第313話
【物語は10年前、ダンジョンが現れる当日に戻る】
【ダンジョン出現後、3ヶ月経過後】
霞が関、内閣危機管理センターの極秘会議室。
その空気は、昨夜の衝撃から一夜明けてもなお、凍りついたかのように重かった。円卓を囲む日本のトップエリートたちは、そのほとんどが一睡もしていなかった。彼らの目の前のモニターには、今もなおあの新宿での「戦争」の記録映像が、無音で、しかしどこまでも雄弁に、その絶望的な事実を映し出し続けている。
「――時間は、ない」
その静寂を破ったのは、議長席に座る男…「超常領域対策本部」のトップ、坂本純一郎特命担当大臣の、その低く、そしてどこまでも冷静な声だった。
彼の瞳には、もはや驚愕の色はない。
ただ、この国が直面している未曾有の危機に対する、絶対的な覚悟の光だけが宿っていた。
彼は、その場にいる全ての人間へと、立て続けに、そして矢継ぎ早に、命令を下し始めた。その声は、もはやただの大臣のそれではない。戦場に立つ、指揮官のそれだった。
「防衛大臣、直ちに陸上自衛隊特殊作戦群、及び警察庁特殊急襲部隊(SAT)に所属する全隊員の、人事ファイルと戦闘データをここに転送させろ。必要なのは、最高の肉体と、そして何よりも、この異常事態に即応できる、柔軟な精神を持つ者だ。選抜は、私が直々に行う」
「財務大臣、緊急の補正予算を組め。名目は何でもいい。『次世代エネルギー研究開発費』とでもしておけ。必要な額は、青天井だ。これから我々が始めるのは、国家の存亡を賭けた、戦争なのだからな」
「そして、伊吹君」
彼の視線が、円卓の末席に座るギルド最高幹部会の一員、伊吹へと注がれる。
「君のギルドには、これから少しだけ『無理』をしてもらうことになる」
その言葉の、本当の重み。
それに、伊吹はその傷だらけの顔をわずかに引き締め、静かに頷いた。
◇
その日の午後。
陸上自衛隊、習志野駐屯地の、地下深く。
そこに、極秘裏に選抜された十数名の精鋭たちが、集められていた。
彼らは、日本の国防を担うエリート中のエリート。だが、その表情には一様に、困惑と、そしてわずかな緊張の色が浮かんでいた。
彼らの前に、一人の男が立つ。
特殊作戦群の中でも、その冷静沈着な判断力と、常識外れの戦闘センスで一目置かれる男、鬼塚宗一、一尉。
彼の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。
ただ、これから始まる任務の過酷さを、その肌で感じ取っているかのような、絶対的な静寂だけが、そこにはあった。
彼の元に、坂本大臣が、数名の文官だけを連れて、現れた。
「――鬼塚一尉」
坂本の声は、静かだった。
「君に、この国の未来を賭けた、極秘任務を命じる」
彼は、鬼塚に全てを話した。裏社会で、すでに「軍隊」が生まれていること。そして、それに対抗するため、日本初の「探索者特殊部隊」を設立すること。
その説明の間、鬼塚は一度も、その表情を変えなかった。
ただ、その全てを、一つの「情報」として、その脳内にインプットしていく。
そして、坂本がその説明を終えた、その時。
彼は、ただ一言だけ、答えた。
「――御意」
その、あまりにも短く、そしてどこまでも重い一言。
それが、この国の新たな軍隊が、産声を上げた瞬間だった。
◇
数日後。
富士の樹海の、さらに奥深く。
地図には存在しない、極秘の軍事施設。
そこに、鬼塚率いる「第一実験小隊」の、全てのメンバーが集結していた。
彼らの目の前に、次々と運び込まれてくる、ジュラルミン製の巨大なコンテナ。
その中身を見て、彼らは息を呑んだ。
そこに入っていたのは、彼らが見慣れた89式小銃でも、9mm拳銃でもなかった。
おびただしい数の、ダンジョン産の武具だった。
国家権力という名の「暴力」。
政府は、設立されたばかりの公式ギルドに圧力をかけ、市場に出回る前の、最高品質のD級、C級のドロップ品を、半ば強制的に買い上げていたのだ。
「…なんだ、これは…。おもちゃか…?」
隊員の一人が、その手に初めて握る、ゴブリンソードの、あまりにも無骨な感触に、戸惑いの声を漏らす。
だが、鬼塚は動じない。
彼は、その中から一本の、ひときわ長い、そして美しい刃紋を持つレア等級の長剣を手に取ると、その重さと重心を、確かめるように、数度振るった。
そして彼は、静かに、しかしその場の全ての空気を震わせるほどの、確信に満ちた声で言った。
「いや。これは、我々の新しい『牙』だ」
鬼塚率いる「第一実験小隊」は、ダンジョンに一度も潜ることなく、民間の中堅探索者が数ヶ月かけてようやく揃えられるレベルの、マジック等級の装備一式で、その身を固めたのだ。
旧時代の兵士が、新たな時代の戦士へと生まれ変わるための、儀式だった。
そして、その儀式の最後に。
坂本大臣が、再び彼らの前に姿を現した。
彼の手に提げられているのは、一つの、厳重に封印された銀色のケースだった。
彼は、そのケースを鬼塚の前に置くと、静かに、そしてどこまでも重い声で、その最後の任務を告げた。
「――追いつけ」
その、たった一言。
それが、彼らに与えられた、全ての任務だった。
「民間勢力に奪われた『時間』を、取り戻す。そのためなら、いかなる手段も許可する。君たちには、寝る間も惜しんで潜ってもらうことになる」
その、あまりにも過酷な、そしてどこまでも無慈悲な命令。
それに、隊員たちが息を呑む。
だが、誰も、弱音は吐かなかった。
彼らは、プロの軍人だったからだ。
「そして」と、坂本は続けた。
「そのための、『アメ』も用意してある」
彼が、その銀色のケースを開ける。
中には、注射器のような形状のガラス容器が、十数本、青白い光を放ちながら、整然と並べられていた。
ギルドの研究機関が開発したばかりの、【魔石利用栄養剤】。
その、試作品だった。
「これを、摂取しろ」
坂本は、言った。
「そうすれば、君たちは数日間、一切の休息を取ることなく、その肉体と精神を、最高の状態に維持できる。副作用は、まだ不明だ。だが、君たちには、それを乗り越えてもらうしか、ない」
その、禁断のドーピングアイテム。
それに、隊員たちの顔に、初めて明確な動揺の色が浮かんだ。
だが、鬼塚は、その中の一本を、躊躇なく手に取った。
そして彼は、その青白い液体を、自らの腕に、一気に注入した。
彼の全身を、冷たい、しかしどこまでも力強いエネルギーの奔流が、駆け巡る。
疲労が、消える。
恐怖が、消える。
後に残されたのは、ただ、任務を遂行するためだけの、絶対的な集中力。
「24時間戦えます状態」を手に入れた彼らの、地獄のレベリングが、今、始まろうとしていた。
彼の、その鋼鉄の覚悟。
それに、他の隊員たちもまた、続いた。
一人、また一人と、その禁断の果実を、その身へと取り込んでいく。
彼らは、もはやただの人間ではなかった。
国家という巨大な意志のために、その人間性すらも捧げた、究極の「兵器」。
その、あまりにも静かで、そしてどこまでも壮絶な戴冠式を。
富士の樹海の、深い、深い静寂だけが、見守っていた。




