第285話
【配信タイトル:BOSS FIGHT! マダム・ルヴォー!秘策、見せてあげる!
【配信者:HollyMiller_adventures】
【現在の視聴者数:10,521】
古びて軋む階段の最後の一段を、ホリー・ミラーは慎重に、しかし確かな足取りで踏みしめた。
彼女の目の前に広がっていたのは、この呪われた邸宅の、心臓部。
屋根裏部屋を改造したであろう、広大な、円形の儀式場だった。
床には、おびただしい数の骸骨や動物の頭蓋骨が散乱し、壁には、意味の分からない禍々しい紋様が、血のような赤い塗料で描き殴られている。部屋の中央では、緑色の液体が不気味な泡を立てる巨大な大釜が、ぐつぐつと煮え立ち、甘く、そしてどこかむせ返るような香りを、あたりに漂わせていた。
そして、その大釜の向こう側。
いくつもの人間の頭蓋骨を積み上げて作られた、粗末な、しかしどこまでも冒涜的な玉座。
そこに、この邸宅の主、【マダム・ルヴォー】が、静かに腰掛けていた。
彼女は、かつては美しい女性だったのかもしれない。
だが、今やその姿は、死と呪いによって、見る影もなく歪んでいた。
ボロボロの、しかし高価であっただろう黒いドレス。その隙間から覗く肌は、ミイラのように乾ききり、土気色に変色している。その手には、ワニの頭蓋骨が取り付けられた、禍々しいブードゥーの杖が握られていた。
そして、その顔。
深い皺が刻まれたその顔には、もはや一切の感情はなく、ただその空虚な眼窩の奥で、二つの紫色の鬼火だけが、侵入者であるホリーを、冷徹に、そしてどこまでも静かに見つめていた。
その、あまりにも圧倒的な、そしてどこまでも不吉なプレッシャー。
それに、ホリーの小さな体が、わずかに震えた。
彼女の配信のチャット欄もまた、その本物の「格上」の登場に、これまでのどの瞬間よりも大きな緊張感に包まれていた。
HollyHype: うわあああ…!来た…!ボスだ…!
GatorWrestler_99: ヤバい、オーラが尋常じゃねえ…。B級下位のボスとは思えんぞ、こいつ…
Theorycrafter_X: 気をつけろ、ホリー。あれは、ただの魔術師じゃない。混沌と呪いに特化した、最悪の相手だ。一発でも呪いを受ければ、終わりだぞ
その、専門家たちからの真剣な警告。
それに、ホリーはゴクリと喉を鳴らした。
彼女は、自らのARウィンドウに表示された視聴者数が、ついに1万人を突破していることに、気づいていた。
数時間前まで、たった58人だった、あの小さなコミュニティ。
それが今や、1万人以上の人間が、この無名なC級学生の、無謀な挑戦を、固唾を飲んで見守っている。
その、あまりにも大きな期待の重圧。
それに、彼女の膝が笑いそうになる。
だが、彼女は決して、その恐怖に飲み込まれはしなかった。
なぜなら、彼女の心の中には、この日のために積み重ねてきた、確かな自信と、そして一つの「秘策」があったからだ。
彼女は、その震える体を叱咤するように、一つ大きく深呼吸をした。
そして彼女は、ARカメラの向こうで祈るように見守る1万人の観客たちに、最高の笑顔を向けた。
その声は、震えていた。
だが、それは恐怖からではない。
抑えきれない、武者震いからだった。
「――大丈夫。見てて、みんな。私の、本当の力を」
その彼女の宣言を、待っていたかのように。
チャット欄の、あの有識者が、最後の、そして最も重要な質問を投げかけた。
Theorycrafter_X: ホリー、素晴らしい走りだった。だが、一つだけ分からないことがある。君は精度のオーラを使っていないようだが、どうやって命中率を確保しているんだ?B級のボス相手に、攻撃が当たらなければ、毒をスタックさせることすらできないはずだ
その、あまりにも的確で、そしてどこまでも本質を突いた問いかけ。
それこそが、彼女がこのショーのクライマックスのために用意していた、最高の「前振り」だった。
「良い質問だね!」
ホリーは、待っていましたとばかりに、にっこりと笑った。
そして彼女は、自らのパッシブスキルツリーを、配信画面に大きく映し出した。
「答えは、これだよ」
彼女が、その指先で指し示したのは、一つのマスタリーだった。
「**精度マスタリーの『精度評価+500、レベルごとに精度-2』を取ってるの。**今の私のレベル帯なら、オーラでMPを予約するよりも、こっちの方がずっと効率的なんだ。まあ、レベルが上がっていくと、だんだん弱くなっていくから、いつかは振り直さないといけないんだけどね。でも、『今』を勝ち抜くための、最高の選択。私は、そう信じてる」
その、あまりにもクレバーな、そしてどこまでも合理的な回答。
それに、チャット欄の有識者たちが、感嘆の声を上げた。
Theorycrafter_X: …なるほど。レベル帯に応じた、最適化か。素晴らしい。だが、それならなぜ、迅速のオーラは張っているんだ?そのMPがあれば、他の…
「それに、オーラ枠はもう埋まってるからね」
ホリーは、その言葉を遮った。
そして彼女は、このショーの、本当の「主役」を、世界へと公開した。
彼女は、自らのオーラスキルの一覧を、表示させる。
一つは、【迅速のオーラ】。
そして、もう一つ。
その、禍々しい紫色のアイコンを見た瞬間、チャット欄の全ての有識者たちが、息を呑んだ。
【フィニッシュ・オブ・アゴニー】
「これが、私の秘策」
ホリーの声には、絶対的な自信が宿っていた。
「私のポイゾナスコンコクションは、雑魚を掃除するためのスキルじゃない。この可愛い相棒、『アギー』を育てるための『餌』なんだ!」
彼女が、そう宣言した、その瞬間。
彼女の傍の影から、ずるりと一つの巨大な影が、その禍々しい姿を現した。
全長3メートルを超える、巨大な毒蠍。
その甲殻は黒曜石のように輝き、その巨大なハサミと尻尾の毒針は、見るからに致死の猛毒を宿している。
【アゴニークローラー】。
彼女の、もう一体の相棒。
「私が毒をばら撒けばばら撒くほど、アギーはどんどん強くなる。これこそが、私のボス戦の答えだよ!」
その、あまりにも衝撃的な、そしてどこまでも完成されたビルドの思想。
それに、チャット欄は、本当の意味での「爆発」を起こした。
『うおおおおお!ミニオンハイブリッドビルドだったのか!』
『なんだよ、それ!聞いてねえよ!』
『ポイゾナスコンコクションで毒性をスタックさせて、アゴニークローラーを強化する…。天才か、この子は…!』
その熱狂を、合図にしたかのように。
玉座に座していたマダム・ルヴォーが、ついに動いた。
彼女は、その骨の杖を、ホリーへと向ける。
そして、戦いの火蓋は切って落とされた。
◇
死闘。そして、無双。
マダム・ルヴォーの初手は、彼女の全ての力を示すかのような、圧倒的な呪いの嵐だった。
部屋中に、無数の紫色の魔法陣が展開され、そこからおびただしい数のアンデッドの軍勢が、召喚されていく。
そして、ボス自身もまた、その杖の先端から、即死級の威力を持つ混沌の魔弾を、ホリーへと放ってきた。
だが、ホリーは動じない。
彼女は、その死の弾幕の中を、まるでダンスを踊るかのように、華麗に、そして優雅に、舞い続けた。
【迅速のオーラ】によって強化された、その神速のステップ。
アンデッドの軍勢の攻撃は、彼女の体を捉えることすらできない。
そして、彼女は、その回避の合間を縫って、ただひたすらに、緑色の毒の瓶を、投げ続けた。
ターゲットは、ボスではない。
その周囲にいる、無数の雑魚のアンデッドたちだ。
瓶が、砕け散る。
毒の霧が、広がる。
そして、彼女のARウィンドウに表示された「毒性」のスタック数が、凄まじい勢いで上昇していく。
10、20、30、40…。
ついに、最大値の40へと到達した。
その瞬間。
彼女の相棒、「アギー」が、咆哮を上げた。
「グルオオオオオオオオオオッ!!!」
アゴニークローラーの巨体が、さらに一回り、いや二回りも巨大化する。
その甲殻は、もはや黒曜石ではなく、虹色に輝く神々の金属へと変貌し、そのハサミは、岩石すらも容易く粉砕するほどの、圧倒的な質量を宿していた。
それに呼応するように、彼女の傍らで召喚されたミニオン【アゴニークローラー】が、凄まじい勢いで巨大化・強化され、第二のアタッカーとしてボスに襲いかかる。
視聴者は、彼女がただのフラスコ投げビルドではなく、高度なミニオンハイブリッドビルドであったことに、驚愕する。
「――行け、アギー!」
ホリーの、その命令。
それに、アギーが応えた。
彼は、その巨体に似合わないほどの神速で、マダム・ルヴォーへと突撃していった。
それは、もはやただのミニオンではない。
一つの、完成された殺戮機械だった。
そこから始まったのは、もはや戦闘ではなかった。
ただ、一方的な蹂躙。
マダム・ルヴォーが、どれほど強力な呪いを放とうとも。
アギーの、その圧倒的な物理攻撃の前には、何の意味もなさない。
彼女の魔法障壁は、その巨大なハサミの一撃で、ガラスのように砕け散る。
彼女が召喚したアンデッドの軍勢もまた、ホリーがばら撒く毒の霧と、アギーの薙ぎ払う尻尾の一撃で、ただの塵芥と化していく。
ホリーの継続ダメージと、相棒「アギー」の物理ダメージ。その二重の猛攻の前に、マダム・ルヴォーはなすすべもなく倒される。
そして、ついにその時は来た。
アギーの、最後の一撃。
それが、マダム・ルヴォーの、そのミイラ化した心臓を、完全に粉砕した。
彼女は、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その存在を完全に消滅させた。
後に残されたのは、おびただしいドロップアイテムが部屋に散らばり、そしてその中心で、荒い息をつきながら、しかし確かな勝利を噛みしめる、一人の少女と、その相棒の姿だけだった。
チャット欄が、歓喜の絶叫で爆発する。
そして、その勝利の余韻に浸る彼女の目の前に。
画面が、黄金の光で満たされた。
ギルドからの、金色の公式通知が、ポップアップした。
その、あまりにも荘厳で、そしてどこまでも美しい光景。
それに、ホリーはただ、言葉を失っていた。
彼女の、新たな伝説が、今、始まった。