第276話
【物語は、一ヶ月前に戻る】
東京、霞が関。
日本の政治の中枢。その一角にそびえ立つ、重厚な石造りの合同庁舎。
その最上階にある、極秘のカンファレンスルーム。
その円卓を囲んでいるのは、この国の未来をその両肩に背負う、数人の男女だった。
議長席に座るのは、「超常領域対策本部」のトップ、坂本純一郎特命担当大臣。
その隣には、財務省から来た、いかにも切れ者といった雰囲気の柳田主計局長。
そして、厚生労働省から派遣された、若く、しかしその瞳に強い意志を宿した木村課長。
さらに、円卓の末席には、ギルドの公式な紋章をその胸に付けた、元S級探索者であり、現在はギルド最高幹部会の一員である、伊吹の姿もあった。
部屋の空気は、重かった。
これから始まる議論が、この国の、いや世界の未来を大きく左右するであろうことを、そこにいる誰もが理解していたからだ。
重い沈黙を破ったのは、議長である坂本だった。
彼の声は穏やかだったが、その奥には、揺るぎない覚悟が滲んでいた。
「――では、始めよう」
彼は、手元のARパネルを操作した。
円卓の中央に浮かぶ光の列島が、一つの巨大なグラフへとその姿を変える。
それは、冒険者学校の設立と、雷帝ファンドの創設以降、爆発的に増加したF級、E級探索者の数を示すグラフだった。
「見ての通りだ」
坂本は、静かに、しかし重い声で言った。
「我々の施策は、成功した。多くの若者が、希望を持ってこの世界に足を踏み入れてくれた。だが、その成功が、新たな、そしてより深刻な『歪み』を生み出していることも、また事実だ」
彼は、グラフを切り替えた。
次に表示されたのは、「初心者向け装備品の市場価格の推移」。
その赤い線は、この一ヶ月で、異常なまでの角度で右肩上がりに、天を突き刺すかのように伸び続けていた。
「装備インフレ。もはや、看過できないレベルにまで達している。雷帝ファンドから支給された100万円も、そのほとんどが装備の購入に消え、若者たちの成長を阻害している。このままでは、せっかく芽吹いた新たな才能の芽を、我々自身の手で摘み取ることになりかねん」
その、あまりにも切実な問題提起。
それに、財務省の柳田が、その冷徹な声で応えた。
「…市場原理ですな、大臣。需要が供給を上回れば、価格が上がるのは当然のこと。政府が、軽々に介入すべき問題ではないと考えます」
「柳田君」
坂本は、その言葉を遮った。
「これは、もはやただの経済問題ではない。国家の安全保障に関わる、危機なのだ。このままでは、次代を担うA級、S級探索者が生まれず、我が国のダンジョン資源の供給力は、いずれ頭打ちになる。その時、どうなるか。君にも、分かるだろう?」
その、あまりにも重い問いかけ。
それに、柳田はぐっと言葉に詰まった。
坂本は、その沈黙を肯定と受け取ると、続けた。
その声には、揺るぎない決意が宿っていた。
「――だからこそ、我々は次なる一手
を打たねばならない」
彼は、隣に座る若い秘書官に、目配せをした。
秘書官は、緊張した面持ちで立ち上がると、その手元のタブレットを操作した。
「えー、では、『プラス・アルファ・フロンティア制度』の草案を出します」
モニターに、新たな政策のタイトルが、荘厳な明朝体で映し出された。
その、あまりにも希望に満ちた、しかしどこか現実離れした響き。
それに、柳田の眉が、わずかにひそめられた。
秘書官は、その冷たい視線を感じながらも、震える声でその詳細を読み上げていく。
「本制度の目的は、ただ一つ。現在、飽和状態にある探索者市場に、新たな『供給者』を大量に投入し、初心者向け装備の市場価格を安定させることにあります」
「そのための、具体的な施策は、以下の通りです」
モニターに、箇条書きのテキストが表示された。
【プラス・アルファ・フロンティア制度 - 概要】
対象: 日本国内に在住し、本業を持つ23歳以上の全ての社会人。
内容: ギルドに「兼業冒険者」として登録。週末や休日を利用して探索者活動を行い、以下のいずれかの条件を満たすことで、その年の本業の給与所得に対して、最大50%の特別所得税控除を適用する。
条件:
A) 月間のダンジョン内滞在時間が、合計20時間を超えること。
B) 月間の魔石およびドロップ品の換金額が、合計30万円を超えること。
その、あまりにも大胆な、そしてどこまでも過激な提案。
それに、会議室がどよめいた。
柳田が、信じられないという顔で、声を上げた。
「…正気か、大臣!これは、ただの税金のばら撒きだ!本業の所得税を、最大で半分も控除するだと!?国家の財政が、破綻するぞ!」
その、あまりにも当然な、そしてどこまでも正しい財務官僚としての叫び。
だが、秘書官は、その言葉に一切動じることなく、次のデータを表示させた。
「**制度としては、来月から開始で、来年の3月の税務調整で大幅減税をします。**そして、その財源についてですが」
モニターに表示されたのは、ギルドが設立されて以来、この10年間の日本の国家税収の推移を示すグラフだった。
その青い線は、一度の下降もなく、美しい右肩上がりを描き続けていた。
「**幸い、公式ギルドから納められる、莫大な手数料税で、我が国の財政は10年連続で上昇しています。**ダンジョンという、新たな、そして無限の財源を手に入れた今、もはや我々が、かつてのような緊縮財政に囚われる必要はありません。財源は、問題ありません」
その、あまりにも力強い、そしてどこまでも揺るぎない事実。
それに、柳田はぐうの音も出なかった。
だが、彼はまだ諦めない。
彼は、視点を変え、新たな反論を試みた。
「…分かった。財源の問題は、一旦置いておこう。だが、これは社会の構造そのものを、歪めかねない危険な劇薬だぞ!誰もが、副業で冒険者になるような時代が来たら、この国の労働倫理は、どうなる!?本業への集中力が削がれ、生産性が低下する。本末転倒ではないのか!」
その、あまりにも的を射た指摘。
それに答えたのは、これまで沈黙を保っていた、厚生労働省の木村課長だった。
彼女の声は、静かだった。
だが、その奥には、確かなデータに裏打ちされた、自信が宿っていた。
「…柳田局長。そのご懸念は、もっともです。ですが、我々がすでに行ったシミュレーションによれば、結果は、むしろ逆でした」
彼女は、自らの手元のタブレットを操作し、新たなデータをモニターに表示させた。
それは、一部の企業で試験的に導入された、「アドベンチャー福利厚生」の導入後の、従業員の生産性とメンタルヘルスの変化を示すグラフだった。
その全ての項目が、劇的な改善を示していた。
「ダンジョンという非日常。そこで得られる、適度なスリルと達成感。それが、現代社会で働く人々の、過度なストレスを解消し、むしろ本業へのモチベーションを向上させるという、驚くべき結果が出たのです」
「週末に、ゴブリンを一体倒す。その小さな成功体験が、月曜日の憂鬱な会議を乗り切るための、最高の活力剤となる。…皮肉な話ですが、それが現実のようです」
その、あまりにも意外な、しかしどこまでも人間的な分析。
それに、柳田はもはや、言葉を失っていた。
だが、最後の砦として、彼はギルドの伊吹へと、その鋭い視線を向けた。
「…伊吹君。君は、どう思う。現場の人間として、この素人同然の兼業冒険者が、大量にダンジョンに流れ込んでくることを、本当に歓迎できるのかね?事故が多発し、君たちの負担が増えるだけではないのか?」
その、最後の問いかけ。
それに、伊吹は、その傷だらけの顔に、初めて笑みを浮かべた。
その笑みは、不遜で、しかしどこまでも頼もしかった。
「…局長。ご心配には、及びません」
彼は、断言した。
「**冒険者は、無税です。**それは、我々が常に死と隣り合わせの危険な仕事をしていることへの、国からの、最低限の敬意だと理解しています。だが、この制度は違う。これは、安全な場所で、趣味と実益を兼ねて遊ぶ、いわば『レジャー』だ。彼らが挑むのは、F級、E級という、もはや我々プロからすれば、ただの公園のような場所。そこで、死ぬことなど、まずありえない」
「そして、もし万が一のことがあっても、我々ギルドのセーフティネットは、完璧です。むしろ、彼らのような新たな血が市場に流れ込んでくることは、我々にとっても、大歓迎だ」
「停滞は、死を意味します。この世界では、な」
その、現場のトップからの、あまりにも力強い、そして揺るぎない endorsement。
それに、ついに柳田の、最後の抵抗の意志が、砕け散った。
彼は、深く、そして重いため息をつくと、静かに頷いた。
「……分かった」
「そこまで言うのなら、私も、もう反対はせん」
「だが、一年後。必ず、その成果を、数字で示してもらう。それが、できなければ…」
「ええ、分かっています」
坂本は、その言葉を遮った。
その顔には、絶対的な自信が満ち溢れていた。
「一年後。この国は、必ず、もっと強くなっている。私が、保証しますよ」
その、あまりにも力強い、リーダーの宣言。
それに、会議室の全ての人間が、静かに、しかし力強く頷いた。
新しい時代の歯車は、確かに、そして力強く、回り始めた。
その中心で、一人の男が、今、歴史を創ったのだ。
その、あまりにも静かで、そしてどこまでも壮大な革命の始まりを。