第30話
神崎隼人の口元に、最高の不敵な笑みが浮かんだ。
「E級…?ウォーミングアップには、ちょうどいい」
その、あまりにも挑発的な一言。
それは、一万を超える彼のショーの観客たちと、そして目の前で彼を殺さんと憎悪のオーラを放つ二体の強力なモンスターへと、同時に向けられた開戦の狼煙だった。
「シャアアアアアッ!」
先に動いたのは、巨大蜘蛛だった。先ほどの理不尽なカウンター攻撃に、その少ない知能は恐怖と怒りで混乱している。ただ本能のままに、その鋭い八本の脚で床を蹴り、弾丸のような速度で隼人へと再び襲いかかってきた。
同時に、気絶から回復したホブゴブリンもまた、地響きのような雄叫びを上げ、その巨大な鉄の棍棒を力任せに振りかぶる。
前後からの、挟み撃ち。
速度の蜘蛛と、パワーのホブゴブリン。
E級ダンジョンが誇る、二体のエリートモンスターによる完璧な、必殺のコンビネーション。
普通の探索者であれば、その絶望的な圧力の前に、なすすべもなく肉塊へと変えられていただろう。
だが隼人は、もはや普通の探索者ではなかった。
彼の心は、不思議なほど静かに、そしてどこまでも冷徹に凪いでいた。
彼のギャンブラーとしての「眼」は、二体のモンスターの全ての動きを、完璧に捉えていた。
蜘蛛の踏み込む、足の角度。
ホブゴブリンの棍棒を振りかぶる、肩の筋肉の収縮。
それら全てが、彼にはまるでスローモーションのように見えていた。
彼は、あえて動かない。
ギリギリまで、敵を引きつける。
そして蜘蛛の毒牙が、自らの喉元を捉えるそのコンマ数秒手前。
彼は、動いた。
それは、芸術的なまでの最小限の動き。
彼は、その場から一歩だけ横にずれる。
それだけで、蜘蛛の突進は空しく空を切り、その勢いのまま、隼人のすぐそばを通り過ぎていく。
そして、その蜘蛛がいたまさにその場所に。
ホブゴブリンが振り下ろした、渾身の鉄の棍棒が叩きつけられた。
ゴッッッ!!!という、凄まじい轟音。
「シャッ!?」
味方の誤爆を受けた巨大蜘蛛が、困惑の声を上げる。
隼人は、その千載一遇の好機を見逃さなかった。
敵の力を利用し、敵を討つ。
それこそが、ギャンブルの、そして戦いの極意。
「――お前の相手は、俺だろ?」
彼は、体勢を崩した巨大蜘蛛の無防備な側面へと滑り込むように移動すると、そこに流れるような剣戟を叩き込んだ。
彼が昨夜構築したばかりの、新たな主力技。
【通常技】無限斬撃。
シュイン、シュイン、シュインッ!
彼の長剣が、残像を描く。
一撃、二撃、三撃。
その一振り一振りが、的確に蜘蛛の脚の関節部分を捉え、その硬い外殻を切り裂いていく。
そして斬りつけるたびに、蜘蛛の傷口から青白い魔力の光が、隼人の体へと吸収されていく。彼のMPバーは、スキルを連発しているにもかかわらず、常に満タンの状態を維持し続けていた。
「シャアアアアアアッ!」
巨大蜘蛛は、そのあまりにも一方的な終わらない連撃に、苦痛の絶叫を上げる。
だが、時すでに遅し。
隼人の最後の一撃が、その頭部を正確に貫いた。
巨大な蜘蛛の体は、ひときわ強い光を放ちながら、その存在を完全に消滅させた。
「さてと」
隼人は、振り返る。
そこには、自らの一撃が味方を屠ったという現実に、呆然と立ち尽くすホブゴブリンの姿があった。
もはや、そこに指揮官としての威厳はない。
ただ、巨大なだけの的。
「一対一なら、お前はもうただのカカシなんだよ」
隼人は、冷たく言い放った。
ホブゴブリンが、怒りの雄叫びを上げ、鉄の棍棒を振り回す。
だがその大振りで単調な攻撃は、もはや隼人には当たる気配すらない。
彼は、その全ての攻撃を紙一重で見切り、まるで戯れるかのように、その巨体の周囲を舞い踊る。
そして、その隙だらけの体に、的確に、そして容赦なく無限の斬撃を叩き込んでいく。
もはや、それは戦闘ではなかった。
ただ、一方的な蹂躙。
ただ、淡々とこなされる「作業」。
やがて、ホブゴブリンの巨体もまた、夥しい数の斬撃を受け、その生命活動を停止させ、満足げな光の粒子となって消えていった。
しんと。
あれほど喧騒と狂気に満ちていた巨大な広間に、絶対的な静寂が戻ってきた。
後に残されたのは、夥しい数の光の粒子がキラキラと舞い散る幻想的な光景と、そしてその中心で、静かに剣を納める一人の勝利者の姿だけだった。
隼人は、ふぅと一つ息を吐いた。
さすがに、E級の軍勢とエリートモンスター二体との連戦は、骨が折れた。
だが、彼のHPもMPもほとんど減ってはいない。
新たに構築したスキルコンボと、フラスコによる完璧なリソース管理が、それを可能にしていた。
彼はARカメラの向こうで、熱狂し、言葉を失っている一万人の観客たちに、語りかける。
「さてと。後片付けの時間だな」
彼は、広間に散らばった無数のドロップアイテムを、一つ、また一つと拾い集めていく。
ほとんどは、ゴブリン兵たちが落とした、換金価値のほとんどないガラクタばかりだ。
だがその中に、時折魔石が混じっている。
彼は、それらを手早く鑑定していく。
「雑魚の魔石が十数個。ホブゴブリンと蜘蛛の魔石が、一つずつか」
彼はその場でARシステムを使い、それらの市場価格を計算する。
表示された、金額。
『推定合計価格: ¥101,500』
「…今日の時給は、悪くない」
彼がそう呟いた、瞬間。
コメント欄が、再び爆発した。
視聴者A: 時給10万wwwwww
視聴者B: 俺のバイトの、10日分なんだが…
視聴者C: E級、夢がありすぎる…!
その金銭的な成功に、沸き立つコメント欄。
だが隼人の目は、もはやその数字には向いていなかった。
彼の視線は、ホブゴブリンが消え去ったその瓦礫の山の中心で、ひときわ強い輝きを放つ一つのアイテムに、釘付けになっていた。
それは、魔石が放つ紫色の光ではない。
ユニークアイテムが放つ、橙色の光だ。
視聴者D: おい…!光ってるぞ!
隼人の心臓が、ドクンと大きく高鳴った。
今日の最高の「配当」は、現金ではなかった。
この、次なる奇跡への挑戦権。
それこそが、彼にとっての最高の報酬だった。
それは、黒く燻された銀の指輪だった。
何の装飾もない、シンプルなフォルム。だがその指輪の表面には、まるで闇そのものが脈打っているかのように、ごく微かな、しかし確かな紫色の魔力のオーラが渦巻いていた。
隼人がそれを手に取った瞬間、ARシステムがその詳細な性能を表示する。
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アイテム名: 混沌の血脈
種別: 指輪
レアリティ: ユニーク
装備レベル: 5
効果:
攻撃に、15~30の混沌ダメージを追加する。
毎秒、15のHPが自動で回復する。 ====================================
『攻撃に、15~30の混沌ダメージを追加する』
混沌ダメージ。カオス属性。
それは、火、氷、雷といった主要な元素とは全く違う、特殊な属性。物理防御も元素耐性も通用しない、防御不能のダメージ属性だと、彼はSeekerNetのどこかの記事で読んだことがあった。
彼の物理攻撃に、この防御不能の追加ダメージが乗る。
それは、彼の火力を純粋に、そして確実に底上げしてくれることを意味していた。
そして、もう一つの効果。
『毎秒、15のHPが自動で回復する』
毎秒、15。
その数字の持つ意味を、彼は瞬時に理解した。
彼の現在の最大HPは、装備とパッシブスキルによって300を超えている。
1分間戦闘を続ければ、900ものHPが自動で回復する計算だ。
それは、低級のライフフラスコを一本、常に飲み続けているのとほぼ同義。
戦闘中の安定感が、劇的に向上する。
攻撃力アップと、HP自動回復。
攻撃と防御。その二つを、同時に高いレベルで実現する二段構えの指輪。
「…なるほどな。悪くない」
彼は、そのシンプルながらも極めて強力な効果に、満足げに頷いた。
その瞬間、彼の配信のコメント欄が、再び活気づく。
先ほどの、神の御業のようなクラフトへの狂乱とは違う。
もっと冷静で、しかし確かな熱意を持った、ベテラン探索者たちの声だった。
ハクスラ廃人: おいおいおいおい!混沌の血脈じゃねえか!これも、有名なユニークだぞ!
元ギルドマン@戦士一筋: うむ。これも、決して超絶レアというわけではない。市場でも、時々見かける品だ。だが、その有用性は折り紙付き。特に、JOKERのようなライフビルドの戦士にとっては、最高の相棒となる。
ベテランシーカ―: そうですね。混沌ダメージは、物理耐性が高い重装甲の敵や、エナジーシールドを持つ魔術師タイプの敵に対して、絶大な効果を発揮します。あなたの攻撃の幅が、これで大きく広がりますよ。
ハクスラ廃人: そして何よりヤバいのが、そのリジェネ能力だ!毎秒15回復は、このレベル帯では破格中の破格!戦闘中にフラスコを飲む、あの致命的な隙を、大幅に減らすことができる。まさに、攻防一体の完成されたデザインだ。
元ギルドマン@戦士一筋: その通りだ。市場価格も、それなりにするはずだぞ。珍しいというよりは、**「需要が高い」**という意味でな。おそらく、これも10万円は下らないだろう。
十万円。
またしても、彼の目の前に現れた現実的な、しかしあまりにも大きな金額。
だが隼人は、今度はそれを売る気にはならなかった。
この指輪は、今の彼にとって、金銭的な価値以上に、戦略的な価値を持っていた。
「…決めた」
隼人は、短く呟いた。
そして彼は、自らの右手の指にはめられていた、古びた指輪を外した。
アメ横のガラクタ市で手に入れた、【氷結した指輪(劣化版)】。氷耐性をわずか4%だけ上げてくれる、彼の最初の冒険の仲間。
「…お前には、世話になったな」
彼はその小さな指輪に一瞬だけ別れを告げると、それをインベントリの奥深くへとしまい込んだ。
そして空いたその指に、新たに手に入れた黒銀の指輪…**【混沌の血脈】**を、はめた。
その瞬間、彼の全身を、微かな、しかし力強い生命のオーラが包み込んでいく。
彼のHPバーの横に、緑色のプラスの数字が、チカチカと点滅を始めた。
『+15 HP / sec』
確かな、回復の実感。
そして彼の右手に握られた長剣の刀身に、ごく微かな紫色の混沌のオーラが、渦巻くように纏わりついた。




