第312話
【物語は10年前、ダンジョンが現れる当日に戻る】
【ダンジョン出現後、3ヶ月経過後】
ダンジョンが出現して、4ヶ月が経過した東京。
その空気は、かつての混沌と恐怖が嘘のように、奇妙なまでの楽観と、新たな時代の幕開けを予感させる熱狂に満ちていた。
霞が関、日本の政治と行政の中枢。その地下深くに存在する、内閣危機管理センターの極秘会議室。そこに、この国の未来をその両肩に背負う、数人の男たちが集っていた。
部屋の中央に鎮座する巨大な円卓の上には、最新鋭のARシステムが投影する世界のダンジョンゲートのリアルタイムの状況が、青白い光の地球儀となって、静かに、しかし絶え間なく回転している。
「――素晴らしい。実に、素晴らしい成果だ」
円卓の議長席に座る男…「超常領域対策本部」のトップ、坂本純一郎特命担当大臣は、その深い皺の刻まれた顔に、満足げな笑みを浮かべていた。
彼の視線の先、ホログラムモニターに映し出されているのは、ギルドの研究機関が提出したばかりの、最新のレポートだった。
議題は、「魔石エネルギーの安定供給と、今後の産業利用について」。
「【魔石ブースター】の試作品、見事なものだった。あれが量産化されれば、我が国のエネルギー問題は、10年以内に完全に解決するだろう。スマートフォンのバッテリーが、一週間充電不要になる時代が来るのだ。まさに、革命だ」
坂本のその言葉に、経済産業省から派遣されたエリート官僚が、興奮した様子で頷いた。
「はい、大臣。すでに国内外の複数の大手電機メーカーから、技術提携に関する非公式な打診が来ております。この技術だけで、数兆円規模の新たな市場が生まれることは、確実かと」
「うむ」
坂本は、深く頷いた。
次に、厚生労働省の担当者が、別のレポートを提示する。
「こちらが、【魔石軟膏】の臨床試験データです。軽度の火傷や切り傷であれば、数秒で完全に治癒。副作用の報告も、現時点では皆無。これもまた、医療業界に革命をもたらすでしょう」
会議室は、バラ色の未来への希望に満ちていた。
誰もが、このダンジョンという神からの贈り物が、この国に無限の繁栄をもたらすと信じて疑わなかった。
彼らの頭の中にあるのは、常に「経済」と「科学」。
探索者とは、そのための貴重な「資源」を採掘してくる、ただの労働者。
その「力」そのものを、軍事的に利用するという発想は、まだ彼らの頭の片隅にすら、存在していなかった。
彼らは、まだ知らなかったのだ。
自分たちが、チェスの盤上を見ているつもりが、そのすぐ隣で、全くルールの違う、血生臭い戦争が始まっていたということを。
その、あまりにも平和な会議を、一本の緊急報告が、引き裂いた。
バタン、という乱暴な音と共に、会議室の重厚な扉が開かれた。
そこに立っていたのは、坂本の腹心の部下である、公安調査庁の理事官、高坂だった。その顔は、蒼白だった。
「…大臣!緊急事態です!最高レベルの機密情報が、警視庁から上がってきました!」
その、ただならぬ気配。
それに、会議室の空気が一瞬で凍りついた。
「…どうした、高坂君。落ち着いて、話したまえ」
「はっ…!これです!」
高坂は、震える手で一つのデータチップを、円卓の中央のコンソールへと差し込んだ。
「昨夜、新宿で起こった、暴力団の抗争事件に関する、映像記録です。ですが…これは、もはやただの抗争ではありません。…戦争です」
坂本は、その言葉に眉をひそめながらも、ホログラムモニターの再生を許可した。
会議室の照明が、落とされる。
そして、モニターに映し出されたのは、彼らの全ての楽観を、一瞬で、そして完全に粉砕するには、十分すぎるほどの、地獄の光景だった。
映像は、新宿の外れの、薄暗い倉庫街を、少し離れたビルの屋上から、望遠で撮影されたものらしかった。
画面には、数台の黒塗りのバンから、重装備の男たちが、次々と降り立ってくる。その動きは、あまりにも統率が取れていた。最新鋭のアサルトライフル、暗視ゴーグル。プロの、傭兵部隊。
「…なんだ、これは。我が国の国内で、このような武装集団が…」
防衛省の将軍が、呻くように言った。
だが、本当の衝撃は、ここからだった。
傭兵たちが包囲する、一つの古びた倉庫。
そのシャッターが、ギギギ…という重い音を立てて、ゆっくりと上がっていく。
そして、その奥から現れたのは、十数人の、あまりにも異質な集団だった。
その身を包んでいるのは、ゴツゴツとした、しかし確かな魔力のオーラを放つ、モンスターの素材で作られた革鎧。その手に握られているのは、刃こぼれしながらも青白い光を放つ、ダンジョン産の長剣や戦斧。
黒崎龍臣率いる、「探索者ヤクザ」だった。
「――撃て!」
傭兵部隊の指揮官らしき男の、号令。
ダダダダダダダダダダダダダッ!
凄まじい銃声が、夜の新宿に響き渡る。
だが、その銃弾の嵐は、黒崎の部下たちの鋼鉄の鎧に、まるでBB弾のように、カン、カン、カンと、あまりにも虚しい音を立てて、弾かれていく。
その、あまりにも非現実的な光景。
それに、会議室の誰もが、息を呑んだ。
「なっ…!?」
「効いていない…だと…?」
傭兵たちが、その信じられない光景に呆然とした、その一瞬の隙。
黒崎の部下たちの、無慈悲なカウンターが、炸裂した。
彼らが振るう、魔力を帯びた剣と斧は、傭兵たちの最新鋭の防弾ベストを、まるで紙切れのように切り裂き、そして叩き潰していく。
悲鳴、怒号、そして断末魔。
それは、もはや戦闘ではなかった。
ただ、一方的な蹂躙だった。
レベルアップによって、常人とは比較にならないほどの身体能力を手に入れた探索者たち。
彼らの前では、旧世界の訓練されたエリート兵士ですら、ただの赤子同然だった。
映像の最後には、その地獄の光景を、倉庫の屋上から、ただ静かに見下ろす、一人の男の姿が、アップで映し出されていた。
黒崎龍臣。
その瞳には、何の感情もなかった。
ただ、自らの「事業」が成功したことを確認する、冷徹なビジネスマンの光だけが、宿っていた。
映像が、終わる。
会議室に、絶対的な静寂が戻ってきた。
後に残されたのは、ホログラムモニターの青白い光に照らされた、エリートたちの、絶望に染まった顔だけだった。
彼らは、理解してしまった。
自分たちが、この数ヶ月間、いかに大きな「勘違い」をしていたのかを。
重い、重い沈黙。
それを、破ったのは、坂本大臣の、震える声だった。
彼は、ゆっくりと立ち上がると、円卓の中央で回転する、美しい、しかし今やどこか虚しく見える、魔石のホログラムを見つめた。
そして彼は、戦慄と共に、悟った。
「…我々は、完全に焦点を間違えていた」
彼の声は、自分自身に言い聞かせるかのように、静かだった。
「我々が、これを『資源』としか見ていなかった間に」
「――裏社会は、これを『軍隊』として、完成させていたのだ」
その、あまりにも重い、そしてどこまでも無慈悲な真実。
それに、会議室の誰もが、ただ黙って、頷くことしかできなかった。
その日、日本政府は初めて、自らがこの新しい世界の競争に、致命的に「後れを取っている」という事実を、痛感した。
彼らの、短い、そしてどこまでも甘美な夢の時間は、終わりを告げた。
本当の、そしてどこまでも過酷な「現実」との戦いが、今、始まろうとしていた。




