第303話
西新宿の空から差し込む午後の柔らかな光が、日米合同冒険者高等学校の巨大な階段教室の窓を白く染めていた。
数百人の若者たちの視線が、教壇に立つ一人の小柄な老人の姿へと注がれている。
歴史学者であり、元A級探索者でもある石川講師。彼の静かな、しかしどこまでもよく通る声が、生徒たちの熱気に満ちた、しかしどこか浮ついた空気を、ゆっくりと引き締めていく。
「――さて」
石川は、その深い皺の刻まれた顔に、穏やかな、しかしどこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「講義を始める前に、まず一つ言っておこう」
彼の視線が、教室の隅々までを見渡す。その瞳には、ここにいる全ての生徒たちの、心の奥底までを見透かすかのような、深い洞察力が宿っていた。
「君たちの頭の中が、今、何を考えているか。このワシには、手に取るように分かる」
彼は、そう言ってニヤリと笑った。
「エッセンスのことだろう?」
そのあまりにも的を射た一言。
それに、教室のあちこちから、どっと笑い声が上がった。
生徒たちの顔に浮かんでいた緊張が、ふっと和らぐ。
静と美咲もまた、顔を見合わせ、くすくすと笑った。
「無理もない」
石川は、頷いた。
「このワシですら、昨日のSeekerNetの狂乱には、心を躍らせた。クラフトに、確定演出。合成による、無限の可能性。そして、たった一つのドロップが、1000万円という価値を生み出す、新たなゴールドラッシュ。君たちのような若い血が、それに熱狂しないはずがない」
彼は、そこで一度言葉を切ると、その表情をわずかに引き締めた。
その瞳には、厳しい、しかしどこまでも温かい光が宿っていた。
「だから、気持ちはよく分かる。エッセンスブームでエッセンスを掘りたいと思いますが、講義なので我慢して下さいね」
その、あまりにも人間的で、そしてどこまでも優しい一言。
それに、教室は再び、この日一番の大きな、そして温かい笑い声に包まれた。
生徒たちの心は、今や完全に、この老練な語り部の手の中にあった。
「さて、と」
石川は、咳払いを一つすると、本題へと入った。
「今日のテーマは、君たちが毎日、当たり前のようにその身に宿している、この世界の最も基本的な、しかし最も謎に満ちた力についてだ」
彼は、ARパネルを操作し、巨大なホログラムモニターに、一つのシンプルなテキストを映し出した。
【HPとは、何か?】
「君たちは、ダンジョンでモンスターに殴られ、HPが減る。フラスコを飲めば、回復する。レベルが上がれば、その最大値も増えていく。だが、**皆さんはHPが何か?というのはあまり理解していないと思います。**それは、ただの生命力ではない。この世界の理そのものに深く関わる、極めて特殊なエネルギーなのだ。そして、その本質が解明されたのは、今から約10年前。ダンジョンが出現して、まだ間もない、あの混沌の黎明期に起こった、ある一つの『事件』がきっかけだった」
講義室の空気が、再び引き締まる。
生徒たちは、息をすることも忘れ、ただその世界の「始まり」の物語に、聞き入っていた。
「**これは黎明期に起こったある事件です。**当時、アメリカのネバダ州に、一人のB級冒険者がいた。名は、ジョン。元々は、ラスベガスでトラックの運転手をしていた、ごく普通の男だった。彼は、その有り余る腕力と度胸を見込まれ、ギルドにスカウトされ、B級という、当時としては破格のランクにまで上り詰めていた」
「その日、彼はいつものように、B級ダンジョン【鉄の廃墟】での過酷な探索を終え、その戦果を手に、自らの愛車である大型の4トントラックで、ラスベガスへと続く長い、長いハイウェイを走っていた。天気は、最悪。砂漠に、年に一度降るか降らないかという、猛烈な嵐だった」
石川の声が、講義室の静寂を切り裂く。
「視界は、ゼロ。彼のトラックのワイパーは、フロントガラスに叩きつける雨を、もはや拭い去ることができずにいた。そして、悲劇は起こった」
「対向車線を走っていた、一台のトレーラー。その運転手が、おそらくは疲労からか、ほんの一瞬、居眠りをした。トレーラーは、コントロールを失い、中央分離帯を突き破り、ジョンのトラックの、その真正面へと、なだれ込むように突っ込んできたのだ」
「ジョンは、咄嗟にハンドルを切った。だが、もう遅い。二つの巨大な鉄の塊が、時速100キロを超える速度で、正面から激突した」
その、あまりにも生々しい描写。
それに、教室のあちこちから、息を呑む音が聞こえた。
美咲もまた、その小さな手を、強く握りしめていた。
「誰もが、思っただろう。大惨事だと。二人の運転手は、即死。それが、我々が知る、旧世界の常識だった」
「だが」と、石川は続けた。
その声には、確かな興奮の色が滲んでいた。
「結果は、違った。トレーラーの運転手は、残念ながら、その場で命を落とした。だが、ジョンは、生きていた。それどころか」
彼は、モニターに一枚の衝撃的な事故現場の写真を映し出した。
大破し、炎上するトレーラー。
そして、その横で。
フロント部分が、まるで紙細工のように無残にへし折れ、ひしゃげた4トントラック。
そして、その運転席から、何事もなかったかのように這い出てくる、一人の男の姿。
「**4トントラックが、人形のように凹みました。笑。だが、ジョンは無傷でした。**駆けつけた救急隊員が、彼の体を調べたが、擦り傷一つ、見つからなかったという。彼はただ、こう言ったそうだ。『ああ、驚いた。今の衝撃で、HPが半分も削れちまった』と」
その、あまりにも常識外れの結末。
それに、講義室が、どよめいた。
「え…?」「嘘だろ…?」「トラックが大破して、無傷…?」
「ええ、信じられないかもしれませんね」
石川は、頷いた。
「この事件は、当初、ギルドによって極秘扱いとされた。だが、この一件をきっかけに、日米の合同研究チームは、HPという力の、本当の意味を解明するための、大規模な実験を開始した。そして、彼らは一つの驚くべき結論に達したのです」
「**そうです。HPは、魔力を持たないものに対しては、高い防御力を発揮する事が発見されました。**それは、我々の体を覆う、目に見えない、しかし絶対的な『運動エネルギー吸収フィールド』とでも言うべきものだった。このフィールドは、剣や魔法といった『魔力』を帯びた攻撃に対しては、ほとんど効果を発揮しない。だが、銃弾、爆発、そして衝突といった、純粋な物理的な衝撃に対しては、そのダメージを、その身代わりとなって吸収する。それこそが、HPの、もう一つの顔だったのです」
「**これには、アメリカ政府と日本政府が驚愕しました。**物理学の、常識が覆された瞬間だったからです。そして、彼らは同時に、一つの途方もない可能性に気づいてしまった」
石川の声が、わずかに熱を帯びる。
「**そしてこれを、魔石で再現出来ないか?という発想になりました。**HPという、生物だけが持つ神秘的な力を、科学の力で、人工的に再現することはできないかと」
「**試行錯誤はあったそうですが、**F級、E級の魔石では、そのエネルギー出力が、あまりにも低すぎた。だが、B級の魔石。その、桁違いの魔力密度。それを使った時、ついに奇跡は起こった」
彼は、モニターに、一枚の設計図のような画像を映し出した。
それは、ギルド本部ビルに設置されている、あの巨大な結界発生装置の、初期のプロトタイプだった。
「**こうして、B級の魔石を利用して、防御結界が誕生しました。**そして、**魔石の利用方法の講義で説明した通り、**この防御結界は、**対物ライフルやミサイルでも破れない、**絶対的な防御性能を持っていたのです」
「そして、その応用として、**防音結界も誕生しました。**君たちが今、この静かな講義室で、私の声を聞くことができるのも、全てはこの技術のおかげなのだよ」
その、あまりにも壮大で、そしてどこまでも身近な、科学と魔法の融合の物語。
それに、生徒たちはただ、感嘆の声を上げるしかなかった。
「魔石の万能性能に、驚くアメリカ政府と日本政府ですが、早くも軍事利用を考えました」
石川の声のトーンが、再び変わった。
それは、歴史の光と、そしてその影を、等しく見つめてきた者の、静かな声だった。
「この防御性能を携帯した歩兵は、無敵では?」
「この防御性能を装備した戦車や航空機は、無敵では?」
「**答えは、その通り。脅威的な防御性能を誇ります。**実際に、各国の軍隊は、この魔石結界技術を、自国の兵器へと、次々と導入していった。戦場のルールは、完全に変わったのです」
彼は、そこで一度言葉を切ると、その静かな、しかしどこまでも重い声で、その日の授業を締めくくった。
「だが、その話の続きは、また来週にしよう。今日は、ここまでだ。午後は、好きにしろ。ただし」
彼の瞳が、厳しい、しかしどこまでも温かい光を宿した。
「――この世界の力は、常に、使い方を間違えれば、世界を滅ぼすほどの『刃』にもなる。そのことを、決して忘れるなよ、ひよっこども」




