第275話
月曜日の午後。
西新宿の空から差し込む柔らかな光が、日米合同冒険者高等学校の巨大な階段教室を、白く、そしてどこか神聖な雰囲気で満たしていた。
数百人の若者たちの視線が、教壇に立つ一人の初老の男性へと注がれている。
歴史学者であり、元A級探索者でもある石川講師。彼の静かな、しかしどこまでもよく通る声が、生徒たちの知的好奇心を刺激していた。
「――さて」
石川は、ARパネルを操作し、巨大なホログラムモニターに一枚の、どこにでもあるありふれた紫色のF級魔石の画像を映し出した。
「今日のテーマは、これだ。君たちが、日々ダンジョンでモンスターを倒し、そして換金所で、あるいはマーケットで、『金』へと変えているこの小さな石。これが、我々のこの世界で、一体どのような『価値』を持っているのか。その話を、しようと思う」
講義室の空気が、引き締まる。
石川講師の授業は、常に生徒たちの常識を、優しく、しかし根底から覆してくる。
今日もまた、新たな世界の真実が明かされるのだと、誰もが固唾を飲んでその言葉を待っていた。
桜潮静と神崎美咲もまた、その静かな熱気の中で、背筋を伸ばしていた。
「**えー、では皆さんが日頃ドロップして換金所で換金してる魔石がどのような用途で使われてるか説明しましょう。**まず、最も巨大で、そして最も重要な用途。それは、都市インフラだ」
彼は、モニターの画像を切り替える。
次に表示されたのは、東京の地下深くに存在する、巨大な施設の設計図だった。
無数のパイプが複雑に絡み合い、その中央には、太陽のように輝く巨大な球体が鎮座している。
「【中央魔石炉・トウキョウ】。我が国の、いや、世界の心臓部だ。この炉の中では、君たちが供給してくれるF級からA級までの魔石が、24時間365日、休むことなく燃やされ続けている。そして、**魔石炉で膨大な電力を発生させています。**そのエネルギーが、この1000万都市の全ての活動を支えている」
「君たちが今、当たり前のように享受しているこの文明の光。その全てが、この炉から生まれているのだ。そして、その恩恵は計り-知れない」
彼は、一枚の古びた電気料金の請求書の画像を、モニターに表示させた。
ダンジョン出現以前の、2014年のものだ。
「これを見なさい。これは、10年前の、ごく一般的な家庭の電気料金だ。月々、1万円を超えている。だが、今の君たちの家庭ではどうだね?おそらく、その半分、いや3分の1以下だろう」
「電気代は、昔にくらべて格段に下がりました。魔石という、ほぼ無限のクリーンエネルギーを手に入れたことで、我々はかつてのエネルギー問題から、完全に解放されたのです」
「それだけではない」と彼は続けた。
「君たちが使っているスマートフォンや、PC。その全てに、魔石ブースターという小型の魔力変換チップが内蔵されている。これにより、**電化製品は大幅に電力消費量を抑えています。**かつては一日持てば良い方だったスマートフォンのバッテリーが、今や一週間充電しなくても平気なのは、全てこの技術革新のおかげなのだよ」
そのあまりにも身近で、そしてどこまでも恩恵に満ちた話。
それに、生徒たちの間から「へえ…」という感嘆の声が漏れた。
美咲もまた、静にひそひそうと囁く。
「すごいね…。私達がゴブリンを倒して手に入れたあの石が、みんなのスマホを動かしてるんだ…」
「うん。なんだか、不思議な感じだね」
静も、深く頷いた。
「次に、結界としての利用だ」
石川は、モニターの画像を再び切り替える。
そこに映し出されたのは、ギルド本部ビルに、一発のミサイルが着弾する、衝撃的なシミュレーション映像だった。
だが、ミサイルはビルに届くその直前で、目に見えない半透明の壁に阻まれ、空中で大爆発を起こす。
「防御結界は、ミサイルからさえ守ります。現在、国会議事堂や首相官邸、そしてギルド本部といった重要施設は、今は防御結界で守られているので、鉄壁ですね。」
「そして、より身近な例だと、防音結界ですね。」
モニターに、JOKERが住むあのA級探索者向けタワーマンションの、豪華な一室が映し出される。
窓の外には、車のヘッドライトが川のように流れる、喧騒に満ちた夜景が広がっている。
だが、部屋の中は、絶対的な静寂に包まれていた。
「外部の騒音を完全にシャットアウトする。あるいは、**内部の音を完全にシャットアウトする。**これもまた、魔石の力だ。君たちが将来、A級探索者となってこのような部屋に住むようになれば、その恩恵を実感することになるだろう」
その言葉に、教室のあちこちから「おお…」という憧れの声が上がった。
「さて、次は画期的な治癒薬としての側面だ」
石川は、教壇の上に置かれた一つの小さな瓶を、手に取った。
中には、緑色のペースト状の液体が入っている。
「魔石を特殊な溶媒で溶かすことで、**軟膏へと変化させることができる。そして、これを軽度の火傷や軽度の切り傷なんかに使うと、**驚くべきことが起こる」
彼は、自らの手の甲を、小さなナイフで軽く切りつけた。
赤い血が、滲み出る。
その光景に、生徒たちが息を呑んだ。
だが、石川は平然とした顔で、その傷口に軟膏を塗り込んだ。
すると、どうだろう。
傷口は、まるで早送り映像のように、みるみるうちに塞がっていき、数秒後には、傷跡一つ残さず、完全に元通りになっていた。
「おお…!」
講義室が、どよめいた。
「このように、細胞組織の再生を、驚異的な速度で促進させる。**手術後の治癒も、これでかなり安定しました。今では、手術痕を完全に隠すことも出来ます。**ただし」と彼は付け加えた。
「あくまで、これは軽度の傷に対してのみだ。ダンジョンで負うような大怪我や、重度の火傷には、残念ながら効果は薄い。万能ではないということだ」
「そして、その応用として、万能栄養剤としても活用されています。」
彼は、今度は小さな錠剤のようなものを取り出した。
「魔石を粉末化し、特殊な製法で固めたものだ。これ一粒で、人間が一日活動するために必要な、全ての栄養素を摂取することができる。**冒険者の携帯食料としても、皆さん、食べたことがあると思います。**味は、まあ、お世辞にも美味いとは言えんがな」
その言葉に、教室から笑いが漏れた。
「そして、一般社会においても、災害時の非常食や、食糧問題、栄養失調に対する画期的な解決策として広く普及している。これにより、世界の食糧安全保障は、ダンジョン出現以前とは比較にならないほど安定しました」
「さらに、その応用は農業分野にまで及んでいる」
モニターに、広大な畑のタイムラプス映像が映し出される。
種が蒔かれ、芽が出て、そして信じられないほどの速度で成長し、数日で豊かな実りをつけていく。
「大量促成栽培。魔石を粉末状にして肥料として土壌に散布することで、植物の成長を異常な速度で促進させ、収穫量を劇的に増大させる。これにより、世界の食糧生産は安定し、飢餓という概念は過去のものとなりました」
「そして、高級食材への応用も進んでいる」
次に表示されたのは、一皿数万円はするという、高級レストランのコース料理の写真だった。
その皿の上には、見たこともないほど色鮮やかで、そして瑞々しい輝きを放つ野菜や果物が、芸術品のように盛り付けられている。
「特定の種類の魔石を使用することで、作物の栄養価や風味を、通常ではありえないレベルまで高めることが可能です。これにより、『エンチャント野菜』や『オーガニック・マジックフルーツ』といった高級食材市場が生まれ、富裕層向けの新たな食文化を形成しています」
「えー、次は畜産や水産分野への活用ですね」
石川の講義は、もはや止まらなかった。
「魔石の持つ生命活性化エネルギーは、植物だけでなく動物にも作用します。飼料に混ぜ込む、あるいは育成環境そのものに利用することで、その成長を促進し、品質を劇的に向上させることができる」
モニターに、美しい霜降りの入った牛肉と、大トロの寿司の画像が映し出される。
「魚の養殖においては、養殖場の水質を魔石で浄化・活性化させることで、魚の成長を促進し、病気への耐性を高め、その身質を格段に向上させます。『魔石マグロ』や『オーラサーモン』といったブランド魚は、高級料亭で珍重されています」
「家畜の育成においても同様に、飼料に混ぜ込むことで、肉質を柔らかくし、風味を豊かにする効果がある。これにより、世界の食肉文化は、かつてないほど豊かで多様なものとなりました」
エネルギー、インフラ、医療、食料。
人間の生活の、その全て。
それが、たった一つの小さな石によって支えられている。
その、あまりにも壮大で、そしてどこか歪な世界の真実。
それに、生徒たちはただ圧倒されるしかなかった。
石川は、そこで一度、大きく息を吸い込んだ。
そして、彼の声のトーンが、再び変わった。
それは、歴史を語る学者でも、元A級探索者でもない。
この世界の未来を憂う、一人の社会学者の声だった。
「このように、ほぼ万能の魔石をダンジョンからドロップさせるのが、冒険者ですね」
「これだけ用途が多いと、魔石の買い取り価格が高いのも、納得出来ますね」
「だが」と彼は続けた。
その瞳には、厳しい、しかしどこまでも真摯な光が宿っていた。
「悪い意味では、魔石に依存している社会構造になっています」
「我々の文明は今、あまりにも脆い土台の上に成り立っている。魔石の供給。その、ただ一点に全てを依存している。もし、何らかの理由で、その供給が止まったらどうなるか。…考えただけでも、恐ろしい」
「だからこそ」
彼は、教室の生徒たち一人一人の顔を、見渡した。
「君たちが、いるのです」
「多くの**社会学者は、冒険者の数が少なすぎるので、もっと増やすべきという意見も多いです。**この、あまりにも大きな需要に対して、供給を担う君たちの数は、あまりにも少ない。この学校が、国策として設立された本当の理由。それは、君たちのような才能ある若者を、一人でも多く、そして一日でも早く、この世界の『担い手』として育て上げること。それ以外には、ない」
その、あまりにも重い、そしてどこまでも真摯な言葉。
それに、生徒たちはゴクリと喉を鳴らした。
自分たちが、ただの学生ではない。
この世界の、未来そのものを背負っているのだと。
その、あまりにも大きな責任。
その重みに、誰もが言葉を失っていた。
静と美咲もまた、その言葉の本当の意味を、その小さな胸で、必死に噛みしめていた。