第31話
神崎隼人のE級ダンジョン【棄てられた砦】の周回配信は、彼と彼の熱狂的な一万人の観客たちにとってもはや、一つの確立された「日常」となりつつあった。
その日も彼は、いつものように砦の薄暗く、カビ臭い石造りの回廊を進んでいた。
彼の耳にはワイヤレスイヤホンが装着され、気怠いローファイ・ヒップホップの心地よいビートが流れている。
彼の全身は、もはやあの初々しい新人探索者のそれではない。
頭には、歴戦の傷跡が刻まれた【傷だらけの鉄兜】。首には、かの有名なユニーク【清純の元素】。そしてその指には、【元素の円環】と、新たに彼の相棒となった黒銀の指輪【混沌の血脈】が、静かな、しかし確かな魔力のオーラを放っていた。
「グルアアアッ!」
前方の十字路から、武装した【ゴブリン兵】の一隊が盾を構え、現れる。
だが今の隼人にとって、それはもはや障害ですらなかった。
彼は音楽に軽く首を揺らしながら、まるで通勤電車に乗り込むかのような億劫な、しかし手慣れた足取りで、その群れへと歩み寄っていく。
『あー、はいはい。今日の一人目な』
彼は、脳内でスキルを起動した。
【通常技】無限斬撃。
彼の無銘の長剣が、青白い魔力の光を纏い、残像を描く。
ゴッ、ガギンッ、ザシュッ!
盾を弾き、体勢を崩し、そのがら空きになった胴体へと斬撃を叩き込む。そして、傷口から溢れ出した青い魔素を吸収し、自らのMPへと還元していく。
一連の、流れるような動き。
それはもはや、戦闘というより、精密な機械が行う完璧に効率化された「作業」だった。
数秒後には、ゴブリン兵の一隊は光の粒子となり、後にはいくつかのガラクタと、数個の魔石だけが残されていた。
視聴者A: 今日のJOKERニキも、キレッキレだなw
視聴者B: もうゴブリンが、ただのMP回復材にしか見えねえw
視聴者C: この安定感。これがE級ダンジョンだなんて、信じられん…。
隼人は、ドロップしたアイテムを手早く回収すると、また次の獲物を求めて歩き出す。
これが、彼の金策ルーティン。
ボスであったホブゴブリンと巨大蜘蛛を討伐してしまった今、この砦にはもはや、彼を脅かすほどの敵は存在しない。
ただひたすらに雑魚を狩り、魔石を集め、そしてあの一日に一度か二度だけ訪れる「奇跡の瞬間」…クラフト用オーブのドロップを待つ。
その、繰り返し。
彼はその日も、数時間、砦の中を周回していた。
戦闘は常に、彼の一方的な蹂躙で終わる。
時折、ゴブリン弓兵の矢が、彼の体を掠めることもあった。あるいは、物陰に隠れていたゴブリン兵の不意打ちを、食らうこともあった。
彼のHPバーは、わずかに削れる。
だが、その赤いゲージは、次の瞬間にはまるで何事もなかったかのように、独りでに回復していくのだ。
彼の指で、黒銀に輝くユニーク指輪、【混沌の血脈】。
それが持つ**『毎秒15HP自動回復』**の効果。
この地味ながらも極めて強力な再生能力が、彼の戦闘の安定性を劇的に向上させていた。
彼はこの数日間の周回で、一度もベルトに差した赤い【ライフフラスコ】の栓を抜いてはいなかった。
そして彼は、その事実にある一つの「疑問」と「可能性」を見出した。
彼は、一体のゴブリンを斬り捨て、その光の粒子が消えていくのを見届けながら、ふと足を止めた。
そして、自らのベルトに目をやる。
そこには、彼がなけなしの金で揃えた、5本のフラスコが並んでいた。
ライフフラスコ、二本。
マナフラスコ、一本。
水銀のフラスコ、一本。
解呪のフラスコ、一本。
完璧な構成。セオリー通りの、鉄壁の布陣。
そう、思っていた。
だが、本当にそうだろうか?
(…このライフフラスコ)
彼は、思う。
(完全に、一本腐ってるな…)
二本あるうちの一本はおろか、二本とも一度も使っていない。
それは、緊急時のための「保険」だ。そう、自分に言い聞かせてきた。
だがギャンブルにおいて、使わないカードをいつまでも手元に置いておくのは、ただの愚策だ。
そのカードを捨て、新たに山札から一枚引き直した方が、勝率が上がる可能性があるのならば。
迷う必要は、ない。
隼人は、砦の比較的安全な小部屋へと入ると、そこで一息つくことにした。
そして彼は、ARカメラの向こう側にいる、彼の最も信頼できる軍師たちへと語りかけた。
「さて、お前ら、ちょっと相談なんだが」
その唐突な問いかけに、これまで彼の作業風景をただぼんやりと眺めていただけのコメント欄が、一気に活気づいた。
視聴者D: お、どうしたJOKERさん!
視聴者E: 相談!?俺たちに!?
視聴者F: やったぜ!視聴者参加型タイム、きた!
隼人はその熱狂を楽しむように、ゆっくりと言葉を続けた。
「見ての通り、この指輪のリジェネが優秀すぎて、ライフフラスコをほとんど使わねえ」
彼は、自らのベルトを指し示す。
「今、ライフ2本、マナ1本、水銀、解呪で5本積んでるが…このライフフラスコを一本リストラして、別のユーティリティフラスコに変えた方が、効率いいんじゃねえかと思ってな」
「どう思う?」
その問いかけは、彼の数万人の観客たちのゲーマーとしての魂に、火をつけた。
コメント欄は、即座に彼の提案に対する肯定と賞賛の声で、埋め尽くされた。
ハクスラ廃人: 賢明な判断だ、JOKER!腐らせてるスロットほど、無駄なものはないからな!ビルドは、常に最適化し続けるもんだ!
元ギルドマン@戦士一筋: うむ。今のお前の防御力とHPリジェネなら、ライフフラスコは一本でも十分だろう。事故った時の保険として、一本あればいい。空いたスロットは、火力か、さらなる機動力に振るべきだ。
ベテランシーカ―: 新しいフラスコ、買うといいですよ!E級のドロップ素材を売れば、すぐに資金も貯まりますし!それに、どんなフラスコを選ぶかで、JOKERさんの新しい戦い方を見られるのも楽しみです!
雫LOVE: 水瀬さんもきっと、その判断を褒めてくれるはず!
その、圧倒的な肯定の嵐。
やはり俺の考えは、間違っていなかったか。
隼人は、その観客たちの後押しに、静かに頷いた。
「だよな。やっぱ、そう思うか」
彼はそう言うと、自らのインベントリからライフフラスコを一本取り出し、それを地面に置いた。
「よし、決めた。ライフフラスコは、一本リストラだ」
その彼の潔い決断に、コメント欄が沸き立つ。
だが、本当の議題はここからだった。
隼人は、空いたベルトのスロットを指さしながら、ニヤリと笑った。
その顔は、最高のギャンブルを思いついた、子供の顔だった。
「で、問題は次だ」
「空いたこのスロットに、何を入れるべきか」
「お前らのオススメを、聞かせろ」
その問いかけを待っていましたとばかりに、コメント欄は再び凄まじい速度で流れ始めた。
それはもはや、ただのチャットではない。
一人の天才プレイヤーの未来を左右する、世界で最も熱いブレインストーミングの場だった。
『やっぱり**【御影石のフラスコ】**だろ!物理ダメージカットをさらに重ねて、完全な要塞になれ!』
『いや、ここは火力だ!【硫黄のフラスコ】で聖なる地面を作って、ダメージを底上げしろ!』
『【ダイヤモンドのフラスコ】で、クリティカル100%のロマンを見せてくれ!』
『E級のボスは、カオス属性の攻撃が痛いぞ!【アメジストのフラスコ】で、カオス耐性を積むべきだ!』
『ここはあえて、【賢者のフラスコ】**で敵の耐性を下げるデバフ系も、面白い!』
無数の提案。
無数のビルドの可能性。
隼人はその情報の洪水を、その驚異的な記憶力で全て脳内にインプットしていく。
どのフラスコが、今の自分に最も合っているのか。
どのフラスコが、最も高いリターンをもたらしてくれるのか。
彼の頭の中は、新たな、そして最高のパズルのピースを前にして、フル回転していた。
彼は、その熱狂のコメント欄を満足げに眺めながら、今日の配信を締めくくることにした。
「…面白い意見が、たくさん出てきたな。参考になったぜ」
「どのフラスコを選ぶかは、俺がゆっくり考えて決めておく」
「次の配信までには、新しいオモチャを用意しておくから、楽しみにしてろよ」
彼はそう言い残すと、配信を終了した。
静寂が戻った、砦の一室。
彼は、一人考える。
新たな、フラスコ。
それは、彼の力をさらに一段上へと引き上げてくれる、新たな翼。
彼は残された軍資金を握りしめ、再びあの混沌の市場へと向かうことを決意した。




