第308話
【物語は10年前、ダンジョンが現れる当日に戻る】
F級ダンジョン【ゴブリンの洞窟】は、黒崎龍臣とその部下たちにとって、もはやただの狩場ではなかった。それは、彼らの帝国が最初の産声を上げた揺り籠であり、そして彼らの「暴力」という名の唯一の商品が、どれほどの価値を持つのかを証明するための、最高のショーケースだった。
だが、いつまでも同じテーブルで遊び続けるギャンブラーは、三流だ。黒崎の野心は、もはやその小さな洞窟には収まりきらなかった。
「――行くぞ。次のシマだ」
ダンジョンが出現して二ヶ月が経過した、ある日の早朝。黒崎は、アジトと化した倉庫に、選りすぐりの精鋭十数名を集めていた。彼らの身を包むのは、もはやあの日のような安物のジャージではない。ゴブリンの皮を何枚も重ねて鞣し、専門の職人に法外な金を払って作らせた、黒一色の特注の革鎧。その手には、ゴブリンソードを溶かして鍛え直した、無骨ながらも鋭い切れ味を誇る長剣が握られている。その佇まいは、もはやただのチンピラではない。ダンジョンという新たな戦場で、血と硝煙の匂いをその身に纏った、歴戦の傭兵団のそれだった。
彼らが向かう先は、D級ダンジョン【打ち捨てられた王家の地下墓地】。
ひんやりとした大理石の床がどこまでも続く、静寂と死の匂いに満ちた回廊。そのあまりにも不気味な雰囲気に、若い衆の一人がゴクリと喉を鳴らした。
「…龍臣さん。なんだか、嫌な感じがしやすね」
「ああ」
黒崎は、その緊張を意にも介さず、短く答えた。
「だが、その分『実入り』もいいはずだ。気を引き締めろ。ここからは、ゴブリン相手の喧嘩じゃねえ。本物の戦争だ」
彼がそう言って、最初の広大な墓室へと足を踏み入れた、その瞬間だった。
カタ、ガタ、ゴトと、おびただしい数の骨の擦れる音。
地面の石畳の隙間から、壁際に並べられた古い棺の中から、白い骨の手が次々と現れる。そして、その空虚な眼窩に赤い憎悪の光を灯した、数十体の骸骨兵が、その呪われた体を起こした。
その、あまりにも絶望的な物量。
それに、若い衆たちが息を呑む。
だが、黒崎の声は、どこまでも冷静だった。
「――慌てるな」
彼の、その静かな一言。それが、この地獄の戦場の、指揮棒となった。
「いいか、お前ら!ダンジョンは、カチコミと一緒だ!一人で突っ込むな!常に二人一組で、背中を預け合え!」
彼の檄が、飛ぶ。
「骸骨は、頭を砕けば動きが鈍る!盾持ちは前に出ろ!壁を作れ!アタッカーは、その壁の隙間から、一体ずつ確実に頭蓋を叩き割れ!」
「そして、一番重要なことだ!危ないと思ったら、迷わず逃げろ!面子より、命だ!」
その、あまりにも的確で、そしてどこまでもヤクザらしい合理的な指示。
それに、彼の部下たちが、完璧に応えた。
彼らは、もはや恐怖に支配された烏合の衆ではない。黒崎という絶対的な頭脳の下で機能する、一つの完璧な軍隊だった。
盾役が骸骨たちの攻撃をその身に引きつけ、その間に攻撃役が回り込み、その脆い頭蓋を粉砕していく。
それは、即席の一般人パーティなどでは、決して真似のできない、圧倒的な生存率と効率を誇った。
彼らは、着実に、そして確実に、より価値の高いD級の魔石と、そして時にはマジック等級のレアアイテムを、その手に収めていった。
◇
その成功は、彼のビジネスを、さらに異次元の領域へと押し上げた。
彼は、稼いだ莫大な資金を元手に、ギルドの公式な鑑定所や換気所を通さない、独自の「闇ルート」を構築し始めた。
新宿の、とある雑居ビルの最上階。
そこは、表向きは寂れた貿易会社のオフィス。だが、その裏の顔は、黒崎が築き上げた闇の帝国の、新たな心臓部だった。
「――龍臣さん。例のブツ、鑑定終わりました」
オフィスの一室で、一人の初老の男が、そのモノクル越しの鋭い目で、黒崎に報告していた。
男の名は、古川。かつてはギルドの公式鑑定士だったが、ギャンブルで作った莫大な借金のせいで、その地位を追われた男だ。黒崎は、その男の「腕」と「弱み」に目をつけ、裏から引き抜いたのだ。
「素晴らしい。実に、素晴らしい品です。このレア等級の長剣…付与されているMODは、『物理ダメージ+25%』と『攻撃速度+10%』。どちらも、最高ティアに近い。公式のマーケットに出せば、500万円は下らないでしょうな」
「そうか」
黒崎は、その報告に満足げに頷いた。
「だが、こいつは市場には流さん。うちの、エースアタッカーに回せ。最高の武器には、最高の使い手が必要だ」
「かしこまりました」
黒崎は、もはやただダンジョンから富を奪うだけの、野盗ではなかった。
彼は、手に入れた富を、さらなる力へと「再投資」し、自らの軍団を強化していく、冷徹な経営者へと変貌していた。
そして、その彼の新たな帝国の噂は、瞬く間に裏社会を駆け巡った。
「――ギルドの連中は、仕事が遅すぎる。俺たちは、俺たちのルールでやる」
黒崎が設立した、非合法の換金所。そこでは、公式よりもわずかに高いレートでドロップ品が取引され、面倒な身元確認も、税金もかからない。
その、あまりにも魅力的で、そしてどこまでも危険なテーブル。
それに、新宿中の、裏社会に生きる者たちが、川の流れのように吸い寄せられていった。
彼の元には、金と、そして何よりも貴重な「情報」が、集まり始めたのだ。
◇
その成功の果実は、光の日常を、さらに輝かしいものへと変えていった。
彼は、光のために最高の家庭教師を雇い、彼女が望むものは、何でも買い与えた。
そして、その年の秋。
彼は、多忙な仕事の合間を縫って、彼女を一つの旅へと連れ出した。
箱根。
錦の紅葉が、山全体を燃えるように染め上げる、美しい温泉郷。
彼らが泊まったのは、一泊数十万円はするという、最高級の老舗旅館だった。
部屋の窓からは、芦ノ湖と、その向こうにそびえる富士山の雄大な姿が一望できる。
源泉掛け流しの、檜の香りがする露天風呂。
地元の最高の食材だけを使った、芸術品のような懐石料理。
その全てが、これまで彼女が知らなかった、世界の美しさだった。
「…すごいね、兄さん。こんな綺麗な場所、初めて来た…」
浴衣姿の光が、その大きな瞳をキラキラと輝かせながら、窓の外の紅葉を眺めていた。
その、あまりにも無邪気な笑顔。
それが、黒崎にとっての、最高の報酬だった。
「兄さん、最近すごく楽しそうだね。昔みたいに、顔に傷も作ってこないし」
「ああ。今の仕事は、性に合ってるらしい」
黒崎は、照れ隠しのようにそう言って、湯気の立つお茶を啜る。
彼の心は、これ以上ないほどの達成感と、そして穏やかな幸福に満たされていた。
この光景を守るためなら。
俺は、どんな悪魔にだってなれる。
彼は、そう心に誓っていた。
旅の帰り道。
彼は、光に一つの小さな包みを、手渡した。
「…これ、土産だ」
「え?なあに?」
光がその包みを開けると、中から現れたのは、一つの美しい寄木細工のオルゴールだった。
その蓋を開けると、優しく、そしてどこか懐かしいメロディーが、流れ出した。
それは、彼らが幼い頃、亡くなった母親がよく歌ってくれた、子守唄だった。
「…お母さんの、歌…」
光の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
だが、それはもう悲しみの涙ではなかった。
彼女は、最高の笑顔で、兄の胸にその顔をうずめた。
「…ありがとう、兄さん。最高の、宝物だよ」
その温かい感触。
その尊い重み。
黒崎は、その小さな体を強く抱きしめながら、静かに、そして力強く誓った。
この、幸せを。
この、光を。
俺が、絶対に、守り抜いてみせると。
彼の、裏社会の覇王としての物語は、最高の形で、その黄金時代を迎えていた。




