第279話
東京、横田空域に隣接する、日米合同ダンジョン管理委員会の極秘カンファレンスルーム。
部屋の空気は、これまでのどの会議よりも重かった。
数日前、とあるS級ダンジョンからドロップした一つの神話級アーティファクト。
そのあまりにも異質で、そしてあまりにも危険な力が、世界のパワーバランスそのものを根底から覆しかねないという事実。
その共通認識が、この部屋の空気を鉛のように重くしていた。
重い沈黙を破ったのは、議長である坂本だった。
彼の声は穏やかだったが、その奥には、揺るぎない覚悟が滲んでいた。
「――では、緊急合同会議を始める」
彼は、手元のARパネルを操作した。
円卓の中央に浮かぶ地球儀が、一つの禍々しい、しかしどこか神聖なオーラを放つ、黒い石碑のホログラムへとその姿を変える。
古代の遺跡から切り出されたかのような、無骨な石碑。その表面には、剣と拳、そして大樹の紋様が、原始的なタッチで刻まれていた。
「先日、国際公式ギルドより、両政府に対して極秘の報告、そして『裁定』の依頼があった。議題は、ただ一つ。この、新たに発見された神話級アーティファクト…【不動の大地、ガイアの礎】の処遇についてだ」
坂本のその、あまりにも事務的で、しかしどこまでも重い開会宣言。
それに、アームストロング長官が、その美しい顔に一切の笑みを浮かべることなく、静かに頷いた。
その場の全員の視線が、中央の石碑のホログラムに添えられた、テキストデータへと注がれる。
【不動の大地、ガイアの礎】
[画像:古代の遺跡から切り出されたかのような、無骨な黒い石碑。その表面には、剣と拳、そして大樹の紋様が、原始的なタッチで刻まれている。]
名前:
不動の大地、ガイアの礎(ふどうのだいち、ガイアのいしずえ)
種別:
アーティファクト / 領域制御器
効果テキスト:
ダンジョンゲートの周囲やギルド拠点といった、魔力供給が安定した特定の「土地」に設置することで、その土地を中心とした半径数キロメートルに、半永久的な**【原初の領域】**を展開する。
領域内にいる全ての友軍は、銃火器、爆発物、レーザー兵器といった、火薬や高度な科学技術に由来する全ての遠距離攻撃に対して、完全な無敵性を得る。
これらの近代兵器による攻撃は、領域の境界線、あるいは対象に着弾する直前で、まるで時間が停止したかのようにその運動エネルギーを失い、無力化される。
ただし、この効果は、剣、槍、斧といった原始的な武器による攻撃、あるいは格闘術、そして魔法そのものには、一切影響を及ぼさない。
フレーバーテキスト:
英雄は、引き金を引いた。
賢者は、ボタンを押した。
王は、モニターの向こう側から、ただ数字が動くのを見ていただけだった。
そこには、魂のぶつかり合いも、覚悟の重みもなかった。
ただ、効率的な、虐殺があるだけ。
この礎は、嘆いた。
人の堕落を。勇気の死を。
だから、それは世界に告げるのだ。
「火薬の時代は、終わった」と。
「さあ、再び剣を取れ。再び、己が拳を固めろ。
そして、思い出せ。
血と、鉄と、魂の熱量だけが、真の強さを証明するのだということを」
その、あまりにも詩的で、そしてどこまでも反文明的な思想。
それに、会議室の空気がさらに張り詰めていく。
「…ギルド最高幹部会は、このアーティファクトの処遇について、判断を保留した」
坂本は続けた。
「その力が、あまりにも強大で、そしてあまりにも政治的すぎるからだ。彼らは、その責任を我々両政府に委ねた。この『パンドラの箱』を、開けるべきか、否か。その最終判断を、だ」
彼は、そこで一度言葉を切ると、その真摯な瞳でアームストロングを真っ直ぐに見つめた。
「では、まず我が国日本の見解から、述べさせてもらう」
彼は、自らの手元のパネルを操作し、一枚のシミュレーション映像をモニターに映し出した。
それは、新宿の都庁エリアに、この【原初の領域】が展開された場合の、仮想防衛データだった。
「見ての通り、このアーティファクトは、究極の『盾』となりうる。これを、我が国の首都、東京に設置すればどうなるか。銃火器や爆発物を使った、あらゆるテロ行為。あるいは、万が一の他国からのミサイル攻撃。その全てを、完全に無力化することができる。これは、数千万の国民の命を、絶対的に守ることができる、平和の礎だ」
「だが、この力は、あまりにも強大すぎる。一つの国が、独占すべきではない」
彼は、そこで一度、深く息を吸い込んだ。
そして、彼は日本の、そして彼自身の理想を、その言葉に乗せた。
「我が国としては、このアーティファクトを、国際公式ギルドの厳重な管理下に置き、その力を、世界の平和のためにのみ使用することを、ここに提案する。例えば、紛争地帯における非武装地帯の設立や、大規模災害からの復興支援拠点として。この力を、人類全体の共有財産とすること。それこそが、この神の力を手にしてしまった我々に課せられた、唯一の、そして正しい道だと信じている」
その、あまりにも高潔で、そしてどこまでも理想主義的な提案。
それに、坂本の隣に座る日本の官僚たちは、深く、そして静かに頷いた。
だが、その向かい側。
アメリカの代表団の空気は、凍りついていた。
アームストロングは、その美しい顔に一切の表情を浮かべることなく、ただ静かに坂本のプレゼンテーションを聞いていた。
そして、彼がその言葉を終えた、その瞬間。
彼女は、その薄い唇を、ゆっくりと開いた。
その声は、氷のように冷たく、そしてどこまでも鋭利だった。
「――馬鹿げている」
その、たった一言。
それが、この平和的な会議の雰囲気を、完全に破壊した。
日本の官僚たちの顔に、緊張が走る。
アームストロングは、その動揺を意にも介さず、続けた。
その声は、もはや外交官のそれではない。
世界の覇権を握る、超大国の絶対的な支配者のそれだった。
「坂本大臣。あなたのその理想論は、美しい。まるで、日曜学校の説教のようだ。だが、ここは教会ではない。国家の存亡を賭けた、交渉のテーブルだ」
彼女は、ARパネルを操作し、モニターの映像を切り替えた。
次に表示されたのは、中東の、ある砂漠地帯に存在する、敵性国家の軍事基地の衛星写真だった。
「あなたは、これを『盾』だと言ったな。違う。これは、我々がこれまで夢見てきた、究極の**『矛』**だ」
彼女は、その軍事基地の中心に、赤い円を描いた。
「もし、この【ガイアの礎】を、この基地の正門前に設置したら、どうなるか」
「彼らが誇る、最新鋭の地対空ミサイルは、ただの鉄の塊と化す。兵士たちが持つアサルトライフルは、ただの鈍器になる。戦車も、戦闘機も、その全ての火器管制システムは沈黙する。彼らの、数兆ドルを投じて築き上げた近代的な軍隊は、その一夜にして、石器時代の部族へと退化するのだ」
「そして、その無力化された要塞に、我々のA級、S級の戦士たちが、剣と斧を手に、正面から歩いて入っていく。…分かるか?大臣。これは、戦争のルールそのものを、根底から書き換える力だ。これを持つ国が、世界の王となる」
その、あまりにも冷徹で、そしてどこまでも現実的な軍事シミュレーション。
それに、坂本は言葉を失った。
「だから、言わせてもらう」
アームストロングは、断言した。
「このアーティファクトを、国際的な管理下に置く?技術を、共有する?冗談ではない。もし、我が国の探索者がこれを手に入れたならば、それはアメリカ合衆国の国益のためにのみ使われる。我が国の『城壁』の設計図を、みすみす他国に渡すような愚かな真似は、断じて容認できない」
「そして、もし、あなた方がこれを手に入れたとしても、それは同じことだ。これは、もはやギルドが管理できるレベルの代物ではない。国家の、最高機密。戦略兵器そのものだ」
その、あまりにも剥き出しの、国家エゴイズム。
日本政府とアメリカ政府は、大きく対立した。
会議室の空気は、もはや友好国のそれではない。
静かな、しかし絶対的な、冷戦の空気が、そこにはあった。
そして、そこから長い、長い会議が始まった。
日本の官僚たちは、力の均衡が崩れることの危険性を説いた。
アメリカの軍人たちは、この新たな力による、新たな抑止力の必要性を訴えた。
議論は、平行線をたどった。
何時間、そうしていただろうか。
時計の針は、すでに深夜を回っていた。
会議室には、疲労と、そして解決策の見えない焦燥感が、重く漂っていた。
その、息が詰まるような膠着状態。
それを、破ったのは、坂本の、一つの問いかけだった。
彼の声は、疲れていた。
だが、その瞳には、まだ諦めの色はなかった。
「…アームストロング長官」
彼は、静かに言った。
「我々は、少し、視点が高くなりすぎているのかもしれないな」
「国家の利益、世界の覇権…。そんな、大きな話ばかりしている。だが、このアーティファクトが持つ、本当の意味は、そこにはないのかもしれない」
彼は、モニターに、再びあのフレーバーテキストを映し出した。
『――さあ、再び剣を取れ。再び、己が拳を固めろ。そして、思い出せ。血と、鉄と、魂の熱量だけが、真の強さを証明するのだということを』
「このテキストは、我々に何を伝えようとしているのか」
坂本は、続けた。
「近代兵器の否定。そして、原始的な、個の力への回帰。それは、一見、ロマンチックな思想に聞こえる。だが、その本質は、もっと恐ろしい」
「これは、我々が築き上げてきた『国家』や『社会』というシステムの、完全な否定だ。法の支配ではなく、ただ、個人の暴力だけが支配する、混沌の時代への回帰。封建時代への、逆行だ」
「長官。あなたも、私も、この秩序ある世界の中で、そのルールの上で戦ってきた。だが、このアーティファクトは、そのテーブルそのものを、ひっくり返そうとしている。その先に、本当に我々が望む未来があると、あなたは本気で信じているのか?」
その、あまりにも本質的で、そしてどこまでも哲学的な問いかけ。
それに、アームストロングは、初めて言葉に詰まった。
彼女の、その冷徹な戦略家の仮面が、わずかに揺らぐ。
そうだ。
彼女も、理解していた。
この力を手にしたが最後、もはや後戻りはできないのだと。
世界は、二度と元の姿には戻れないのだと。
長い、長い沈黙。
やがて、彼女は、深く、そして重いため息をついた。
そして彼女は、その美しい顔に、これまでにないほどの、深い疲労の色を浮かべて、言った。
その声は、もはや覇者のそれではない。
ただ、自らが開けてはならないパンドラの箱を前にした、一人の人間の、それだった。
「……大臣。あなたの、勝ちのようだ」
「この力は、確かに人類には、早すぎる」
その一言。
それが、この長い、長い戦争の終わりを告げた。
アームストロングは、続けた。
その声には、絶対的な、そしてどこか安堵したような響きがあった。
「――共同で、提案しよう。ギルド最高幹部会に」
「この【不動の大地、ガイアの礎】を、最高レベルの禁忌アーティファクトとして、封印指定することを」
その、あまりにも重い、しかし唯一の正しい結論。
それに、坂本は深く、そして静かに頷いた。
会議室の全ての人間が、その歴史的な瞬間に、ただ息を呑んでいた。
二つの大国は、その日、世界の破滅を、寸でのところで食い止めたのだ。
その、あまりにも静かで、そしてどこまでも壮大な勝利の終わりを。