第307話
【物語は10年前、ダンジョンが現れる当日に戻る】
F級ダンジョン【ゴブリンの洞窟】。
そのひんやりとした湿った空気は、今や黒崎龍臣とその部下たちにとって、第二の職場と化していた。
あれから、一ヶ月。
彼らは、もはやあの日のような鉄パイプとドスを握りしめた、ただのチンピラの集団ではなかった。
その身を包んでいるのは、倒したゴブリンから剥ぎ取った素材で、見よう見まねで作り上げた粗末な革鎧。その手に握られているのは、刃こぼれしながらも確かな殺意を宿した、ゴブリンソードとゴブリンシールド。
そして何よりも、彼らの動きそのものが、変質していた。
「――二番隊、右翼から回り込め!三番隊は中央で壁を作れ!一体たりとも、抜かすな!」
洞窟の広間に響き渡るのは、黒崎の低く、しかしどこまでもよく通る声。
その命令一下。
十数人の男たちが、まるで一つの生き物のように、完璧に統率の取れた動きで、眼前に広がるゴブリンの大群へと襲いかかった。
そこには、もはや一般人パーティのような、手探りの連携や、恐怖による躊躇はない。
ただ、ヤクザ稼業で培われた、圧倒的なまでの規律と、暴力の効率化だけがあった。
盾を構えた者が壁となり、ゴブリンの注意を引きつける。その隙に、背後から回り込んだ別の者が、その無防備な背中を、容赦なく斬り伏せる。
それは、もはや戦闘ではない。
ただの、効率的な「処理」。
あるいは、シマを荒らす害獣を駆除するだけの、淡々とした「作業」だった。
「…ちっ。今日の湧きは、渋いな」
黒崎は、その光景を後方から冷静に見つめながら、舌打ちした。
彼の足元には、すでに山のように積み上げられた、紫色のF級魔石と、ゴブリンの耳が転がっている。
この一ヶ月で、彼らはこのダンジョンの生態系そのものを、完全に支配していた。
どの時間帯に、どの場所に、どれくらいの規模の群れが出現するのか。
その全てを、彼の頭脳は完璧に把握していた。
彼の「ヤクザ式ダンジョン攻略」は、圧倒的な成功を収めていたのだ。
◇
新宿、歌舞伎町の外れ。
シャッターが下ろされた、古びた倉庫。
そこが、黒崎率いる新生「黒崎組」の、アジトであり、そして新たな時代の裏社会の、心臓部だった。
倉庫の中は、おびただしい数の魔石が放つ、紫色の妖しい光と、そしてそれ以上に禍々しい、現金の匂いで満ち満ちていた。
「龍臣さん!今日の上がり、確認しやした!」
子分の一人である、まだ若いがその目には確かな野心を宿した健太が、興奮した様子で帳簿を差し出してきた。
「魔石だけで、日当300万を超えてます!ヤバいっすよ、これ!」
「…ああ」
黒崎は、その数字を一瞥すると、興味なさげに頷いた。
300万。
数ヶ月前であれば、組の幹部ですら目にすることのできないような大金。
だが、今の彼らにとって、それはもはや「日常」の数字でしかなかった。
彼らは、ギルドが設立した正規の換金所など、利用しない。
黒崎が独自に開拓した闇のルート。
いち早く魔石の軍事的な価値に気づいた、海外の武器商人。
そのエネルギー源としての可能性に投資する、新興のIT企業。
そういった、正規のルートでは決して満足できない「貪欲な」顧客たちに、彼らは法外な値段で魔石を売りさばき、莫大な富を築き上げていた。
その成功は、彼の部下たちの人生を、完全に変えた。
「龍臣さん!見てくださいよ、このロレックス!」
その日の夜。
歌舞伎町の、最高級のクラブ。
黒崎組が貸し切りにしたその豪奢な空間で、健太がその腕に輝く黄金の腕時計を、子供のようにはしゃぎながら自慢していた。
数ヶ月前まで、彼は先輩のパシリで煙草を買いに行くことしか能のなかった、ただのチンピラだった。
だが、今は違う。
彼の腕には、家が一軒買えるほどの時計が巻かれ、その隣には、彼に媚びるような笑みを浮かべる美しいホステスが座っている。
「健太だけじゃねえぞ!」
別の、ひときわ体格の良い男が、その身にまとったアルマーニのスーツの襟を正しながら、声を上げた。
「俺、生まれて初めて、こんな良いスーツ着ました!軽くて、動きやすくて、最高っすよ!」
「もう、ドン・キホーテの安物のジャージには、戻れねえっす!」
その言葉に、周りの子分たちが、どっと笑った。
彼らの手には、ドン・ペリニヨンのボトルが握られ、テーブルの上には、食べきれないほどの高級な料理が並んでいる。
彼らは、その溢れんばかりの富を、まるで子供のように無邪気に、そしてどこまでも下品に、ばら撒いていた。
夜の新宿で、彼らは札束をばら撒き、自分たちの成功を祝う。その姿は、まさにダンジョンが生み出した「成金」そのものだった。
だが、その狂乱の中心で。
黒崎龍臣は、ただ静かに、その手に持ったブランデーグラスを、揺らしていた。
彼の口元には、笑みはない。
ただ、どこまでも冷静に、そしてどこか冷めた目で、その光景を眺めているだけ。
彼の喜びは、こんな場所にはない。
彼の、本当の「楽園」は。
◇
新宿、西口。
地上40階建ての、最新鋭のタワーマンション。
その、最上階の一室。
黒崎は、静かに玄関のドアを開けた。
先ほどまでのクラブの、喧騒と、安っぽい香水の匂いが嘘のように消え去り、彼の全身を、温かく、そしてどこまでも穏やかな空気が包み込んだ。
部屋は、広かった。
床から天井まで続く巨大な窓からは、宝石箱をひっくり返したかのような、東京の夜景が一望できる。
そして、その光の海に照らされたアイランドキッチンから、ふわりと温かい湯気と共に、食欲をそそるシチューの匂いが漂ってきた。
「おかえり、兄さん」
エプロン姿のまま、ひょこりと顔を出したのは、光だった。
彼女は、兄の顔を見るなり、その大きな瞳を心配そうに細めた。
「…また、お酒の匂いがする。飲み過ぎは、ダメだよ?」
「…ああ、分かってる」
黒崎は、そのぶっきらぼうな返事の中に、隠しきれない優しさを滲ませながら、答えた。
その富は、黒崎と光の日常をも変えた。
あの、壁の薄いボロアパートから、セキュリティの万全なこの高級マンションへ。
テーブルに並ぶのは、光が腕を振るった豪華な手料理。
その日の夕食は、彼女が得意とするビーフシチューだった。
じっくりと煮込まれた牛肉が、口の中でほろりととろける。
野菜の甘みが溶け込んだ、深い、深い味わい。
彼は、その一口一口を、噛みしめるように味わった。
これだ。
これこそが、俺が本当に求めていた味だ。
「ねえ、兄さん」
光が、その小さな口でシチューを頬張りながら、言った。
彼女は、今日デパートで買ってもらったという、新しい白いワンピースを着ていた。
その姿は、まるで天使のように、清廉で、そしてどこまでも美しかった。
「見て!このワンピース、すごく可愛いの!」
「ああ。お前には、それくらいが丁度いい」
照れくさそうに、しかしどこまでも優しく妹を見つめる黒崎。光もまた、兄の成功を心から喜び、その身を案じながらも、この幸せな時間が永遠に続くと信じていた。
食事が終わり、二人はリビングの巨大なソファに並んで座り、他愛のないバラエティ番組を見ていた。
テレビの中の芸人たちが、体を張って笑いを取っている。
その、あまりにも平和な光景。
それに、光は声を上げて笑っていた。
黒崎もまた、その隣で、静かに、しかし心の底から穏やかな笑みを浮かべていた。
彼は、窓の外に広がる光の海を見下ろす。
あの光の一つ一つが、今や自分のものだ。
だが、そんなものは、どうでもよかった。
この、隣で笑う、たった一人の妹の笑顔。
それさえあれば、彼は他に何もいらなかった。
「…兄さん」
ふと、光が、彼の顔を覗き込むように見上げてきた。
その大きな瞳には、わずかな、しかし確かな不安の色が浮かんでいた。
「兄さんの、その新しいお仕事。本当に、大丈夫なの?」
「…ああ」
「でも、なんだか、怖いよ。兄さんが、どんどん遠いところに行っちゃうみたいで…」
その、あまりにも切実な、妹の不安。
それに、黒崎は、その小さな頭を、不器用な手つきで、しかしどこまでも優しく撫でた。
そして彼は、言った。
その声は、絶対的な、そしてどこまでも温かい約束だった。
「――大丈夫だ」
「俺が、どこに行くと思うんだよ」
「俺の居場所は、ずっと昔から、お前の隣だけだ」
その言葉に、光の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
だが、それはもう悲しみの涙ではなかった。
彼女は、最高の笑顔で、兄の胸にその顔をうずめた。
「…うん」
その、あまりにも温かい感触。
その、あまりにも尊い重み。
黒崎は、その小さな体を強く抱きしめながら、静かに、そして力強く誓った。
この、幸せを。
この、光を。
俺が、絶対に、守り抜いてみせると。
彼の、裏社会の覇王としての物語は、最高の形で、その黄金時代を迎えていた。
その輝かしい未来が、永遠に続くと、彼は信じて疑わなかった。




