第278話
「どうだった、今日の授業は?」
隼人は、キッチンでコーヒーを淹れながら尋ねた。
その声は、できるだけ平静を装っていたが、その奥には兄としての隠しきれない心配の色が滲んでいた。
「うん!すごかったよ!今日は、B級のベテラン盗賊の先生が来てくれてね。『ダンジョン内における、トラップの発見と解除』っていう、すごく実践的な講義だったんだ!私、盗賊クラスだから、めちゃくちゃ勉強になったよ!」
彼女は、リュックをソファの上に放り投げると、弾むような声でその一日を語り始めた。その声は、彼女がこの新しい世界を心の底から楽しんでいることを、何よりも雄弁に物語っていた。
「さ、お兄ちゃん、座ってて!今日は私が夕食当番なんだから!」
美咲はそう言うと、慣れた手つきでエプロンを身に着け、最新鋭のアイランドキッチンへと向かった。
トントントン…と、小気味の良い包丁の音。
じゅわーっと、フライパンの上で肉が焼ける香ばしい匂い。
そのあまりにも穏やかで、そしてどこまでも平凡な幸せの音と香り。
それに、隼人の心はこれまで感じたことのない、温かい、しかしどこか落ち着かない感情で満たされていた。
やがて、ダイニングテーブルの上に、湯気の立つ料理が並べられていく。
メインは、豚の生姜焼き。
副菜には、ほうれん草のおひたしと、だし巻き卵。
そして、豆腐とわかめがたっぷり入った、温かい味噌汁。
彼が、幼い頃に母親がよく作ってくれた、思い出の味だった。
「「いただきます」」
二人は、声を合わせてそう言うと、その温かい夕食を食べ始めた。
隼人が、生姜焼きを一口頬張る。
その瞬間、彼の眠たげだった瞳が、わずかに見開かれた。
甘辛いタレの、絶妙な味付け。
そして、肉の柔らかさ。
彼がこれまでコンビニ弁当で慣れ親しんできた、あの味気ない加工肉とは、何もかもが違っていた。
「…うまいな」
彼の口から、素直な、そしてどこか驚きを隠せない感想が漏れた。
それに美咲は、最高の笑顔で応えた。
「でしょー!?料理、頑張って勉強したんだから!」
その、あまりにも誇らしげな笑顔。
それに、隼人の心も温かく満たされていく。
二人は、しばらくの間言葉もなく、ただ静かに眼下に広がる光の海を眺めながら、その温かい食事を楽しんでいた。
リビングの壁に設置された巨大な有機ELモニターでは、いつものようにワイドショー番組『ライブ!ダンジョン24』が、BGMのように流れていた。
その、あまりにも平和で、そしてどこまでも平凡な幸せな時間。
それが永遠に続くかと思われた、その時だった。
番組が、CMへと切り替わった。
そして、画面に映し出されたのは、ここ最近、日本中で見ない日はないというほど、大量に放映されている、あのCMだった。
画面には、疲れた様子で残業しているサラリーマンや、家事に追われる主婦の姿が映し出される。
ナレーター(優しい声): 「毎日に、ちょっとだけ『冒険』が足りない、あなたへ」
その瞬間、彼らの目の前に、あの二頭身の可愛らしいマスコットキャラクター、フロンティア君が、ぽよんと現れた。
「それはいいことを聞いたッピ!」
フロンティア君の元気な声と共に、画面は明るくポップなF級ダンジョンのCGイラストへと切り替わる。
サラリーマンや主婦たちが、初心者向けの装備を身に着け、楽しそうにスライムを倒している。
「週末だけの冒険で、心も、お財布も、リフレッシュ!今なら、本業の税金も、大幅に免除されるッピ!」
画面に、『プラス・アルファ・フロンティア制度、大好評実施中!』という、力強いテロップが躍る。
そして最後に、フロンティア君が満面の笑みで敬礼しながら、こう締めくくった。
「詳細は、お近くの公式ギルドへ!みんなの週末冒険者活動を、応援するッピ!」
その、あまりにもキャッチーで、そしてどこまでも希望に満ちたCM。
それに、隼人はふっと息を吐き出した。
「またなんか、始めたんだな」
彼の、そのあまりにも他人事のような呟き。
「フロンティア君って、そう言えば雫さんが推してたな。『可愛いですよね!』とか言って、キーホルダーまで買ってたぜ。まあ、俺にはよく分からんが」
「**日本政府と、公式ギルド…。**まあ、下の連中を増やすには、こういう分かりやすいアメをぶら下げるのが、一番手っ取り早いか」
彼のその、どこか冷めたような、そして全てを見透かしたかのような分析。
それに、隣で味噌汁を飲んでいた美咲が、少しだけ不満そうな顔で口を挟んだ。
「うーん、でも、実際効果があるらしいよ?」
その、あまりにも意外な反論。
それに、隼人は少しだけ驚いたような顔で、妹へと視線を向けた。
「ほう?」
「うん!」
美咲は、力強く頷いた。
その瞳には、もはやただの少女ではない。冒険者学校で、この世界のリアルな情報を学び始めた、一人の探索者としての光が宿っていた。
「今日の講義でも、話題になってたんだ!早くも、初心者向け装備が、制度始まる前に比べて2割は下がったらしいし!」
「…マジかよ」
「本当だよ!特に、**あと【清純の元素】と【元素の円環】のセットも、産出が増えて値下がりしたらしいし!**今まで、高くて買えなかった新入生の子たちも、これでようやく『制服』が揃えられるって、みんな大喜びしてたんだから!」
彼女は、そう言うと、少しだけ誇らしげに胸を張った。
「それにね、私、この前静ちゃんと一緒にF級ダンジョンに行った時、見たんだ!」
「何をだ?」
「ダンジョンでも、夜の時間帯は、仕事帰りのサラリーマンさん達が、F級にいっぱい来てるし!」
彼女は、その時の光景を思い出し、くすくすと楽しそうに笑った。
「みんな、まだスーツ姿のままで、慣れない手つきで剣を振ってるの!『田中部長!右翼からゴブリンが来てます!』とか『鈴木君!回復フラスコを!』とか、敬語で戦ってるんだよ?すごく、面白かった!」
その、あまりにもリアルで、そしてどこまでも微笑ましい光景。
それに、隼人も思わず笑みを漏らした。
そして彼は、感心したように、そしてどこか自分の認識の甘さを認めるように、呟いた。
「へー。それなりに、効果あるんだな、こういうの」
彼の、そのあまりにも素直な一言。
それに、美咲は最高の笑顔で応えた。
「でしょー!?」
彼女は、そう言って誇らしげに、最後のだし巻き卵を、兄の皿の上に乗せてやった。
その、あまりにも穏やかで、そしてどこまでも温かい、兄妹の時間。
その背後で、テレビはまた、別のニュースを伝えていた。
世界の、巨大な歯車。
その、冷徹で、そしてどこまでも過酷な回転。
だが、その音は、もはやこの小さな、しかし確かな幸せに満ちた食卓には、届いていなかった。