第3話
黒々とした洞窟の顎に、神崎隼人は躊躇なくその身を飲み込ませた。
一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。外の喧騒が嘘のように遠ざかり、しん、と静まり返る。いや、完全な無音ではない。天井の鍾乳石から滴り落ちる水滴が、暗闇の中で不規則なリズムを刻んでいた。ポツ…、ピチャン…。まるで、この異界の秒針のようだ。
鼻をつくのは、湿った土と黴、そして、これまで嗅いだことのない、微かに甘く、それでいて鉄錆のような奇妙な匂い。これが、魔素の香りというやつか。それは空気中に濃密に溶け込み、肺を満たし、肌をピリピリと刺した。普通の人間なら、この得体のしれない圧力に恐怖を覚えるだろう。だが、隼人の心は、不思議と凪いでいた。
いや、凪いでいる、というのは正確ではない。彼の魂は、新たなテーブルを前にしたギャンブラーのように、静かに、しかし激しく高揚していた。
『ARシステム、起動。網膜投影、バイタル表示、マップ機能、ライブストリーミング機能、オールグリーン』
目に装着した安物のARコンタクトレンズ型カメラが、機械的な音声と共に起動する。視界の隅に、半透明のウィンドウがいくつも浮かび上がった。心拍数、78bpm。安定している。ミニマップは、まだ入り口付近を示しているだけで、その先は漆黒に塗りつ潰されていた。そして、最も重要なウィンドウ――ライブストリーミングの管理画面。
タイトル:『【人生RTA】無職ギャンブラー、全財産ベットでダンジョンに挑んでみた #1』
視聴者数:0
当たり前だ、と隼人は心の中で自嘲した。無名の新人の、機材もやる気も最低レベルの配信など、誰が好き好んで見るというのか。だが、それでいい。ショーの観客は、幕が上がってから集まってくるものだ。
彼は、腰に差した刃こぼれのナイフをゆっくりと引き抜いた。ひんやりとした鉄の感触が、覚悟を掌に伝えてくる。
洞窟の内部は、壁面の所々に自生しているのだろう、青白い光を放つ苔によって、かろうじて視界が確保されていた。道は一本道。迷う心配はなさそうだ。隼人は、猫のように足音を殺しながら、慎重に奥へと進んでいく。
彼は、決して戦いのプロではない。だが、観察と分析、そしてリスク管理のプロだ。雀荘で相手の癖を読むように、ポーカーでカードの確率を読むように、彼はこのダンジョンの「癖」と「確率」を読んでいた。
壁の傷、床の足跡、空気の流れ。全ての情報が、彼に危険の在り処を教えてくれる。
進み始めて五分ほど経った頃だろうか。
不意に、道の先の曲がり角から、グルル、という低い唸り声が聞こえてきた。
来た。
隼人は壁の窪みに身を潜め、息を殺して様子を窺う。視界の隅で、視聴者数が『2』に変わった。誰だか知らないが、物好きな観客が二人、このショーの最初の目撃者になったようだ。
角から姿を現したのは、教科書通りの、あまりにも典型的なモンスターだった。
身長は、人間の子供ほど。緑色の醜い皮膚はぬらぬらと粘液で覆われ、腰にはみすぼらしい布切れを巻いているだけ。その手には、釘を数本打ち付けただけの、粗末な木の棍棒が握られていた。
ゴブリン。
F級ダンジョンに生息する、最弱のモンスター。新人探索者が最初に越えるべき壁であり、そして、毎年何人もの夢破れた若者の命を奪ってきた、紛れもない脅威。
隼人は、ゴブリンから視線を外さないまま、その全てを分析する。
右足を引きずるような歩き方。重心はやや左に傾いている。棍棒を持つ右腕の筋肉は発達しているが、動きは大振りで単調だ。知性は低い。おそらく、獲物を見つければ、一直線に突進してくるだけだろう。
(…勝てる)
隼人は、勝負のオッズを計算する。95対5。いや、98対2。負ける確率は、限りなくゼロに近い。だが、ギャンブルにおいて、ゼロという確率は存在しない。残りの2%をどう埋めるか。それこそが、ギャンブラーの腕の見せ所だ。
隼人は、深呼吸一つ。そして、窪みから飛び出した。
「グルァッ!」
獲物の出現に気づいたゴブリンが、獣のような叫び声を上げ、一直線に突進してくる。予想通りの、単純な動き。
隼人は、真正面からそれを受け止めようとはしなかった。彼は、突進してくるゴブリンの脇を、まるで闘牛士のように軽やかにすり抜ける。ゴブリンは勢いを殺せず、数メートル先までたたらを踏んだ。
好機。隼人は即座に反転し、ゴブリンの無防備な背中を狙ってナイフを突き立てる。
ガッ、という硬い感触。ナイフは、ゴブリンの分厚い皮膚に阻まれ、数センチしか突き刺さらなかった。
「グギャッ!」
背中に浅い傷を負ったゴブリンが、怒りに満ちた目で振り返り、棍棒を横薙ぎに振るってきた。風を切る、唸るような一撃。隼人は咄嗟に身をかがめてそれを避ける。棍棒が、すぐそばの壁に叩きつけられ、岩片が飛び散った。まともに食らえば、骨の一本や二本は覚悟しなければならないだろう。
(…クソ、ナイフが安物すぎる)
隼人は内心で悪態をついた。これでは、致命傷を与えるのに手間がかかりすぎる。戦闘が長引けば、それだけ不確定要素――残りの2%のリスクが増大していく。
短期決戦。一撃で、仕留める。
隼人の思考が、再びトップギアに入る。彼はゴブリンから距離を取り、円を描くようにじりじりと動き始めた。ゴブリンは、興奮して鼻息を荒くしながら、その場で隼人の動きを追っている。
隼人の視線は、ゴブリンの全身を舐めるように観察していた。筋肉の動き、呼吸のリズム、視線の先。そして、彼は見つけた。
ゴブリンの左の脇腹。そこに、不自然な傷跡のようなものがある。おそらく、過去に別の探索者か、あるいはモンスター同士の争いで負った古傷だろう。そこだけ、皮膚の色がわずかに変色し、引きつっている。
あそこだ。あそこが、このテーブルの唯一の歪み。勝率を100%に引き上げるための、一点。
隼人は、意を決して動いた。
彼は、わざと大振りな動きでゴブリンの右側へと踏み込んだ。ゴブリンは、単純な思考回路で、隼人が懐に飛び込んでくると判断したのだろう。棍棒を、力任せに振り下ろす。
それは、隼人が望んだ通りの動きだった。
彼は、振り下ろされる棍棒の軌道を紙一重で見切り、その懐へと滑り込む。そして、体全体をバネのように使って、ナイフを逆手に持ち、狙いすました一点――古傷の残る左脇腹へと、全力で突き立てた。
ブスリ、という、先ほどとは全く違う、生々しい音が響いた。
ナイフの刃が、抵抗なくゴブリンの肉を切り裂き、その奥の臓腑まで到達する。
「ギ…、ギィ…?」
ゴブリンは、何が起こったのか理解できないかのように、自分の脇腹に突き刺さったナイフを見下ろした。そして、ゆっくりと隼人の方を向き、その口から黒い血を溢れさせながら、前のめりに倒れ込んだ。
巨体が、地響きを立てて地面に転がる。そして、次の瞬間、その体はまばゆい光の粒子となって霧散し始めた。
「…はぁっ、はぁっ…」
隼人は、荒い息を整えながら、その場に片膝をついた。アドレナリンが全身を駆け巡り、心臓がうるさいほどに脈打っている。
これが、命のやり取り。これが、ダンジョン。
彼の視界の隅で、視聴者数が『5』に増えていた。そして、初めてのコメントが、ぽつりと表示される。
視聴者A: おつ
光の粒子が完全に消え去った後には、いくつかのアイテムが残されていた。
隼人は立ち上がり、ドロップ品を拾い上げる。ARカメラが、自動的にアイテムをスキャンし、情報を表示していく。
「さて、と…初獲物は…」
彼は、わざと配信を意識して、一つ一つのアイテムをカメラに見せるように拾い上げた。
「『ゴブリンの耳』、換金アイテムか。次、『欠けた石ころ』…ハズレだな。で、これが『汚れた布切れ』…これもゴミか」
視聴者B: しょっぱいなw
視聴者C: まあ新人なんてこんなもんだろ
視聴者のコメントも、予想通りの、気のないものだった。
だが、隼人はまだ拾い上げていない、残りの二つのアイテムに気づいていた。
一つは、ひどく錆びつき、原型を留めているのが不思議なほどの、鉄の小手。
そしてもう一つは、ガラクタの山の中にあって、明らかに場違いな輝きを放つ、親指の頭ほどの大きさの石だった。鈍い黄金色の光が、明滅している。
隼人は、まず「錆びついた鉄の小手」を拾い上げた。
[錆びついた鉄の小手] を入手しました
種別: ガントレット / 等級: ノーマル(白)
効果: なし
文字通りの、鉄クズだ。
そして、彼は最後に、あの奇妙な石へと手を伸ばした。
彼がそれに触れた瞬間、配信画面の隅に、システムメッセージがポップアップ表示された。
[変質のオーブ] を入手しました
その表示を、数少ない視聴者が見逃さなかった。
静かだったコメント欄が、次の瞬間、熱を帯び始める。
視聴者A: ん?
視聴者B: おい、いまドロップログに…変質のオーブって…
視聴者D: うそだろ!?ゴブリンから出るわけねえ!コラ画像乙!
視聴者A: いやマジだ…ガチでドロップしてるぞ…
ゴブリンから、低級とはいえクラフト用のオーブがドロップするなど、通常ではありえない。それは、数千、数万分の一の確率で起こる、奇跡的な幸運だった。
視聴者E: ラッキーすぎだろ!売れば5000円にはなるぞ!それでまともな武器買え!
視聴者B: そうだぞ新人!間違っても自分で使うなよ!ゴミにオーブ使うのはドブに金捨てるのと同じだ!
視聴者たちは、突然舞い込んだ幸運に興奮し、隼人へ的確なアドバイスを送り始めた。5000円。それは、隼人にとって半日分の生活費に相当する大金だ。売って、刃こぼれのナイフをマシなものに買い替える。それが、誰にとっても「正解」の選択肢だった。
だが。
隼人は、視聴者たちのアドバイスを眺めながら、ゆっくりと口の端を吊り上げていた。その笑みは、感謝でも、喜びでもない。全てを見透かしたような、そして、これから始まる狂気のショーを前にした、役者の笑みだった。
彼は、拾い上げたばかりの「変質のオーブ」と「錆びついた鉄の小手」を、ARカメラの前にこれ見よがしに並べて見せた。
「はい、ここでオリジナルチャートに入ります」
唐突な、RTA走者のような宣言。
その言葉の意味を理解できず、視聴者たちは「??」と困惑のコメントを打ち込む。
隼人は、その困惑すら楽しむように、言葉を続けた。
「この、売れば5000円になる『変質のオーブ』をですね…こっちの、価値ゼロの『錆びついた小手』に使います」
一瞬の沈黙。
そして、コメント欄は、今度こそ阿鼻叫喚の嵐に包まれた。
視聴者C: は!?バカかお前!やめとけ!
視聴者D: ドブに金捨てる気か!正気か!?
視聴者A: せっかくの幸運を無駄にするな!頼むからやめてくれ!
視聴者E: 通報した
視聴者たちの悲鳴にも似た制止の声。だが、隼人にとって、それは最高のBGMだった。ギャンブラーは、いつだってオーディエンスの予想を裏切らなければならない。常識的な、分かりきった選択肢に、魂が震えるような興奮は宿らないのだ。
「面白いだろ?ゴミと、なけなしの金を混ぜ合わせて、何が生まれるか。あるいは、何も生まれず全てが消えるか。これこそが、ギャンブルの醍醐味だ」
彼は、恍惚とした表情で、オーブを錆びついた小手に近づけていく。
そして、叫んだ。
その声は、このショーの観客と、そして、天にいるであろう運命の女神に向けた、開幕のファンファーレ。
「賭け金は俺の運命。【運命の天秤】、発動ッ!!」
瞬間、隼人の意識は内側へと深く沈んだ。
彼の精神世界に、巨大な天秤の幻影が浮かび上がる。右の皿には「成功」と「奇跡」。左の皿には「失敗」と「破滅」。通常、オーブを使ったクラフトでは、この天秤はごくわずかしか揺れない。だが、彼のスキルは、その振れ幅を無限大に増幅させる。
彼は、自らの魂と、運命の全てを賭け金として、天秤の右の皿へと叩きつけた。
傾け。傾け。世界の理を捻じ曲げるほど、極限まで傾けてみせろ!
現実世界では、変質のオーブが小手に触れた瞬間、信じられないほどの光が溢れ出した。青白い苔の光しかない洞窟が、まるで真昼の太陽が落ちてきたかのように、純白の光で満たされる。空間が歪み、空気が悲鳴を上げるような高周波が響き渡る。それは、もはや単なるアイテムクラフトの光景ではなかった。世界そのものを、再錬成するかのような、神の御業の顕現だった。
やがて、嵐のような光が収まった時。
隼人の手の中にあったのは、もはや錆びついた鉄屑ではなかった。
それは、闇を溶かして固めたような、滑らかな黒曜石のごとき流線形のガントレット。指の関節の一つ一つに、まるで星空を閉じ込めたかのように、虹色に輝く小さな魔石が埋め込まれている。ただそこにあるだけで、周囲の魔素を喰らい、尋常ならざるオーラを放っていた。
隼人が、震える指でそれを鑑定する。
結果が、彼の、そして全ての視聴者の視界に、絶対的な事実としてポップアップ表示された。
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アイテム名: 万象の守り
種別: ガントレット
装備レベル: 1~
効果: 攻撃速度 +15%
全属性耐性 +25%
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静寂。
阿鼻叫喚に満ちていたコメント欄が、完全に沈黙した。
誰もが、そのありえない性能表示を、ただ瞬きもせずに見つめていた。装備レベル1。攻撃速度15%上昇。そして、何よりも、世界の理を根底から覆す、狂った一文。
『全属性耐性 +25%』
この世界の属性耐性は、どんなに優れた装備を重ね着しても、75%が限界とされている。そして、高レベルのダンジョンでは、その土地の特性によって特定の属性耐性にマイナス30%や50%といった、強力なペナルティが課せられるのが常識だった。
だが、このガントレットは、その常識を嘲笑っていた。これ一つで、ほとんどのダンジョンのペナルティを相殺し、さらに有り余るほどの耐性を確保できる。しかも、装備レベルは、1。生まれたばかりの赤子ですら装備できる。
それは、もはや「装備」というカテゴリーには収まらない。それは、「世界のバグ」そのものだった。
沈黙を破ったのは、一人の視聴者の、震えるようなコメントだった。
視聴者A: …うそだろ
それが、狼煙だった。
次の瞬間、コメント欄は、これまでとは比較にならない、本当の爆発を起こした。
視聴者C: 神
視聴者D: 神回
視聴者B: 歴史の目撃者になっちまった…
視聴者E: おい、それ…取引所で4000万は下らないぞ…いや、売るな!絶対に売るな!国宝だぞそれ!
視聴者F: 伝説の始まり
賞賛と、驚愕と、祝福の嵐。
隼人は、そのコメント欄を満足げに眺めると、クツ、クツクツと喉を鳴らして笑い始めた。
やがてそれは、洞窟の闇を全て吹き飛ばすかのような、狂的な高笑いへと変わっていく。
「ハハ…ハハハ、ハハハハハハ!!」
彼は、完成したばかりの【万象の守り】を、自らの左腕に装着した。ひんやりとした感触と共に、膨大な魔力が全身を駆け巡るのが分かった。まるで、世界そのものが自分の味方になったかのような、絶対的な全能感。
「見たか!これが俺の戦い方だ!」
狂人の高笑いが、ダンジョンの中にいつまでも響き渡っていた。
2025/07/08 【万象の守り】が20万円は安く設定し過ぎたので4000万円に修正しました。