第280話
その日の放課後の空気は、どこか穏やかで、そして退屈だった。
神崎美咲と桜潮静は、日米合同冒険者高等学校の荘厳な校門をくぐると、二人並んで、その日の「仕事場」へと向かっていた。
彼女たちの新たな日常。
それは、午前中はクラス最高の知性たちと共に世界の理を学び、そして午後は、自らの魂と肉体を賭けて、その理不尽さと戦うという、あまりにも刺激的で、そしてどこまでも充実した日々だった。
「…はぁ。今日の歴史の授業、少し難しかったね」
電車に揺られながら、美咲が小さなため息をついた。
「うん。でも、すごく面白かった」
静もまた、深く頷いた。
「私たちが、当たり前のように使ってるこのARグラスも、昔は詐欺を防ぐための、切り札だったんだね…」
「そうだね。なんだか、不思議な感じ。私達が今、こうして安心して冒険できるのも、昔の誰かが、必死に戦ってくれたおかげなんだなって」
その、あまりにも真面目で、そしてどこまでも優しい会話。
それが、彼女たちの本質だった。
やがて、二人は目的の駅へとたどり着いた。
そこは、F級ダンジョン【ゴブリンの洞窟】の入り口だった。
ゲートの前には、彼女たちと同じように、冒険者学校の制服を着た生徒たちや、あるいは、まだその生活に慣れない様子の、ぎこちない動きの大人たちが、それぞれのパーティを組んで、ダンジョンへと吸い込まれていく。
その、あまりにも活気に満ちた、そしてどこかカオスな光景。
「よし、行こうか、静ちゃん!」
「うん!」
二人は、意を決すると、そのダンジョンへと繋がるポータルの、その光の中へと、その一歩を踏み出した。
◇
ひんやりとした、湿った土の匂い。
壁一面に自生する発光苔が放つ、ぼんやりとした青白い光。
数日前、彼女たちが初めての勝利を掴んだ、あの思い出の場所。
だが、その日の洞窟は、いつものようなF級特有の、どこか牧歌的な空気とは、少しだけ違う雰囲気に包まれていた。
それは、静寂。
あまりにも、静かすぎた。
「…あれ?」
美咲が、その大きな瞳をきょろきょろとさせながら、首を傾げた。
「ゴブリンの巣って聞いたけど、ゴブリン、いないなあ…」
彼女の言う通りだった。
いつもであれば、この最初の広間で数体のゴブリンが、侵入者を歓迎(?)してくれるはずだった。
だが、そこにいるのは、おびただしい数の光の粒子が、キラキラと輝きながら消えていく、その残骸だけ。
明らかに、つい先ほどまで、ここで激しい戦闘が繰り広げられていたことを、その光景は物語っていた。
「…どうやら、先客がいたみたいだね」
静が、冷静に分析する。
そして彼女たちの視線は、広間の奥。
焚き火の跡のような場所で、数人の男女が、だらりと座り込んでいるその姿を、捉えた。
彼らは、冒険者だった。
だが、その出で立ちは、あまりにも奇妙だった。
高価なレア装備でも、機能的な革鎧でもない。
よれよれのワイシャツに、スラックス。
その上から、申し訳程度に、初心者向けの胸当てや肩当てを装着している。
中には、革靴のままダンジョンに入ってきている者すらいた。
彼らは、武器を地面に置くと、それぞれが持ち込んだらしいスマートフォンをいじったり、あるいは缶コーヒーを飲んだりして、ただ退屈そうに、時間を潰していた。
その、あまりにも場違いな光景。
それに、美咲と静は顔を見合わせた。
そして、美咲が代表して、その集団へと歩み寄っていった。
彼女の、その天真爛漫な性格。
それが、こういう時に、最高の武器となる。
「あのー、すみません!」
彼女の、その明るい声。
それに、だらりと座っていた中の一人、リーダー格であろう中年男性が、顔を上げた。
その顔には、長年のサラリーマン生活で刻まれたであろう、深い疲労の色が浮かんでいた。
「ん?ああ、お嬢ちゃんたちか。冒険者学校の生徒さんだね」
男性は、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「どうしたんだい?何か、困ったことでも?」
「いえ、そうじゃなくて…」
美咲は、首を横に振った。
「ゴブリンが、一匹もいなかったので。何か、あったのかなって」
その、あまりにも素直な質問。
それに、男性は「ああ、それか」と、納得したように頷いた。
そして彼は、その世界の新たな「常識」を、彼女たちに教えた。
「――ゴブリンの、リポップ待ちですね」
「リポップ…?」
「ええ」
男性は、苦笑いを浮かべた。
「見ての通り、最近、このダンジョン、ものすごい人気でね。特に、我々のような『週末冒険者』が、仕事帰りに殺到するもんだから。ゴブリンが、湧いてくるスピードよりも、狩られるスピードの方が、早くなっちまったんですよ」
その、あまりにも嬉しく、そしてどこか悲しい現実。
「だから、こうして一つの群れを狩り尽くしたら、次の群れがリポップ(再出現)するまで、10分くらい、こうして待つしかないんです。まあ、これも仕事のうちですよ、はっはっは」
彼は、そう言って豪快に笑った。
その笑い声には、どこか自嘲の色が滲んでいた。
「そうなんですか…」
美咲は、初めて知るその事実に、感心したように頷いた。
そして彼女は、その男性の、あまりにも特徴的な出で立ちを見て、尋ねた。
「あの、もしかして、会社員さんですか?仕事終わりに、大変ですねー」
「ええ、まあ」
男性は、照れくさそうに頭をかいた。
「ですが、会社のデスクで、上司に怒られながら残業してるよりは、よっぽど精神的に楽ですよ。それに、例の『プラス・アルファ・フロンティア制度』のおかげで、税金も安くなりますしね。妻も、最初は反対してましたが、最近は『今日の夕飯は、ゴブリンの耳の唐揚げよ』なんて、冗談を言うようになりました」
その、あまりにもリアルな、そしてどこか温かい家庭の風景。
それに、静と美咲も、思わず笑みを漏らした。
「でも、こうして待ってる間、退屈じゃないですか?」
静が、尋ねた。
「ええ、まあ、正直退屈ですね」
男性は、頷いた。
「だから、**リポップ待ち中は暇なので、暇つぶしの用意した方が良いですよ。**私は、こうしてスマホで電子書籍を読んでます。部下の中には、ポータブルゲーム機を持ち込んで、ここで別のゲームをやってる強者もいますよ」
彼は、そう言って悪戯っぽく笑った。
その、あまりにもたくましい、そしてどこまでも現代的なサバイバル術。
それに、二人はただ感心するしかなかった。
「…そうだ」
男性は、ふと思い出したように言った。
「お嬢ちゃんたちも、休憩していきなさい。ちょうど、おやつの時間だ」
彼は、そう言うと、傍に置いてあったビジネスバッグの中から、一つの箱を取り出した。
中に入っていたのは、個包装された、たくさんのチョコレート菓子だった。
「会社の、頂き物ですがね。良かったら、どうぞ」
「え、いいんですか!?」
「ええ、もちろん。未来の英雄への、ささやかな投資ですよ」
その、あまりにも不器用な、しかしどこまでも温かい優しさ。
それに、二人は顔を見合わせた。
そして彼女たちは、最高の笑顔で、そのチョコレートを受け取った。
「――ありがとうございます!」
その、あまりにも平和な、そしてどこまでも温かい、交流の時間。
それが、唐突に断ち切られた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…!
洞窟全体が、地響きを立てて揺れ始めた。
「――来たか!」
男性が、叫ぶ。
「お嬢ちゃんたち、下がりなさい!」
彼らの目の前の、何もない空間。
それが、ぐにゃりと歪み、そこから一体、また一体と、あの醜い緑色の生命体が、その姿を現し始めた。
リポップだ。
「よし、野郎ども!仕事の時間だ!」
男性が、檄を飛ばす。
サラリーマンたちの顔つきが、一瞬で、戦士のそれへと変わる。
だが、彼らがその錆びついた剣を構える、その前に。
一つの、あまりにも可憐な、しかしどこまでも力強い声が、響き渡った。
「――美咲お姉様。どうぞ」
「うんっ!」
美咲の、弾むような声。
彼女は、そのワンドの先端を、出現したばかりのゴブリンの群れへと向けた。
そして彼女は、その全ての魂を込めて叫んだ。
「――スパーク!」
黄金の雷霆が、炸裂する。
そして、数秒後。
そこには、絶対的な静寂と、おびただしい数の魔石だけが、残されていた。
「……………」
「……………」
「……………」
サラリーマンたちは、ただ呆然と、その光景を見つめていた。
そして、彼らの中の一人が、震える声で呟いた。
「…今の、なに…?」
その、あまりにも素直な魂の叫び。
それに、静と美咲は、顔を見合わせた。
そして彼女たちは、悪戯っぽく、そしてどこまでも誇らしげに、微笑むのだった。
新しい時代の歯車は、確かに、そして力強く、回り始めていた。
その中心で、二人の少女が、今、産声を上げたのだ。