第314話
【物語は10年前、ダンジョンが現れる当日に戻る】
【ダンジョン出現後、4ヶ月経過後】
鬼塚宗一率いる「第一実験小隊」の戦いに、「苦戦」という言葉は存在しなかった。
彼らの最初の戦場となったのは、F級ダンジョン【ゴブリンの洞窟】。民間パーティであれば、数時間、あるいは半日をかけてその最深部を目指すその場所を、彼らはわずか30分足らずで完全に「制圧」した。
彼らは、すでに民間から集められた膨大な情報を元に、全てのダンジョンの攻略法を、座学で頭に叩き込んでいた。ゴブリンの行動パターン、弱点、そしてボスであるシャーマンの存在。その全てが、彼らの頭脳に完璧にインプットされていた。
そして、その知識を、国家が用意した最高の装備と、そして自衛隊特殊作戦群で培われた完璧な連携で、ただ実行していく。
「アルファ分隊、前進。十字砲火で、敵前衛を制圧しろ」
鬼塚の、そのあまりにも冷静な、そしてどこまでも無機質な声が、部隊のヘッドセットに響き渡る。
その命令一下。
D級ダンC級のマジック等級の装備で固めた兵士たちが、まるで一つの生き物のように、完璧に統率の取れた動きで、ゴブリンの群れへとその牙を剥いた。
彼らが放つ、魔力を帯びた剣と斧の一撃は、F級の脆弱なモンスターが耐えられるレベルのものではない。
一体のゴブリンが棍棒を振り上げる、その予備動作のコンマ数秒前に。
すでに三方向からの斬撃が、その体を寸断していた。
それは、もはや冒険ではない。
ただ、圧倒的な戦力による、効率的な「作業」だった。
F級のゴブリンの洞窟は、数分で制圧された。
E級の蟻の巣穴も、一時間とかからず、その女王を失った。
彼らの戦いは、常に蹂躙だった。
そして、その作業は、文字通り24時間、休むことなく続けられた。
富士の樹海の地下深くに建設された、極秘の司令部。
その巨大なホログラムモニターには、鬼塚小隊が攻略していくダンジョンのライブ映像と、彼らのバイタルデータが、リアルタイムで表示され続けていた。
モニターの前には、坂本大臣と、そして各省庁から集められたトップアナリストたちが、それこそ寝る間も惜しんで、そのデータを分析し続けていた。
「…素晴らしい」
一人の研究者が、感嘆の声を漏らす。
「彼らのレベルアップ速度、民間の中堅パーティの、実に5倍以上の効率です。このペースであれば、C級に到達するまで、一ヶ月もかからないでしょう」
「うむ」
坂本は、深く頷いた。
だが、その表情に喜びの色はない。
ただ、自らが下した非情な決断の、その重みを噛みしめているかのようだった。
モニターの片隅に表示された、隊員たちのバイタルデータ。
心拍数、血圧、脳波。
その全てが、常人では考えられないほどの、極度の興奮状態を維持し続けている。
【魔石利用栄養剤】。
ギルドの研究機関が、禁断の技術の粋を集めて作り出した、その試作品。
それを摂取した彼らは、疲労を忘れ、睡眠を忘れ、ただひたすらに敵を狩り、経験値を稼いでいく。
彼らは、もはや人間ではない。
国家という巨大な目的のために、その人間性すらも捧げた、究極の「兵器」。
そのあまりにもストイックで、そしてどこか狂気的なレベリング。
その光景は、時を同じくして同じプロジェクトを開始していたアメリカ軍内部でも、全く同じように繰り広げられていた。
ネバダ砂漠の、地下深く。
ヘイワード長官が率いる、米軍の実験部隊『デザート・イーグル』。
彼らもまた、同じようにドーピングアイテムをその身に打ち込み、24時間体制で、ダンジョンのモンスターを蹂躙し続けていた。
水面下で繰り広げられる、日米の、静かな、しかし熾烈な「時間との戦争」。
どちらが先に、民間勢力に追いつき、そして追い越すのか。
その、見えざる競争が、この世界の軍事バランスの、新たな均衡点を形作ろうとしていた。
◇
プロジェクト開始から、2週間後。
鬼塚小隊の平均レベルは、10を超えていた。
彼らが、次に足を踏み入れたのは、C級ダンジョン【嘆きの聖歌隊】。
だが、そのあまりにもいやらしいギミックも、彼らの前では意味をなさなかった。
「――ブラボー分隊、後衛の聖歌隊員を、最優先で排除しろ。チャーリー分隊は、ガーゴイルの足止めに専念。アルファは、俺と共に中央を突破する」
鬼塚の、その完璧な指揮。
それに、彼の部下たちは、寸分の狂いもなく応えた。
彼らは、もはやただの兵士ではない。
この世界の理を理解し、その上で最適解を叩き出す、本物の「探索者」へと変貌していた。
聖歌隊員たちの魔法の弾幕は、彼らのD級レア等級の盾に弾かれ、ガーゴイルの硬い装甲は、連携された集中攻撃の前に、脆くも砕け散った。
そのあまりにも圧倒的な勝利。
それは、彼らがこの世界の新たな「支配者」となるための、最後の通過儀礼だったのかもしれない。
そして、その常軌を逸した育成の果てに。
彼らは、ついにその最初の目標を達成する。
プロジェクト開始から、わずか一ヶ月。
鬼塚小隊の平均レベルは、14に到達。
そして、彼らはC級ダンジョンを、安定して周回できるだけの力を、その手にしていた。
民間勢力に奪われた「時間」。
それを、彼らは国家の力で、完全に、そして強引に、取り戻したのだ。
霞が関、内閣危機管理センターの極秘会議室。
その空気は、一ヶ月前とは比較にならないほどの、静かな、しかしどこまでも深い緊張感に満ちていた。円卓を囲む日本のトップエリートたちは、そのほとんどが言葉を発することなく、ただ一点、会議室の重厚な扉だけを、固唾を飲んで見つめていた。
やがて、その扉が静かに開かれた。
そして、そこに現れた一人の男の姿に、その場にいた全ての人間が、息を呑んだ。
男の名は、鬼塚宗一、一尉。
だが、そこに立っていたのは、もはやただの自衛官ではなかった。
一ヶ月前、彼がこの部屋を後にした時、その身にまとっていたのは、寸分の狂いもなくプレスされた、パリリとした迷彩服だった。だが、今の彼が着ているのは、おびただしい数の傷跡と、そしてまだ乾ききっていないモンスターの返り血で赤黒く染まった、ボロボロのダンジョン装備。その顔は、一ヶ月という時間の経過以上に、深く、そして険しくやつれていた。その目の下には、何日も眠っていないことを示す、深い隈が刻まれている。
だが、その瞳。
その瞳だけが、以前とは比較にならないほどの、絶対的な輝きを放っていた。
それは、幾多の死線を乗り越え、自らの限界を突破し、そしてこの世界の理不尽さそのものをその魂に刻み込んだ者だけが持つことのできる、どこか人間離れした、鋭い光だった。
彼は、その場にいる誰に敬礼することもなく、ただ静かに、そして確かな足取りで、円卓の中央へと進み出た。
そして、その議長席に座る坂本純一郎特命担当大臣を、真っ直ぐに見つめ返した。
その瞳には、もはや上官への敬意ではない。
同じテーブルに着く、対等なプレイヤーへの、静かな問いかけだけが宿っていた。
坂本は、その無言の問いかけに、深く、そして静かに頷いた。
そして彼は、その場の全ての空気を震わせるほどの、重い声で言った。
「――報告を」
その一言。
それに、鬼塚は初めてその薄い唇を開いた。
彼の声は、しゃがれていた。だが、その一言一言には、揺るぎない自信と、そして圧倒的なまでの事実の重みが、宿っていた。
「――現状、我々『第一実験小隊』の戦力は、C級までのあらゆる脅威に対応可能です」
彼は、手元のAR端末を操作し、円卓の中央に巨大なホログラムの戦況マップを投影した。
そこには、関東近郊の全てのF級、E級、そしてC級ダンジョンの名が、鮮やかな緑色の『制圧完了』のマーカーで、埋め尽くされていた。
「例の、黒崎龍臣の部隊とも、互角以上に渡り合えるでしょう。いえ、練度と装備の質を考えれば、おそらくは我々が上回るかと」
その力強い報告に、会議室がどよめいた。
防衛省の将軍が、信じられないという顔で、身を乗り出す。
「…馬鹿な。たった、一ヶ月で、か…?」
「はい」
鬼塚は、淡々と頷いた。
「我々には、睡眠は不要でしたので」
そのあまりにも、さらりとした一言。
だが、その言葉の裏にある、地獄のような一ヶ月間。
それを想像し、会議室の誰もが、言葉を失った。
坂本は、その報告に、深く、そして満足げに頷いた。
彼の、この国で最も危険なギャンブルは、最高の形で、その最初の勝利を収めたのだ。
「…ご苦労だった、鬼塚一尉。君たちは、この国の、最初の『盾』となった」
「だが、これは始まりに過ぎない」
坂本は、そう言うと、鬼塚に新たな任務を告げた。
その声は、もはやただの大臣ではない。
新たなる時代の、王のそれだった。
「君たちには、この国の『番犬』となってもらう。黒崎のような、制御不能な力を持つ者たちを監視し、そして時には、その牙を剥く。そして何よりも、君たちが持ち帰ったその戦闘データと経験。それを、次なる世代へと継承していく。それこそが、君たちの本当の使命だ」
その、あまりにも重く、そしてどこまでも壮大な、新たな任務。
それに、鬼塚はただ一言だけ、答えた。
「――御意」
その日、鬼塚率いる第一実験小隊は、その名を改め、新たな組織として生まれ変わった。
陸上自衛隊、ダンジョン特殊戦略部隊…通称『D-SLAYERS』。
彼らは、この国の、光と闇の境界線に立ち、その秩序を守る、静かなる守護者となった。




