第28話
西新宿の冷たい夜風が、二人の間に心地よく吹き抜けていく。
神崎隼人は、水瀬雫から授けられたあまりにも的確で、そして力強い勝利への「方程式」を、その脳内で何度も反芻していた。
無限に撃てる、主力技。
大ダメージと隙を生み出す、必殺技。
そして、防御を回復と反撃に転化させる、サポート技。
この、三つの歯車。
それらを完璧に噛み合わせること。それが、E級ダンジョンという新たなテーブルへの、最低限の参加チケット。
「…助かった。あんたのおかげで、次に何をすべきか見えてきた」
隼人は、自らの最初の、そして最高のナビゲーターとなった目の前の女性に、静かに頭を下げた。それは、彼の心からの感謝の言葉だった。
「いいえ。私にできるのは、ここまでです」
雫はそう言うと、最高の励ましの笑顔を彼に向けた。
「その先、どんなスキルを組み合わせ、どんな戦い方をするのかは、全てJOKERさん、あなた自身が決めることですから」
彼女は、飲み干したカフェラテの空のカップを、そっと握りしめる。
「次の配信も、楽しみにしていますね。あなたの新しい『必殺技』、見せてくれるのを待っていますから」
そう言い残し、彼女はぺこりともう一度お辞儀をすると、静かに屋上を後にしていく。
その白いブラウスとベージュのスカートの後ろ姿が、非常階段の暗がりへと消えていくのを、隼人はただ黙って見送っていた。
一人になった、屋上。
静寂が、戻ってくる。
眼下に広がる光の海を見下ろしながら、彼は再び自らの思考の海へと、深く、深く潜っていった。
雫が示してくれたのは、あくまで「概念」と「方向性」。
それを、どう具体的な「形」にするのか。
どんなスキルジェムを選び、どんなサポートジェムでそれを魔改造していくのか。
その最終的な答えを出すのは、彼自身だ。
彼は踵を返し、自らのアパートへと戻った。
今宵、彼のもう一つの戦場。
『SeekerNet』という情報の海へ、再びその身を投じるために。
ギシリと軋む椅子に、再びその身を沈める。
隼人は、もはや手慣れた様子でSeekerNetの深淵へとアクセスしていく。
彼がまず向かったのは、『戦士クラス総合スレ』、そしてそのさらに奥深くにある、『3リンクスキルビルド考察スレ』だった。
そこは、彼のような駆け出しの探索者が、限られた予算と装備の中で、いかにして最大限の効率を叩き出すか、日夜、血の滲むような議論と研究が繰り広げられている最前線だった。
彼は、雫に教えられた三つのコンセプトを、検索窓に打ち込んでいく。
『通常技』『主力技』『MP効率』『永久機関』
『必殺技』『大ダメージ』『気絶』『隙作り』
『パリィ』『ブロック』『カウンター』『回復』
表示される、無数のスレッド。
その全てに、彼は目を通していく。彼の異常なまでの集中力と情報処理能力が、この情報の海の中からノイズを的確に除去し、本質だけを抜き出していく。
そして、数時間の探索の末。
彼はついに、三つの完璧な「回答」へとたどり着いた。
それはいずれも、過去のベテランたちが試行錯誤の末にたどり着いた、「テンプレ」と呼ばれる完成されたビルドだった。だが隼人は、それをただ鵜呑みにするのではない。その一つ一つの組み合わせの「意味」を完全に理解し、そしてそれが自らの戦闘スタイルに完璧に合致していることを、確信したのだ。
【通常技】無限斬撃
彼は、ある古参プレイヤーが投稿したビルド解説を、食い入るように見つめていた。
『いいか、新人。戦士の通常攻撃で最も重要なのは、火力じゃない。「安定性」だ。お前らがまず目指すべきは、「スキルを使えば使うほど、MPが逆に回復していく」という、永久機関の構築だ』
その投稿に添えられていた、スキル構成。
ベーススキルは、彼がすでに手にしている**【ヘビーストライク】**。
そして、それを支える三つのサポートジェム。
【マナ・リーチ】、【近接物理ダメージ増加】、そして【速度増加】。
『この構成の核は、マナ・リーチだ。敵に与えた物理ダメージの一部を、MPとして吸収する。つまり、お前の攻撃力が高ければ高いほど、MPの回復量も増えていく。近接物理ダメージ増加のサポートは、ただ火力を上げるだけじゃない。マナ・リーチの効率を、劇的に引き上げるための最高の相棒なんだ。あとは、速度増加で手数を増やしてやれば、もうお前のMPが尽きることはない。無限に剣を振り続けられるマシーンの、完成だ』
隼人は、そのあまりにも合理的で完成された理論に、深く頷いた。
「…これだ。一つ目は、これに決まりだ」
【必殺技】衝撃波の一撃
次に彼が見つけたのは、ボスやエリートモンスターを狩るための、必殺技のビルドだった。
『必殺技に求められるのは、ただのダメージじゃない。「戦況を支配する力」だ。一撃で相手の体勢を崩し、次の一手を生み出す。それこそが、必殺技の真髄だ』
その思想の元に構築された、スキル構成。
ベースは、彼の代名詞とも言える【パワーアタック】。
そして、それを魔改造する三つの悪魔的なサポート。
【衝撃波】、【残虐】、そして【気絶】。
『パワーアタックに、衝撃波をリンクさせろ。それだけで、お前の単体攻撃は全てを貫通する範囲攻撃へと生まれ変わる。ボスの後ろに隠れている厄介な魔法使いも、まとめて粉砕できる。そして、気絶のサポート。これはギャンブルだが、決まれば確実に相手の動きを止め、絶対的な「隙」を生み出す。そして敵のHPが半分以下になった時、残虐のサポートが牙を剥く。お前の最後の一撃は、神の一撃となるだろう』
隼人はそのあまりにも攻撃的で、ロマンに溢れた構成に、口の端が吊り上がるのを抑えられなかった。
「面白い。二つ目も、決まりだな」
【パリィ技】鉄壁の報復
そして最後に彼が見つけたのは、雫が語っていた究極のカウンター技の、完成形だった。
ベーススキルは、これも彼がすでに手にしている【パリィ】。
そして、その防御を攻撃と回復に転化させる、三位一体のサポート構成。
【ガード時にライフ回復】、【リポスト】、そして【クールダウン短縮】。
『もはや、説明は不要だろう。敵の攻撃が、お前にとっての最高の回復薬となる。そして、パリィの成功と同時に自動で放たれる、リポストの一撃。それは、お前のプレイヤースキルが高ければ高いほど、その輝きを増していく。敵は、お前を攻めれば攻めるほど、自らの墓穴を掘ることになるのだ』
隼人はそのあまりにも自分好みすぎる構成に、もはや笑うしかなかった。
「決まりだ。この三つで、俺はE級に挑む」
三つの、必殺のコンボ。
その完璧な設計図を手に入れた、隼人。
彼は満足感に浸りながらも、その探求心を止めることはなかった。
彼は、SeekerNetのさらに奥深く。
もはや初心者など誰も足を踏み入れないような、魔境とも言える最上位のビルド考察スレへと、そのサーフィンを続けていた。
そこは、彼がまだ理解できないような、神々の戯れの領域。
だが、その神々の戯れの中にこそ、彼をワクワクさせる未来の可能性が眠っていることを、彼は知っていた。
『なあ、このビルドどう思う?【うごめく瓶】で足元にワームを召喚して、それに【連鎖】サポートを付けたスキルを当てて、ボスにダメージを反射させるんだが…』
『【クリティカル時呪詛放出】のサポート手に入れたんだが、これ【剣の舞】と組み合わせたら最強じゃね?剣を振ってるだけで、周囲にデバフをばら撒けるぞ』
『誰か、【象牙の塔の鍵】持ってないか?あれがあれば、俺のマナ吸収ビルドが完成するんだが…』
意味の分からない、単語の羅列。
常人には理解不能な、狂気的なビルドの発想。
だが、隼人のゲーマーとしての魂は、その狂気の一つ一つに強烈に惹きつけられていた。
今は、まだ届かない。
だが、いつか必ずこの神々の領域へと、たどり着いてみせる。
彼は、そう心に誓うのだった。
夜が、白み始めていた。
隼人は、数時間ぶりにパソコンのモニターから顔を上げた。
彼の頭の中はもはや、完璧な青写真で満たされている。
やるべきことは、ただ一つ。
この三つの必殺技を完成させるための「パーツ」…つまり、サポートスキルジェムを手に入れることだ。
彼は、フリーマーケットでそれぞれのジェムの相場を調べ上げる。
どれも、それなりに高価だ。
彼が今持っている、16万5千円という大金。
そのほとんどを注ぎ込んでも、全てを揃えられるかは分からない。
だが、彼は迷わなかった。
これは、未来への投資だ。
彼の次なる戦場は、ダンジョンではない。
あらゆるスキルジェムとサポートジェムが取引される、巨大な「市場」。
彼はそこで、自らの交渉術と鑑定眼を武器に、最高のパーツを最も安く手に入れるための、新たなギャンブルに挑むのだ。
神崎隼人の頭の中は、今や完璧な、そして狂的なまでの勝利への設計図で満たされていた。
雫が示してくれた、三つの戦術コンセプト。
SeekerNetの無数の先人たちが、血と汗の果てにたどり着いた、三つの完成されたスキルコンボ。
【通常技】無限斬撃。
【必殺技】衝撃波の一撃。
【パリィ技】鉄壁の報復。
これらを完成させること。それが、E級ダンジョンという新たなテーブルへの挑戦権を得るための、絶対条件。
彼の次なる戦場は、もはやダンジョンではない。
あらゆるスキルジェムとサポートジェムが取引される、巨大な「市場」。
彼はそこで、自らの交渉術と鑑定眼を武器に、最高のパーツを最も安く手に入れるための、新たなギャンブルに挑むのだ。
翌日。
隼人は再び、山手線の騒々しい車両にその身を揺られていた。
向かう先は、新宿ではない。
混沌と欲望と、そしてお宝が眠る街、上野。
JRの高架下に広がる、あの治外法権のフリーマーケット。彼が一度はその身を投じ、そして勝利を掴んだ、思い出の場所だ。
前回、彼がこの場所を訪れた時、その手に握りしめていた軍資金は、わずか三万二千円だった。
だが、今は違う。
彼の銀行口座には、16万5千円という、彼にとっては天文学的な大金が眠っている。
彼はもはや、ガラクタの山から奇跡のかけらを探し出す、貧しい冒険者ではない。
明確な目的を持って、市場に乗り込んできたプロのバイヤーだった。
アメヤ横丁の喧騒を抜け、JRの高架下へと足を踏み入れる。
そこは相変わらず、混沌としたエネルギーに満ち溢れていた。
ベンダーたちの怒号。探索者たちの真剣な、値切り交渉の声。そして、そこかしこから漂ってくる得体のしれない食べ物の匂い。
隼人は、その胡散臭い空気に、むしろ心が落ち着くのを感じていた。
ここは、騙される方が悪い、自己責任の世界。
彼のギャンブラーとしての本能が、研ぎ澄まされていくのを感じた。
彼の目的は、明確だ。
三つの主力スキルを完成させるための、合計9つのサポートスキルジェム。
彼はまず、マーケットの入り口付近に店を構える、比較的に品揃えの多い露店から、見て回ることにした。
「へい、らっしゃい!兄ちゃん、何かお探しで?」
威勢のいい、しかしその目の奥が全く笑っていない商人が、彼に声をかけてくる。
隼人は、その商人の値踏みするような視線を意にも介さず、ガラスケースの中に無造作に並べられたスキルジェムを、吟味していく。
そのほとんどが、誰かが使い古した中古品だ。クオリティはゼロ。レベルも1のまま。だが、今の彼にはそれで十分だった。
「…【近接物理ダメージ増加】と【速度増加】。この二つで、いくらだ?」
彼が指さしたのは、戦士クラスの最も基本的で、ありふれたサポートジェムだった。
「おお、兄ちゃん分かってるね!そいつは、どんなビルドでも腐らない、鉄板の組み合わせだ!二つで、そうだな…特別に2万5千円でどうだい!」
「…高いな」
隼人は、冷たく言い放った。
「相場は知ってる。二つで、1万8千円がいいところだろ」
「な、何を言うんだい!こいつは、状態のいい中古品で…」
「あんたの店、もう半日客が寄り付いてない。その焦った顔を見れば分かる。1万5千円。それで、手を打ってやる」
隼人の、全てを見透かしたような言葉に、商人は顔を引きつらせた。
「……分かったよ。兄ちゃんの勝ちだ。1万5千円で、持ってきな」
隼人は、完璧な交渉で最初の二つのピースを手に入れた。
次に彼が向かったのは、マーケットの少し奥まった場所にある、薄暗いテントだった。
そこは、魔術師系のスキルや特殊なサポートジェムを専門に扱う、いかにも怪しげな店だった。
店主はフードを目深に被り、その顔を窺い知ることはできない。
隼人は、その店主が放つ独特のプレッシャーを感じながらも、臆することなく目的のジェムを探し始めた。
そして、彼はそれらを見つけ出した。
【衝撃波】、【気絶】、【ガード時にライフ回復】、【リポスト】。
どれも、彼のビルドの核となる、重要なパーツだ。
「…この四つ、いくらだ?」
「……お客様、お目が高い。いずれも、入手が難しい逸品ばかり。四つ合わせて、7万円でいかがでしょう」
フードの奥から、くぐもった声が響く。
「…足元を、見るな」
隼人は、言い返した。
「この四つのうち三つは、昨日のギルドの公式オークションで不成立になった、売れ残りだ。俺は、そのログを確認済みだ。四つで、4万円。それが、あんたにとっても、俺にとっても、妥当な数字のはずだ」
フードの奥の店主が、ピクリと動いた。
「…どこで、その情報を…」
「ギャンブラーを、なめるなよ。俺たちは、常に全ての情報を見てる」
長い、沈黙。
やがて店主は、静かに頷いた。
「…いいでしょう。4万円で、お譲りします。あなたのようなお客様は、久しぶりだ」
隼人は、再び交渉に勝利した。
残るジェムは、三つ。
【マナ・リーチ】、【残虐】、そして【クールダウン短縮】。
彼はマーケットを歩き回り、残りの軍資金と相談しながら、一つ、また一つとそれらを買い集めていった。
時には、ふっかけてくる商人を、ブラフで黙らせ。
時には、本当に価値のある掘り出し物を、相場よりも安く手に入れ。
彼のギャンブルで培われた対人スキルは、この混沌とした市場において、最強の武器となった。
数時間の探索と、駆け引きの末。
彼はついに、目的としていた9つ全てのサポートスキルジェムを、手に入れることに成功した。
彼がこの市場で使った金額は、合計でちょうど十万円。
一つ一万円強という、驚くべきコストパフォーマンスで、彼は自らの必殺技のパーツを全て揃えてみせたのだ。
彼のインベントリは今や、彼の勝利を約束する完璧な「デッキ」で満たされていた。
ベースとなる、三つのスキルジェム。
そして、それらを魔改造するための、九つのサポートジェム。
残された軍資金は、6万5千円。
これも、彼にとっては十分すぎるほどの額だった。
彼はアメ横の喧騒を後にすると、再び西新宿の自らのアパートへと戻った。
ギシリと軋む椅子に座り、彼はまるで大切な儀式でも執り行うかのように、インベントリからいくつかのジェムを取り出した。
ベースとなる赤色のスキルジェム、【ヘビーストライク】。
そして、それをサポートする三つの宝石。
【マナ・リーチ】、【近接物理ダメージ増加】、【速度増加】。
彼はまず、自らの長剣に唯一空いていたソケットに、【ヘビーストライク】をはめ込んだ。
そして、彼は祈らない。
彼は、神など信じていない。
彼が信じるのは、この世界の「ルール」と、そして自らの「運命」だけだ。
彼は、残りの三つのサポートジェムを、そのスキルジェムの周囲に配置する。
そして彼は、自らの魂に語りかけた。
(――頼むぜ、相棒)
彼の脳内で、イメージが加速する。
スキルジェムとサポートジェムが、光の線…「リンク」によって結ばれていく。
一つのスキルが、もう一つのスキルを増幅させ、その性質を変えていく。
足し算ではない。掛け算。いや、指数関数的な力の奔流。
彼の目の前で、四つの宝石が一つに溶け合い、そして新たな一つのスキルとして、再構築されていく。
【通常技】無限斬撃
ベース: ヘビーストライク
サポート: マナ・リーチ、近接物理ダメージ増加、速度増加
彼の最初のオリジナルスキルが、完成した瞬間だった。
彼は続けて、残りの二つのスキルセットも同様に組み上げていく。
【必殺技】衝撃波の一撃
ベース: パワーアタック
サポート: 衝撃波、残虐、気絶
【パリィ技】鉄壁の報復
ベース: パリィ
サポート: ガード時にライフ回復、リポスト、クールダウン短縮
三つの、必殺のコンボ。
三つの、勝利への方程式。
それらが今、確かに彼の手の中にあった。
全ての準備は、整った。
隼人は、完成した三つのスキルセットを満足げに眺めた。
もはや、彼に恐れるものはない。
いや、ある。
ダンジョンという存在そのものへの敬意と、そして死そのものへの恐怖。
だが、今の彼はその恐怖すらも楽しむ余裕があった。
最高のスリルは、常に死と隣り合わせなのだから。
彼は、椅子から立ち上がった。
そして、ARコンタクトレンズを装着し、配信のスイッチを入れた。
彼のチャンネルをお気に入りに登録していた数千人の視聴者たちが、一斉に彼の世界へとなだれ込んでくる。
配信のタイトルは、シンプルだった。
『――E級ダンジョン挑戦の時間だ』
その、あまりにも挑戦的なタイトル。
そして、そこに映し出された彼の、あまりにも自信に満ちた表情。
コメント欄はもはや、言葉にならない期待と熱狂の渦に包まれた。
隼人はその熱狂を背中に感じながら、静かに呟いた。
それは、彼を信じ、待ち続けてくれた全ての観客への、そして彼が倒すべき好敵手たちへの、宣戦布告だった。
「さてと」
「――最高のショーを、始めようか」




