第300話
北京、中国探索者管理委員会の本部ビル。その最上階に、その部屋はあった。
窓一つない、完全な密室。壁も、床も、天井も、全てが光を吸収するマットブラックの特殊合金で覆われている。部屋の中央に鎮座する巨大な円卓もまた、同じ素材で作られており、その表面には、世界の主要なダンジョンゲートのリアルタイムの状況が、青白い光の地球儀となって、静かに、しかし絶え間なく回転していた。
空気は、ひんやりと、そしてどこまでも張り詰めていた。高性能な空気清浄機が、人間の感情という名の不純物すらも濾過してしまうかのように、無機質な沈黙を保っている。
この部屋は、この国の「ダンジョン」に関わる全ての最高意思が決定される、聖域であり、そして戦場だった。
その円卓を囲んでいるのは、この国の未来をその両肩に背負う、数人の男女。
だが、その表情は一様に硬く、そしてその瞳の奥には、隠しきれない焦燥と、わずかな屈辱の色が浮かんでいた。
議長席に座るのは、ギルド【青龍】のマスターにして、人民解放軍の将軍でもある、趙元帥。その鍛え上げられた巨躯は、軍服の上からでも分かるほどに分厚く、その顔に刻まれた深い皺は、彼が潜り抜けてきた数多の修羅場を物語っていた。
彼は、ただ無言で、円卓の中央に浮かぶホログラムモニターに映し出された、一つの光景を、苦々しい表情で見つめていた。
モニターに映し出されているのは、SeekerNetの国際マーケットの、リアルタイムの取引ログだった。
黄金の枠で囲まれ、特別な輝きを放つ一つのレア等級のブーツ。
日本のギルド【月詠】が出品したその逸品は、今この瞬間も、億単位の金で、世界の富豪たちの間で熾烈な入札合戦が繰り広げられている。
そのブーツに付与されたMOD(特性)…『移動速度+30%』『スキルのクールダウン回復速度+12%』。
それは、数日前に日本のA級上位ダンジョン【天測の神域】のタイムアタック戦争を終結させた、あの北欧のギルド【オーディン】が落札したブーツと、ほぼ同等の性能を持っていた。
そして、そのブーツが、エッセンスによって生み出されたものであることは、もはや公然の秘密だった。
「…また、日本か」
趙将軍の口から、地を這うような低い声が漏れた。
その声には、嫉妬と、そしてそれ以上に大きな危機感が滲んでいた。
彼の隣に座る、若いアナリストが、緊張した面持ちで報告を始める。彼の名は、林。この委員会に最年少で抜擢された、天才的なデータ分析官だった。
「はい、将軍。これが、この一週間で、日本のマーケットで取引された、エッセンス由来のA級装備のリストです」
林が手元のタブレットを操作すると、モニターの映像が切り替わる。
そこに表示されたのは、おびただしい数の、神がかった性能を持つ装備品の羅列だった。
そのどれもが、中国のマーケットでは、年に一度お目にかかれるかどうかというレベルの、国宝級の逸品ばかり。
だが、日本では、それがまるでコンビニで弁当を買うかのように、日常的に取引されている。
「将軍。もはや、情報の伝達速度と、市場の流動性で、我々は完全に後れを取っています」
林の声が、震えていた。それは、恐怖からではない。自国が直面している、あまりにも巨大な「現実」を前にした、純粋な戦慄からだった。
「日本のF級ダンジョンでは、一日で数万個の低位エッセンスが産出され、それが即座にSeekerNetのマーケットで取引され、合成され、そして、腕利きのクラフターたちの元へと、ピラミッドのように集約されていく。そのサイクルは、あまりにも速く、そしてあまりにも効率的です」
「それに比べて、我が国は…」
彼は、言葉を詰まらせた。
モニターに、もう一つのグラフが表示される。
それは、中国国内のエッセンスの流通量を示すグラフだった。
日本のそれが、異常なまでの角度で右肩上がりに伸びているのに対し、中国のそれは、どこまでも緩やかで、そして停滞した、水平線に近い線を描いているだけだった。
「我が国の、準軍事的な管理体制では、このスピードに、もはや対応できません」
林は、その絶望的な事実を、告げた。
趙将軍は、その報告を、ただ黙って聞いていた。
彼の脳裏には、この10年間の歴史が、走馬灯のように駆け巡っていた。
ダンジョンが出現した、あの日。
世界が、混沌と恐怖に包まれる中、中国は、最も早く、そして最も力強く動いた。
彼らは、この未知なる脅威を、国家の管理下に置くことを、即座に決断したのだ。
全てのダンジョンゲートは、人民解放軍によって封鎖された。
そして、探索者として活動を希望する者は、全て軍への所属を義務付けられた。
それは、あまりにも中央集権的で、そしてどこまでも管理主義的な体制だった。
だが、その体制は、確かに「結果」を出した。
規律と、訓練。
それによって鍛え上げられた中国の探索者たちは、個々の戦闘能力において、他国の追随を許さなかった。
趙将軍が率いるギルド【青龍】もまた、その体制の中から生まれた、最強の矛だった。
彼らは、世界のどのギルドよりも早く、B級、A級の壁を突破し、常に世界の最前線を走り続けてきた。
彼は、信じていた。
この、秩序と規律こそが、中国の強さの源泉なのだと。
日本やアメリカの、あの無秩序で、混沌とした自由市場を、彼は心のどこかで見下していた。
烏合の衆だと。
だが、エッセンスの出現が、その全ての前提を、根底から覆した。
クラフトという、新たなテーブル。
そこで問われるのは、個の戦闘能力ではない。
情報の速度、市場の流動性、そして何よりも、無数のプレイヤーが生み出す、予測不可能な「独創性」。
その全てが、今の中国には、決定的に欠けていた。
「…我々は、あまりにも長く、眠りすぎていたのかもしれんな」
趙将軍は、自嘲気味に呟いた。
「秩序を守るという名目で、我々は自らの手で、最も大きな可能性の芽を、摘み取ってしまっていた」
「自由な発想と、そして何よりも、あの圧倒的な『数』の力をな」
そうだ。
中国には、14億の民がいる。
その全てが、潜在的な「探索者」であり、「クラフター」であり、そして「イノベーター」なのだ。
その、あまりにも巨大なエネルギーを、彼らは自らの手で、封じ込めてしまっていた。
万里の長城。
それは、外敵から国を守るための、偉大な壁だった。
だが、今の彼らが築き上げた壁は、自らを内側から蝕む、ただの牢獄でしかなかった。
その彼の、魂の告白。
それに、円卓を囲む他の将軍たちもまた、深く、そして重く頷いていた。
彼らもまた、同じ結論に達していたのだ。
このままでは、ダメだと。
「…将軍」
林が、意を決したように口を開いた。
「ご決断を」
その、若きアナリストの、真っ直ぐな瞳。
それに、趙将軍は静かに頷いた。
彼の、その老いた、しかしどこまでも力強い瞳に、再び、あの黎明期の頃のような、革命の炎が宿った。
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、その部屋にいる全ての人間へと、そしてこの国の全ての未来へと、宣言した。
その声は、一つの時代の終わりと、そして新たな時代の幕開けを告げる、龍の咆哮だった。
「――このままでは、我々は世界の潮流から、取り残される」
「次の10年、いや5年で、ダンジョン経済の覇権を、完全に失うことになるだろう」
彼は、そこで一度言葉を切った。
そして彼は、その全ての覚悟を、その最後の一言に乗せた。
「――壁を、壊す時が来た」
その日、北京の夜は、いつもよりも少しだけ、長く、そして静かだった。
だが、その静寂の水面下で。
一つの巨大な龍が、その長い眠りから、確かに目覚めようとしていた。
世界の、本当の戦いは、まだ始まってもいなかったのだ。




