第310話
東京、新宿歌舞伎町。
その猥雑なネオンの海に浮かぶ、一つの孤島。表向きは寂れた雑居ビル。だが、その最上階、分厚い防音扉の向こう側には、この街の夜を支配する者たちだけが集うことを許された、非合法のポーカーハウスが存在した。
時刻は、深夜3時を回ったところ。
最後の客が、その全財産を失い、あるいはその数倍の富を手に、それぞれの日常へと帰っていった後。フロアは、まるで嵐が過ぎ去ったかのように静まり返っていた。テーブルの上には、無造作に置かれたチップの山と、飲み干されたグラス。空気には、高級な葉巻の残り香と、男たちの欲望と絶望が混じり合った、濃密な匂いがまだ漂っている。
その、静寂の中心。
店の奥、分厚いマホガニーの扉で隔たれた元締めのオフィス。
黒崎龍臣は、そのイタリア製の高級な革張りのソファに、泥のように深く、その身を沈めていた。
手元のサイドテーブルには、半分ほど残った最高級のスコッチのグラスが、傾いている。琥珀色の液体が、床に敷かれたペルシャ絨毯に、ゆっくりと染みを作っていた。
彼の意識は、もはやこの場所にはなかった。
彼は、夢を見ていた。
10年前の、あの夏の日。
まだ、彼の世界に「光」があった頃の、夢を。
『――兄さん、見て!このワンピース、すごく可愛いの!』
白いワンピースを着た、高校生の妹、光。
彼女が、新しく引っ越したばかりの高級マンションのリビングで、くるりと楽しそうに回ってみせる。窓の外には、彼がその手で掴み取った、宝石箱のような夜景が広がっていた。
『ああ。お前には、それくらいが丁度いい』
照れくさそうに、しかしどこまでも優しく妹を見つめる、若き日の自分。
彼の心は、これ以上ないほどの達成感と、そして穏やかな幸福に満たされていた。
この光景を守るためなら、俺はどんな悪魔にだってなれる。
彼は、そう誓った。
そして、その誓いは、最も残酷な形で裏切られることになる。
彼女の笑顔が、ふっと翳り、その口元から、小さな咳が漏れた。
その咳の音が、彼の夢の中の楽園に、最初の、そして致命的な亀裂を入れる。
やめろ。
思い出すな。
その先は、地獄だ。
彼の魂が、叫んでいた。
「――アニキ」
不意に、彼の耳に、現実世界からの声が届いた。
重い、重い瞼を、こじ開ける。
ぼやけた視界の中に、一つの巨大な影が立っていた。
「アニキ、アニキ」
その、あまりにも聞き慣れた、そしてどこまでも忠実な声。
黒崎は、その重い体をゆっくりと起こした。
まだ、夢と現実の境界が曖昧だった。
「…おう、何だ何だ…」
彼の、その寝ぼけた声。
それに、目の前の巨漢…彼の最も信頼する部下であり、今やS級探索者としてその名を轟かせている健太が、呆れたように、しかしどこか嬉しそうに、その傷だらけの顔を歪ませた。
「いや、アニキが呼び出したのに寝てるから、起こしたんじゃないっすか」
その言葉に、黒崎はようやく完全に覚醒した。
そうだ。
俺が、こいつを呼んだんだった。
彼は、ソファから身を起こし、床に落ちていたスコッチのグラスを拾い上げた。
健太は、その主の姿を一瞥すると、深いため息をついた。その巨体には、もはやチンピラの頃の面影はない。その身を包んでいるのは、イタリア製の、しかしその筋肉質な体には少しだけ窮屈そうな、最高級のオーダースーツ。その腕には、家が一軒買えるほどの、複雑な機構を持つ機械式の腕時計が輝いている。
だが、その口調だけは、10年前と何も変わっていなかった。
「いつまで、非合法のポーカーハウスの元締めなんて、お遊びしてるんすか」
健太の、その説教が始まった。
もはや、彼の日常の一部だった。
「アニキもS級冒険者なんだから、もうちょい働いてもらわないと。下の者への示しって物が、ですね…」
「悪い、悪い」
黒崎は、その説教を遮るように、手をひらひらと振った。
「10年前を、思い出してただけだよ」
「10年前、ですか。ダンジョンが登場した、あの頃ぐらいですか?」
健太の声が、少しだけ懐かしそうな響きを帯びた。
「いやー、お互い、遠い立場になりましたよね。俺みてえなチンピラが、まさかS級探索者になって、こんな良いスーツ着れるようになるなんて、夢にも思ってませんでしたよ」
彼は、自らのスーツの襟を、誇らしげに撫でた。
その、あまりにも無邪気な、そしてどこまでも真っ直ぐな忠誠心。
それに、黒崎はふっと息を吐き出した。
そして彼は、ポツリと、その心の奥底に沈殿した、決して消えることのない澱を、漏らした。
その声は、あまりにも小さく、健太の耳には届かなかったかもしれない。
「――本当にほしい物は、失ったがな」
「…アニキ、何か?」
健太が、聞き返す。
「いや、なんでもねえよ」
黒崎は、その本心を隠すかのように、グラスに残っていたスコッチを一気に煽った。
そして彼は、話題を変えた。
それは、彼がこの数ヶ月間、ずっと考えていたことだった。
「…そうだな。隼人も、成り上がってるしな」
彼の脳裏に、もう一人の、不器用な、しかしどこまでも真っ直ぐな少年の顔が浮かぶ。
神崎隼人、“JOKER”。
彼が、唯一その未来を賭けた、もう一つの「光」。
その光が、今やA級という、自らの力だけで、神々の領域へとその手をかけようとしている。
その事実が、黒崎の、凍りついていた心を、わずかに動かしていた。
「そろそろ、この非合法のポーカーハウスの元締めも、辞めるか」
彼の、そのあまりにも唐突な、そしてどこまでも重大な一言。
それに、健太の眠たげだった目が、信じられないというように、大きく見開かれた。
そして、次の瞬間。
その顔が、子供のようにはしゃいだ、最高の笑顔になった。
「おっ!ついに、真面目に裏社会の覇者である覇王として、動くんですね!」
その、あまりにも短絡的で、そしてどこまでも暴力的な勘違い。
それに、黒崎は深く、そして重いため息をついた。
「どこの裏組織、潰しますか?渋沢組の、生き残りですか?それとも、最近調子に乗ってる、海外のマフィアどもですか?」
健太の瞳が、狩りの前の獣のように、キラキラと輝いている。
その、あまりにも変わらない、10年前と同じその瞳。
それに、黒崎はもはや、笑うしかなかった。
「…馬鹿。これだけ権力持つと、昔みてえに行動出来ねえんだよ」
彼の声には、絶対的な王者の、そしてどこか寂しげな響きがあった。
「俺たちが、ちょっと動くだけで、この国の経済が、いや、世界の経済がどうなるか、分かってんのか?もう、ただの喧嘩じゃ済まされねえんだよ、俺たちは」
「…馬鹿は、治らないな、お前は」
その、突き放したような、しかしどこか愛情のこもった一言。
それに、健太は少しも悪びれる様子もなく、その傷だらけの顔で、最高の笑顔を見せた。
その笑顔は、10年前と、何も変わっていなかった。
「へい。馬鹿が、取り柄でして」
その、あまりにも真っ直ぐな、そしてどこまでも忠実な、答え。
黒崎は、その言葉に、ふっと息を吐き出した。
そして彼は、新しいスコッチのボトルを開けながら、その忠実な、そして唯一無二の相棒に、告げた。
その声は、新たな時代の幕開けを予感させる、静かな、しかし確かな響きを持っていた。
「…まあ、見てろよ。ここからが、本当の『仕事』だ」




