第295話
その日の東京の空は、まるで世界の理そのものが変質する前触れのように、重く、そして静かな灰色の雲に覆われていた。梅雨明け前のじっとりとした湿気が、アスファルトの匂いを濃くしている。
そのありふれた日常の風景の裏側で、この世界のもう一つの現実であるダンジョンは、静かに、そして同時に、その様相を一変させようとしていた。
◇
【F級ダンジョン:ゴブリンの洞窟】
「…はぁ。月曜の朝よりはマシか」
田中健二、34歳。中小企業の営業課に勤める、ごく普通のサラリーマン。そして、一ヶ月前に施行された政府の新制度『プラス・アルファ・フロンティア制度』に乗り、週末だけ剣を握る兼業冒険者の一人だった。
今日は、溜まりに溜まった有給休暇を半ば無理やり消化するため、平日の朝からこの薄暗い洞窟にいた。彼の目的は、一攫千金ではない。税金控除と、そして何よりも、日々の満員電車と理不尽な上司から解放されるための、ささやかな「現実逃避」だった。
彼の耳に装着されたワイヤレスイヤホンからは、流行りの経済ニュース解説チャンネルが流れている。「…このように、ギルドを中心とした魔石経済圏の拡大は、今後ますます加速していくものと見られ…」その無機質なアナウンサーの声をBGMに、彼は、もはや見慣れた緑色の醜い生命体を、手にした安物の長剣で、ただ機械的に処理していた。
ゴブリン。
その一体一体が、彼のストレスを、わずかに、しかし確実に解消していく。魔石がドロップすれば、今日の昼飯が少しだけ豪華になる。ただ、それだけのこと。
彼が一体のゴブリンを斬り捨て、ドロップした紫色の小さな魔石を拾い上げようとした、その時だった。
「…ん?」
彼は、思わず足を止めた。
洞窟の次の曲がり角、その奥から、ぼんやりとした青白い光が漏れている。
なんだ?
エリートモンスターか?
彼は、息を殺し、慎重にその角へと近づいていった。そして、その光景に、彼は言葉を失った。
そこにいたのは、一体のゴブリンだった。
だが、そのゴブリンは動かない。まるで、時が止まったかのように。
その全身が、半透明の、そして内側から淡い光を放つ、美しい青白い水晶のような物質に、完全に封印されていたのだ。水晶の表面には、彼が読めない、古代のルーン文字のようなものが明滅している。
それは、あまりにも異様で、そしてどこか神々しい光景だった。
「…なんだ、これ…?」
彼の口から、素直な困惑の声が漏れた。
新種の罠か?
あるいは、特殊なエリートモンスターの一種か?
彼は、ARコンタクトレンズの視界の隅に表示される情報を確認する。だが、そこにはただ『ゴブリン』と表示されるだけで、何の情報も追加されてはいなかった。
彼は、数分間、その場で動けなかった。
やがて、彼のサラリーマンとしての、そして日本人としての本能が、一つの結論を導き出した。
(…よく分からんが、とりあえず写真撮って報告しとくか)
彼は、ARコンタクトレンズの録画機能を起動させ、その異常な光景をあらゆる角度から撮影した。
そして、彼は意を決した。
(殴ってみるか…)
彼は長剣を構え、その氷漬けのゴブリンへと、おそるおそる斬りかかった。
ガキンッ!という、硬い手応え。
水晶が、砕け散る。
中から解放されたゴブリンは、いつもより少しだけ動きが俊敏で、そして硬いようだった。
だが、所詮はF級の雑魚。
彼は、数回の斬り合いの末、そのゴブリンを光の粒子へと変えた。
そして、そのドロップ品を見て、彼は再び首を傾げた。
いつもの魔石と、汚れた布切れ。
そして、もう一つ。
先ほどまでゴブリンを封印していた、あの青白い水晶の欠片のような、八角形のアイテムがそこに落ちていたのだ。
彼は、それを拾い上げた。
ひんやりとした、滑らかな感触。
彼がそれを視界に入れたその瞬間、彼のARレンズが、その情報を自動的に表示した。
囁きのエッセンス(憎悪)
スタック数: 1 / 9
Essence Tier: 1
ノーマルアイテムを、保証されたモッドを1個含むレアアイテムにアップグレードする。
エッセンスを使用して付加されるモッドは、レベル35以下の物に限定されている。
矢筒, 兜, 鎧, 靴, 手袋, ベルト, 盾: 冷気耐性 +(6–11)%
弓, スタッフ, 両手剣, 両手斧, 両手メイス: (2–3)から(6–7)の冷気ダメージを追加する
ワンド, 鉤爪, 短剣, 片手剣, 刺突剣, 片手斧, 片手メイス, セプター: (1–2)から(3–4)の冷気ダメージを追加する
アミュレット, 指輪: 冷気ダメージが(6–10)%増加する
フレーバーテキスト:
獣を狩り、その牙を抜く。
竜を屠り、その心臓を抉る。
だが、真の職人は。
その魂そのものを結晶として剥ぎ取り、自らの武具へと宿らせる。
(…エッセンス?)
彼は、その聞き慣れない単語と、あまりにも詳細な説明文に眉をひそめた。
(ノーマルをレアにアップグレード…?MOD保証…?)
彼は、クラフトに詳しいわけではない。だが、その言葉が持つとてつもない価値だけは、なんとなく理解できた。
(…なんだこれ。まあいいや。とりあえず、これも報告だな)
彼は、そのアイテムのスクリーンショットを撮ると、慣れた手つきで、日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』のF級ダンジョン総合スレへと、その驚きを投下した。
「なんだこれ!?」
そのあまりにもシンプルなタイトルのスレッドが立った瞬間、世界の歯車は、大きく、そして確かな音を立てて回り始めた。
◇
【SeekerNet 掲示板 - 総合雑談スレ Part. 1528】
512: 名無しの週末冒険者
なんだこれ!?
[画像1:氷漬けのゴブリン]
[画像2:【囁きのエッセンス(憎悪)】の詳細な性能]
今、ゴブリンの洞窟にいるんですが、なんか変なモンスターとアイテム拾いました。これ、なんですかね?
513: 名無しのF級ヒーラー
512 乙。
なんだこれ?コラ画像か?
綺麗だな。
514: 名無しのF級戦士
512 新しいエリートモンスターじゃね?
最近、よく見るようになったよな。
倒したら、なんかいいもん落すのか?
515: 名無しの週末冒険者
514 いや、ドロップは普通の魔石と、この謎のアイテムだけでした。
ARレンズにはこう表示されてるんですけど、意味がよく分からなくて…。
そのあまりにも平和なやり取り。それが、唐突に断ち切られた。
その書き込みから、わずか数分後。スレッドの空気が一変した。
528: 名無しのD級スケルトンナイト
おい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
釣りじゃねえぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
俺も今、D級の墓地で全く同じのに遭遇した!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
骸骨兵が、氷漬けになってやがる!!!!!!!!!!!!!!!
[画像:氷漬けの骸骨兵]
531: 名無しのC級盗賊
待て。
待て待て待て待て待て待て。
C級の【嘆きの聖歌隊】にも、出てる。
ガーゴイルが、カッチカチに凍ってる。
これ、マジで何が起きてるんだ…?
そのあまりにも異常な事態。
F級、D級、C級。ランクを問わず、全てのダンジョンで同じ現象が同時に発生している。その事実に、スレッドは爆発した。
『は!?』
『どういうことだ!?』
『新種のダンジョンイベントか!?』
その混乱の渦の中で、一つの冷静な書き込みが投下された。
555: 名無しのB級(情報分析官)
落ち着け、お前ら。パニックになるな。
だが、これは確かに異常事態だ。
今、海外のフォーラムも確認してきたが、アメリカでも、ヨーロッパでも、中国でも、全く同じ現象が、ほぼ同時に報告されている。
これは、日本だけの問題ではない。
世界規模の何かが、始まろうとしている。
そのあまりにも重い言葉に、スレッドは一瞬だけ静まり返った。
だが、その沈黙を破ったのは、一人のあまりにも空気を読まない、しかしこの時代の寵児となるべき男の書き込みだった。
588: 名無しのクラフトマニア
…いや、お前ら。
騒ぐのは、そこじゃねえだろ。
もっと、大事なことがある。
512の画像を、見ろ。
その効果テキストを。
『ノーマルアイテムを、保証されたモッドを1個含むレアアイテムにアップグレードする』
…分かるか?この一行が持つ、本当の意味が。
そのあまりにも核心を突いた一言に、スレッドの全ての住人が息を呑んだ。
そして、彼は、その世界の理を再定義する、神の啓示を投下した。
589: 名無しのクラフトマニア
――クラフトに、確定演出が来たんだよ。
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
そして、次の瞬間、スレッドは、これまでのどの熱狂とも比較にならない、本当の「爆発」を起こした。
『は!?』
『確定でレア化!?』
『しかもMOD保証!?』
『なんだよこれ!なんだよこれ!クラフトの革命じゃねえか!』
その熱狂のまさにその中心で、一つの新たな、そして最も重要な情報がもたらされた。
615: 名無しのB級タンク
…おい、お前ら。
気づいたか?
この現象、F級、E級、D級、C級では、めちゃくちゃ報告が上がってる。
だが、俺たちB級以上では、ほとんど見かけない。
A級の連中も、誰も見てないって言ってる。
これ、もしかして…。
621: 名無しのビルド考察家
615 なるほどな。
低ランクほど、出現率が高いのか。
面白い。実に、面白い仕様だ。
そのあまりにも重要な発見に、世界の歯車が、大きく、そして確かな音を立てて回り始めた。
これまで見向きもされなかったF級、E級ダンジョン。その価値が、今、一夜にして爆発的に高騰したのだ。
SeekerNetの熱狂は、A級探索者たちの世界にも届いていた。彼らの多くは、当初、低ランクダンジョンの騒ぎを、子供たちのお祭りのように冷ややかに見つめていた。だが、「確定MOD」という言葉の本当の価値を理解した瞬間、その瞳の色を変えた。「金になる」。その単純な事実が、プライドの高い彼らを突き動かすには十分だった。各地のA級ギルドでは緊急の作戦会議が開かれ、部隊は次々とA級ダンジョン攻略を中断。目的地は、ただ一つ。ゴブリンの洞窟だった。
◇
【F級ダンジョン:ゴブリンの洞窟 - 入り口】
その日の午後。
その場所は、もはやただのダンジョンではなかった。
一つの巨大な「祭り」の会場と化していた。
ゲートの前には、おびただしい数の探索者たちが殺到している。
F級のひよっこたちだけではない。
D級、C級、そして中にはB級の上位ランカーですら、その姿があった。
彼らは皆、一つの目的のために、この場所に集結したのだ。
新たな富の源泉、エッセンスを求めて。
テレビ局のヘリコプターが上空を旋回し、その異常な光景を日本中へと生中継している。
情報屋たちが、「最新のエッセンス出現スポット情報!一部1万円!」と、声を張り上げている。
そのあまりにも混沌とした、そしてどこまでも欲望に満ちた光景。
その人の波をかき分けるようにして、一台の黒く武骨な、装甲が施されたギルド所属を示す紋章が入った大型の特殊車両が、その威圧的なクラクションを鳴らしながら、強引に道を開けていく。
そのあまりにも場違いなA級トップランカーの登場に、周りの探索者たちがどよめいた。
「おい、見ろよ…あの車…!」
「マジかよ!なんで、A級の連中がこんな場所に…!」
その声援とも嫉妬ともつかない視線を、彼らは意にも介さない。ただ、その先にある「宝」だけを見据え、ゲートの光の中へと消えていった。