第284話
【配信タイトル:Mansion of Madness! フラスコ vs ブードゥー!
【配信者:HollyMiller_adventures】
【現在の視聴者数:1,258】
ルイジアナの湿った、そしてどこまでも不吉な空気が、彼女の肺を満たしていた。
ホリー・ミラーは、B級下位ダンジョン【マダム・ルヴォーの腐敗した邸宅】の、その心臓部へと続く朽ち果てたポーチの前に、一人静かに立っていた。
彼女の背後には、先ほどの死闘の証である【呪われたアリゲーター】たちの光の粒子が、まだキラキラと輝きながら消え残っている。
彼女の、あまりにも鮮やかで、そしてどこまでもクレバーな初陣。
その噂は、すでにSeekerNetの北米掲示板を駆け巡り、彼女の小さな配信チャンネルには、好奇心と、そしてわずかな懐疑心を抱いた新たな視聴者たちが、次々と集まり始めていた。
NewViewer_1: 噂を聞いて見に来た。本当にC級の学生がソロでB級を攻略してるのか?
GatorWrestler_99: 見ただろ、今のアリゲーター戦を!彼女は、本物だ!
Theorycrafter_X: ふむ…ポイゾナスコンコクションビルドか。面白い。だが、このダンジョンの本当の恐怖は、ここからだ。果たして、どこまでやれるかな…
その、期待と、分析と、そしてどこか値踏みするような視線が入り混じるチャット欄。
それに、ホリーは少しだけ緊張しながらも、最高の笑顔で応えた。
「みんな、来てくれてありがとう!さて、と。ウォーミングアップは、終わり」
彼女は、目の前にそびえ立つ、巨大な、そしてどこまでも不気味な邸宅を見上げた。
かつては白く輝いていたであろう美しいコロニアル様式の建物は、今や黒ずんだ苔と不気味な植物に覆われ、ポーチの柱は腐り落ち、割れた窓ガラスが、まるで亡霊の空虚な眼窩のように、闇の奥を覗かせている。
南部ゴシックホラー。
その言葉が、これほど似合う場所を、彼女は知らなかった。
「じゃあ、行ってくるね!お化け屋敷、探検だ!」
彼女の、そのあまりにも場違いに明るい一言。
それが、この呪われた館での、彼女のショーの始まりを告げる、ファンファーレとなった。
◇
邸宅潜入。
ギィィィィ…という、耳障りな蝶番の軋む音と共に、重いオーク材の扉が開かれる。
彼女がその薄暗い内部へと一歩足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした、そしてどこか甘い腐敗臭が、彼女の鼻腔を突き刺した。
そこは、広大な、吹き抜けのホワイエだった。
床には、かつては深紅だったであろう豪華な絨毯が敷かれているが、今や色褪せ、所々がカビで黒ずんでいる。壁には、この邸宅のかつての主たちのものだろうか、無数の肖像画が飾られている。だが、そのどれもが、その瞳の部分だけが何者かによって鋭利な刃物で切り裂かれ、まるでこちらを監視しているかのように、暗い空洞を覗かせていた。
そして、そのホワイエの正面。
二階へと続く、巨大な螺旋階段。
その手すりには、おびただしい数の蔓植物が、まるで巨大な蛇のように絡みついていた。
その、あまりにも完璧な、ホラー映画のセットのような光景。
それに、チャット欄も「怖い」「ホラーゲームみたいだ」と盛り上がる。
HollyHype: うわああああ!雰囲気、ヤバすぎる!
GamerGirl_Jess: 完全にバイオハザードじゃん、これ!ホリー、ショットガンは持った!?
Skeptic_One: まあ、見た目は怖いが、どうせ出てくるのはいつもの雑魚だろ。さっさと進んでくれ
その、様々な反応。
それに、ホリーは少しだけ青ざめた顔で、しかしどこか楽しそうに、カメラに向かって囁いた。
「やばい…。マジで、怖いかも…」
彼女は、その場に立ち尽くすのではなく、盗賊クラスの俊敏さを活かし、音を殺しながら壁際を移動し始めた。
その、あまりにもプロフェッショナルな動き。
それに、チャット欄の有識者たちが、わずかに目を見張った。
彼女が、最初の一つの部屋…おそらくは、かつての客間だったであろう部屋の扉を、慎重に開けた、その瞬間だった。
ひゅっ、という鋭い風切り音と共に、部屋の奥の暗闇から、一つの半透明の影が、音もなく彼女へと襲いかかってきた。
それは、ウェディングドレスのような、しかしボロボロに引き裂かれた白いドレスをその身にまとった、美しい、しかしどこまでも悲しげな女性の霊だった。
その顔には、目も鼻も口もない。
ただ、その空虚な顔の中心で、一つの深い絶望だけが、渦巻いていた。
「――沼の女霊!」
チャット欄から、悲鳴が上がる。
ホリーもまた、そのあまりにも唐突な奇襲に、目を見開いた。
だが、彼女の体は、思考よりも早く反応していた。
彼女は、その場で身をかがめると、まるで猫のようにしなやかに、その女霊の薙ぎ払うような爪攻撃を、紙一重で回避する。
そして、そのすれ違いざまに、彼女はカウンターの一撃を叩き込んだ。
緑色の、毒の瓶。
それが、女霊の半透明の体を捉えた、その瞬間。
女霊の体は、ダメージを受けることはなかった。
だが、その代わりに。
ホリーの全身を、これまで感じたことのない、重く、そして粘つくような悪寒が襲った。
彼女のARウィンドウに、二つの忌々しいデバフアイコンが、同時に点灯した。
《脆弱の呪詛》
《減速の呪詛》
「――っ!?」
ホリーの体が、鉛のように重くなる。
世界の全てが、スローモーションのように感じられる。
女霊が放つ厄介な呪い(移動速度低下、脆弱化など)に、ホリーは初めて足を止めさせられたのだ。
そして、その硬直の隙を見逃すほど、女霊は甘くはなかった。
一体だけではなかった。
部屋の四隅の暗闇から、次々と、同じように白いドレスをまとった女霊たちが、その姿を現したのだ。
その数、四体。
彼女たちは、その空虚な顔でホリーを囲むと、一斉に、その悲しげな、しかしどこまでも lethal な爪を振り上げた。
『うわああああ!囲まれた!』
『まずい!スロウで、避けきれない!』
『呪い、どうするの!?』
チャット欄が、悲鳴で埋め尽くされる。
誰もが、この小さな挑戦者の、あまりにもあっけない最期を、覚悟した。
だが、その絶望の、まさにその中心で。
ホリーは、笑っていた。
その口元には、全てを計算し尽くしたかのような、獰猛な笑みが浮かんでいた。
「大丈夫、こういう時のためにね…」
彼女は、その重くなった体で、しかし一切の躊躇なく、ベルトに差された一本のフラスコを、呷った。
それは、ライフフラスコでも、マナフラスコでもない。
彼女が、このダンジョンに挑むために、なけなしの金でクラフトした、特別な「解毒剤」。
銀色に輝く、『解呪のフラスコ』。
その聖なる霊薬が彼女の喉を潤した、その瞬間。
彼の体を蝕んでいた二つの呪いが、パリンという軽やかな音と共に、完全に浄化され、消え去った。
そして、彼女のステータスウィンドウに、新たなバフアイコンが点灯する。
『呪い耐性(4秒間)』
「――私の、勝ちだね」
彼女の、その絶対的な勝利宣言。
それに、女霊たちが、初めてその空虚な顔に、驚愕の色を浮かべた。
だが、もう遅い。
呪いの枷から解き放たれたホリーの体は、再び風のように軽やかさを取り戻していた。
彼女は、その4秒という黄金の時間に、自らの全てを叩き込む。
彼女の両手から、次々と緑色の毒の瓶が放たれる。
それは、もはやただの投擲ではない。
一つの、完成された芸術だった。
彼女は、狭い室内で、壁や天井にフラスコを当てて反射させ、死角にいる敵を攻撃するという高等技術を披露する。
瓶は、ビリヤードの球のように、壁に、天井に、そして女霊たちの体に、何度も何度も跳ね返り、その軌道上の全てを、緑色の毒の霧で満たしていく。
「ギシャアアアアアッ!」
女霊たちが、苦痛の絶叫を上げる。
その半透明の体は、そのあまりにも濃密な毒の霧に、なすすべもなく蝕まれ、そして光の粒子となって消滅していった。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、荒い息一つ乱すことなく、額の汗を拭う一人の少女の姿だけだった。
その、あまりにも鮮やかで、そしてどこまでも計算され尽くした逆転劇。
それに、チャット欄が、爆発した。
『うおおおおお!なんだ、今の!』
『呪いを、フラスコで解除しただと!?』
『しかも、あの壁当て!プロの技じゃねえか!』
彼女の戦いぶりは、SeekerNetの掲示板でさらに話題となり、視聴者数は数千人規模に膨れ上がる。有識者たちが、彼女のビルドの「異常なまでの完成度」と「フラスコ管理能力の高さ」に気づき始め、チャット欄は高度な分析コメントで埋め尽くされる。
Theorycrafter_X: …信じられない。C級の学生が、自らクラフトした呪い解除のフラスコを、このタイミングで完璧に使いこなすとは。彼女は、ただの天才ではない。本物の、戦略家だ
Flask_Master: それだけじゃない。彼女のフラスコチャージの回復速度、異常だ。おそらく、パッシブツリーで、フラスコ関連のノードを、ほとんど全て取得している。このビルドは、フラスコがなければ成り立たない。そして彼女は、そのことを誰よりも理解している
その、あまりにも高度な分析の応酬。
ホリーは、その熱狂をBGMに、ただ静かにドロップ品を回収していた。
そして彼女は、その呪われた客間を後にし、邸宅のさらに奥深くへと、その歩みを進めていった。
◇
そこから先は、もはや彼女の独壇場だった。
狭い廊下で待ち受ける【泥人形】の群れも、彼女の巧みな壁当て投擲と、毒の継続ダメージの前には、ただの的でしかなかった。
彼女の戦い方は、決して派手ではない。
だが、そこには絶対的な「最適解」があった。
無駄な動きが、一切ない。
全ての行動が、勝利というただ一つの目的のために、完璧に計算され尽くされている。
その、あまりにも美しく、そしてどこまでも効率的な蹂躙劇。
それに、視聴者たちは、もはや熱狂ではなく、ある種の畏敬の念を抱いて見守っていた。
そして、彼女はついに、その場所へとたどり着いた。
邸宅の、最上階。
屋根裏部屋へと続く、一本の、古びて軋む階段。
その、暗く、そしてどこまでも不吉な闇の奥から。
**これまでにないほどの、禍々しいオーラが、**まるで生き物のように、漂ってくる。
「…ボスの気配がする…」
ホリーは、ゴクリと喉を鳴らした。
その顔には、初めて、純粋な「恐怖」の色が浮かんでいた。
だが、それ以上に。
その瞳の奥では、最高のテーブルを前にしたギャンブラーの光が、爛々と輝いていた。
彼女は、ARカメラの向こうで、固唾を飲んで見守る数千人の観客たちへと、向き直った。
そして彼女は、最高の笑顔で、言った。
その声は、震えていた。
だが、それは恐怖からではない。
抑えきれない、武者震いからだった。
「――みんな、応援しててね!」
その言葉を最後に、彼女は、その軋む階段へと、その最初の一歩を踏み出した。
彼女の、新たな伝説の、本当の始まりだった。