上に広がる無限の星空が見えていた。
2025/07/07
※『価格: 3,500,000円』→『価格: 3億5000万円』エンドギアの値段が安すぎたので修正しました。
※『価格: 5,000,000円』→『価格: 5億円』ユニークの値段が安すぎたので修正しました。




