第301話
北京、中国探索者管理委員会の本部ビル。その最上階。
窓一つない、完全な密室。その空気は、前話の焦燥から一転、激しい議論の嵐が吹き荒れ、沸騰したかのように熱を帯びていた。
円卓を囲む将軍たちの顔は、一様に紅潮し、その瞳にはそれぞれの信じる「正義」と、そして国の未来を憂う、深い葛藤の色が浮かんでいた。
その嵐の中心にいたのは、趙元帥だった。
彼が、その重い口から放った一言。
「――ダンジョンの、完全民間解禁を提案する」
そのあまりにも大胆で、そしてどこまでも過激な提案は、この静まり返った部屋に、一つの巨大な爆弾を投下したかのようだった。
数秒間の、信じられないという沈黙。
そして、次の瞬間。
会議室は、騒然となった。
「正気か、趙元帥!」
最初に、その沈黙を破ったのは、人民解放軍の最長老、王将軍だった。その顔には深い皺が刻まれ、その瞳には、かつてこの国を、そして軍を率いてきた者だけが持つことのできる、揺るぎない誇りと、そして変化を恐れる頑固な光が宿っていた。
彼は、その巨大な体で椅子を軋ませながら、立ち上がった。そして、その指を趙元帥へと、まるで断罪するかのように突きつけた。
「馬鹿げている!」
王将軍の、地響きのような声が、部屋全体を震わせた。
「民草に、神々の武器を与えるというのか!?お前は、この国の歴史を忘れたか!我々が、どれほどの血を流して、この秩序と安定を築き上げてきたのかを!」
彼の言葉には、確かな熱がこもっていた。それは、ただの保守的な意見ではない。この国を、心の底から愛する者だけが持つことのできる、魂の叫びだった。
「考えてもみろ!何の訓練も受けていない、ただの農民や、工員が、だ。ダンジョンで、偶然にもA級の武器を拾ったら、どうなる?その力を、自分の欲望のためだけに使ったら、どうなる?街には、強盗や、殺人者が溢れかえるぞ!我々が、10年かけて築き上げてきたこの平和な社会は、一夜にして無法地帯と化す!」
「それに」と、彼は続けた。その瞳には、明確な嫌悪の色が浮かんでいた。
「西側諸国のような、あの醜い個人主義と拝金主義が、この国に蔓延することを、許すというのか!誰もが、己の利益のためだけに戦い、隣人を蹴落とし、そしてギルドや国家への忠誠を忘れる。そんな、腐敗した社会を、お前は望むというのか!」
「我々の強さは、規律と、統一にある!人民解放軍という、絶対的な揺るぎない壁の内側で、選ばれたエリートだけを育成する。それこそが、この国を、世界の頂点へと導いてきた、唯一の道だったはずだ!」
その、あまりにも力強く、そしてどこまでも説得力のある演説。
それに、円卓を囲む他の長老たちもまた、深く、そして静かに頷いていた。
部屋の空気は、完全に保守派へと傾いていた。
誰もが、思った。
趙元帥の、このあまりにも急進的すぎる革命は、ここで潰えるのだと。
だが、その絶望的な空気の中で。
趙元帥は、ただ静かに、その老将軍の瞳を、真っ直ぐに見つめ返していた。
彼の瞳には、一切の揺らぎはなかった。
「――長老方」
趙元帥の、その静かな声が、嵐のような議論を、一瞬で鎮めた。
「時代は、変わったのです」
彼は、そう言うと、隣に座る若いアナリスト、林へと、目配せをした。
林は、緊張した面持ちで立ち上がると、その手元のタブレットを操作した。
円卓の中央に浮かぶホログラムモニターに、無数のデータとグラフが、洪水のように映し出される。
「…これが、この一ヶ月の、世界の現実です」
林の声が、震えていた。それは、恐怖からではない。自らが目の当たりにしている、歴史の転換点への、純粋な戦慄からだった。
「ご覧ください。これは、日本と北米の、SeekerNetの掲示板の、リアルタイムのログです。翻訳は、完了しています」
モニターに、見慣れない、しかしどこまでも活気に満ちた、異国の掲示板の光景が映し出される。そこには、日本の若者たちが、あるいはアメリカの無名の探索者たちが、エッセンスという新たな「おもちゃ」を前にして、子供のようにはしゃぎ、そしてその可能性について、熱狂的に語り合っていた。
『Tier4できたぞ!Tier1が27個必要だった!』
『マジかよ!じゃあ、俺もやってみる!』
『このMODと、このMODを組み合わせたら、最強じゃね!?』
その、あまりにも無邪気で、そしてどこまでも創造的な、熱狂の渦。
それに、王将軍が、吐き捨てるように言った。
「…ふん。子供の、遊びではないか」
「その通りです」
林は、きっぱりと頷いた。
「ですが、長老。この『遊び』の中から、すでに、我々の常識を遥かに超える『怪物』が、生まれ始めています」
彼は、モニターの映像を切り替える。
次に表示されたのは、一枚の、神がかった性能を持つレア等級の兜の画像だった。
【ハクスラ廃人】と名乗る、日本の名もなきクラフターが、エッセンス一発で作り出したという、あの奇跡の産物。
「…なんだ、これは…」
王将軍の口から、呻き声が漏れた。
「これほどの性能を持つ兜。我が国の最高の職人ですら、生み出すのに数ヶ月はかかる…。それを、たった一日で…?」
「はい」
林は、頷いた。
「そして、これは、ただの始まりに過ぎません」
彼の声に、熱がこもる。
「我々が、国内の秩序と安定を恐れている、まさにその間に。日本やアメリカの子供たちは、我々のA級探索者ですら手にしたことのないような装備を、その遊びの延長線上で、次々と、自らの手で作り出しているのです!」
その、あまりにも衝撃的な、そしてどこまでも無慈悲な事実。
それに、会議室がどよめいた。
趙元帥が、その声を引き継いだ。
彼の声には、揺るぎない確信が宿っていた。
「長老方。我々が守ってきた壁は、もはや我々を、守ってはくれない。ただ、我々を世界の潮流から孤立させるだけの、牢獄と化したのです」
「ならば、どうするか。答えは、一つしかありません」
彼の瞳が、燃え盛る炎のように、輝いた。
「――この国の14億の民の、『渇望』という名のエネルギーを、解放するのです!」
「金が欲しい。強くなりたい。認められたい。その、あまりにも人間的で、そしてどこまでも純粋な欲望。それこそが、この新しい時代における、最大の武器となる!」
「我々がやるべきは、その奔流を堰き止めることではない。その流れを、正しく導き、そして国家という一つの巨大な『炉』へと注ぎ込むこと。それこそが、我々が世界の頂点に立つための、唯一の、そして最後の道なのです!」
その、あまりにも力強く、そしてどこまでも壮大なビジョン。
それに、会議室の空気は、再び二つに割れた。
保守派と、改革派。
その議論は、平行線をたどった。
何時間、そうしていただろうか。
時計の針は、すでに深夜を回っていた。
会議室には、疲労と、そして解決策の見えない焦燥感が、重く漂っていた。
その、息が詰まるような膠着状態。
それを、破ったのは、一つの、あまりにも唐突な、そしてどこまでも無慈悲な、速報だった。
円卓の中央のホログラムモニターに、赤いアラートが点滅する。
ギルド【青龍】の、最前線で戦う諜報部隊からの、緊急の報告だった。
林が、その報告を、震える声で読み上げた。
「――オーディンが、動きました」
「先ほど、彼らは、エッセンスクラフトによって生み出されたと見られる、新たな装備を使い…」
彼は、そこで一度言葉を詰まらせた。
そして、その絶望的な事実を告げた。
「――【天測の神域】の攻略タイムを、さらに、更新した、とのことです…!」
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
会議室の、全ての時間が止まったかのような錯覚。
王将軍が、その震える手で、モニターに表示された新たな記録を、指し示した。
その数字は、彼らのこれまでの全ての議論を、無意味なものへと変えるには、十分すぎるほどの、威力を持っていた。
彼の、その老いた、しかし誇り高き瞳から、光が消えていく。
彼は、ゆっくりと、そして力なく、その玉座のような椅子へと、その身を沈めた。
彼の、沈黙。
それが、この長い、長い戦争の、終わりを告げていた。
趙元帥は、その光景を、ただ静かに見つめていた。
彼の瞳には、勝利の喜びはない。
ただ、これから始まる、より大きな、そしてより過酷な戦いへの、静かな覚悟だけが宿っていた。
最高指導部への、最終的な裁定を仰ぐための通信回線が、開かれる。
中国は、その日、その瞬間。
その歴史的な転換を、決断した。
万里の長城は、今、確かに内側から崩れ始めたのだ。




