第302話
その日の夜、世界の時間は止まった。
西新宿のタワーマンションで、一人のギャンブラーが退屈そうに欠伸をしていた、まさにその裏側で。
ニューヨークのウォール街で、トレーダーたちが次の取引の算段を立てていた、その裏側で。
ロンドンの、歴史あるギルドハウスで、老練な探索者たちが静かに茶を嗜んでいた、その裏側で。
全ての日常が、一つの絶対的な「宣告」の前に、その意味を失った。
北京、中国中央電視台の第一スタジオ。
その場所は、もはやただの放送局ではなかった。
世界の未来が決定される、運命の舞台。
その中央に、一人の男が立っていた。
人民解放軍の、深緑の軍服。その肩には、この国の最高位を示す黄金の星が、重々しく輝いている。
ギルド【青龍】のマスターにして、中国探索者管理委員会の頂点に立つ男、趙元帥。
彼の背後の巨大なホログラムモニターには、燃え盛る炎のような筆文字で、ただ五文字だけが映し出されていた。
『新時代宣言』
そのあまりにも力強く、そしてどこまでも挑戦的なスローガン。
それを、世界中の何十億という人々が、それぞれの言語の同時翻訳を通じて、固唾を飲んで見守っていた。
テレビ局のスタジオには、選ばれた国内外の報道陣が詰めかけている。だが、誰一人として、声を発する者はいなかった。ただ、これから放たれるであろう言葉の重みに、圧倒されているだけ。
趙将軍は、その無数のカメラのレンズの、さらに奥。
世界の、全ての民の瞳を、その老いた、しかし一切の揺らぎのない鷲のような瞳で、真っ直ぐに見つめ返した。
そして彼は、その重い口を、ゆっくりと開いた。
その声は、地を這うように低く、しかし、この星の隅々にまで届くかのように、力強かった。
「――同胞たちよ。そして、世界の探索者たちよ」
彼の、その第一声。
それが、この歴史的な演説の、始まりの合図だった。
「10年前。我々の世界は、変わった。ダンジョンという、未知なる理が、我々の日常を侵食し始めた。多くの国が、混乱し、恐怖した。だが、我々中華民族は、決して恐れはしなかった。我々はこの未知なる脅威を、国家の力の下に完全に管理し、そして規律と訓練によって、世界最強の探索者集団を育て上げてきた。その誇り高き歴史は、今も我々の胸に、確かに息づいている」
彼の言葉には、揺るぎない自信と、そして自らが築き上げてきた歴史への、深い誇りが滲んでいた。
スタジオの、中国人記者たちの背筋が、わずかに伸びる。
だが、次の瞬間。
彼の言葉は、その全ての誇りを、自らの手で打ち砕いた。
「――だが、時代は変わった」
彼の声のトーンが変わる。
それは、過去を懐かしむ老将軍のそれではない。
未来を見据える、冷徹な革命家のそれだった。
「エッセンスという、新たな理の出現。それは、我々に一つの厳然たる事実を突きつけた。個の英雄の時代は、終わりを告げたのだと。これからの戦いは、知恵と、情報と、そして何よりも、圧倒的な『数』の力が支配する、総力戦となる。我々が、誇り高き万里の長城の内側で、その変化から目を背けている間に。世界の潮流は、我々の想像を遥かに超える速度で、その姿を変えてしまった」
「我々は、もはや世界の先頭を走ってはいない。ただ、その巨大な奔流に、取り残されようとしているだけだ」
そのあまりにも衝撃的な、そしてどこまでも率直な自己批判。
それに、スタジオが、そして世界中が、どよめいた。
だが、趙将軍はそのどよめきを手で制すると、その瞳に、絶対的な覚悟の光を宿して、続けた。
彼の、本当の「宣言」は、ここからだった。
「だから、我々は決断した」
「本日、この瞬間をもって。これまで、我が国が堅持してきた全てのダンジョン管理体制を、完全に、そして未来永劫に、撤廃する!」
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
そして、次の瞬間。
世界が、揺れた。
「これまで、探索者の活動を人民解放軍の管理下に置いてきた、準軍事的な形式を、完全に廃止する!本日より、全ての中国国民に、自らの意志で、自由に探索者として活動する権利を、ここに認める!」
「そして!」と、彼の声が、さらに大きくなる。
「その、新たなる時代の開拓者たちを支援するため、我々はここに、国家規模の新たな基金の設立を、宣言する!」
彼の背後のモニターが切り替わる。
そこに映し出されたのは、天へと昇る一匹の黄金の龍の紋章と、そしてその下に記された、あまりにも力強い基金の名だった。
【龍の子基金】
「この基金は、日本の雷帝ファンドを、その規模においても、その理念においても、遥かに凌駕するものとなるだろう!我々は、全ての新人探索者に、生活の心配をすることなく、ただ自らの成長だけに集中できる、最高の環境を約束する!その初期資金として、全ての者に、破格の支援を行うことを、ここに誓う!」
「さらに!」
彼の宣言は、まだ終わらない。
「これまで、厳しく制限してきた、民間ギルドの設立も、本日より完全に自由化する!志ある者は、仲間を集め、自らの旗を掲げよ!この新たな時代の覇権を、その手で掴み取るがいい!」
その、あまりにも壮大で、そしてどこまでも希望に満ちた、革命の宣言。
それに、スタジオの報道陣は、もはや言葉を失い、ただその歴史的な瞬間のシャッターを、切り続けることしかできなかった。
そして、趙将軍は、その演説を、最後の、そして最も力強い一言で締めくくった。
その言葉こそが、この国の、そしてこの世界の、新たな時代の幕開けを告げる、鬨の声だった。
「――目覚めよ、我が同胞、一四億の龍たちよ!」
「天は、汝らの飛翔を、待っている!」
◇
その宣言が、世界中に配信された、その瞬間。
中国全土が、建国以来、経験したことのないほどの、巨大な熱狂の渦に、完全に飲み込まれた。
それは、もはやただのニュースではなかった。
一つの、巨大な牢獄の扉が、内側から破壊されたのだ。
これまで、国家という名の巨大なシステムの中で、その個性と欲望を抑えつけられてきた、一四億の魂。
その全てが、今、解き放たれた。
【SeekerNet - 中国掲示板】
その衝撃は、まず電子の海を襲った。
ギルドの公式発表と同時に、SeekerNetの中国掲示板へのアクセスが、爆発的に集中した。
トップページに表示された、同時接続者数を示すカウンター。
その数字が、もはやバグを疑うレベルで、凄まじい勢いで回転を始める。
100万、500万、1000万、5000万、1億…。
そして、ついにそのカウンターが、9桁の数字を表示しきれなくなった、その瞬間。
画面が、ぷつりと、消えた。
『ERROR 503: Service Unavailable』
その、あまりにも無慈悲な文字列。
中国全土の、全ての探索者と、その予備軍たちの熱狂。
それに、この国で最も強固なはずだった情報インフラが、耐えきれなかったのだ。
数時間にわたる、完全な沈黙。
それは、この国の古い時代が、確かに終わりを告げたことを、何よりも雄弁に物語っていた。
そして、その熱狂は、現実世界へと、津波のように溢れ出していく。
上海の、近代的なオフィスビル。
一人の若いプログラマーが、そのモニターに表示された緊急速報を見つめ、そして静かに、その席を立った。彼は、上司の制止の声も聞かず、ただ一言だけ告げた。
「――すみません。俺、龍になるんで」
深圳の、巨大な電子部品工場。
流れ作業を続けていた一人の女性工員が、その手を止めた。彼女は、隣で働く友人の顔を見て、最高の笑顔で言った。
「ねえ、私たちも行こうよ。天国へ」
四川省の、どこまでも広がる田園地帯。
トラクターを運転していた一人の老人が、そのエンジンを止めた。彼は、畑の向こうに見える、小さな、しかし確かな魔力を放つF級ダンジョンのゲートを、その深い皺の刻まれた瞳で見つめていた。そして、彼は隣で泥にまみれて遊んでいた孫の頭を、優しく撫でた。
「…時代が、来たらしい。俺たちの、な」
若者も、大人も、老人までもが。
その全ての民が、一つの夢を見た。
一攫千金の、夢を。
自らの手で、運命を切り拓く、英雄の夢を。
彼らは、それぞれの家を飛び出し、あるいは職場を放棄し、そして一つの場所へと、吸い寄せられるように集い始めた。
最寄りの、ダンジョンゲートへ。
北京、上海、広州、重慶…。
この国の、全ての都市。全ての村。
その全てで、同じ光景が繰り広げられていた。
ダンジョンゲートの前には、おびただしい数の人々が、まるで巡礼者のように殺到し、巨大な、そしてどこまでも混沌とした人の波を作り出していた。
人民解放軍が、必死にその整理にあたっている。だが、その数、あまりにも多すぎる。
もはや、それは統制不能だった。
その光景は、もはやただのゴールドラッシュではない。
眠っていた一四億の龍が、天からの号令に応え、一斉に天へと舞い上がったかのような、壮大なスペクタクルだった。
世界のルールが、再び、そして今度こそ決定的に、書き換えられたのだ。




